私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

Slide 1
天風先生と登場者

中村天風は、昭和に活躍した思想家、実業家です。
天風会を創設し、現在でも多くの人々に影響を与え続けています。
天風先生と「私の履歴書」、また「天風会」などについて書いています。

中村天風とは

中村天風(1876年7月30日〜1968年12月1日)は、日本の思想家、実業家。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。

日露戦争の軍事探偵として活躍。当時、死病であった肺結核を発病したことから人生について深く考え、真理を求めて欧米を遍歴。 有名な学者や識者を訪ねるが、答えを見つけられず、帰国する途中にインドのヨガ聖者と出会う。そのままその聖者の弟子となり、ヨガ哲学の指導を受け、病を克服。 帰国後「心身統一法」を説き、多くの著名人から支持され“天風哲学”として広く世間に認められるようになる。

天風会とは

中村天風財団は、人間が本来生まれながらにもっている「いのちの力」を発揮する具体的な理論と実践論である「心身統一法」の普及啓蒙を目的とし、大正8年(1919年)に中村天風により創設された公益財団法人です。
全国各地に賛助会を組織し、どなたにもお気軽にご参加いただける講習会·行修会など各種セミナーを定期的に開催しています。

天風会のサイトはこちら

天風先生ゆかりの登場者氏名

「私の履歴書」に登場した810人(2017年3月現在)のうち、天風会または天風先生の名前をこの「履歴書」に書いてくれているのは5人です。今後も増えるでしょうが、月刊誌「致知」や週刊誌などに天風先生から影響を受けたと述べられている人は多くいます。

他に多くいるのでその人物をご紹介いたします。

現在天風先生を敬愛した人物としていつも名前が挙がるのが、松下幸之助氏と稲盛和夫氏です。しかし、このお二人とも「私の履歴書」の中には、天風先生の名前は出てきません。
けれども、宇野千代著「天風先生座談」の帯書きに推薦者として「‐人間として大切なもの‐ 誰しも倖せを求めながら、それを得られないのが人間の現実の姿。これはいったいどういうことであろうか。天風先生は波瀾万丈のその体験を通じて、生きるか死ぬかというギリギリのところで、その一つの答えを身をもって悟られた」と敬愛を込めて書かれています。
では、先生と松下氏の接点はどこであろうか?私(吉田)が興味を持ったのはこの一点でした。60年間の「私の履歴書」登場人物810人のうち、松下氏は社長62歳の時と相談役82歳の時の2回に亘って登場した唯一の人でした。

松下幸之助(松下電器産業社長:1894〈M27年〉 – 1989〈H元年〉)
掲載:社長時62歳(1956.8.19~8.26) 相談役時82歳(1976.1.1~1.31)
日本の実業家、発明家、著述家。パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた名経営者。異名は経営の神様。自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ人物です。

天風先生との関係:天風先生は1876年(明治9)生まれ、松下氏は1894年(明治27)生まれですから18歳の年齢差があります。「天風先生座談」の初版は、1970年(昭和45)ですから、天風先生が亡くなった1968年の2年後に当たります。松下氏は晩年の先生にお会いして心酔されたのだのだろうか?いや違う、きっとずっと以前に天風先生にお会いして、大きな影響を受けたものと思われたのです。
それでは、いつだろうか?天風哲学のどこに強く共鳴されたのだろうか?との関心が私には高まりました。天風先生著の「君に成功を贈る」の中に、松下氏が天風先生の講演を聴いたのは、先生が辻説法を始めた2年後の1919年(大正10)で当時27歳、「10人ばかりの徒弟工を使って電灯の線を結びつける仕事をしていた」時でした。しかし、先生の話を一生懸命に聴き、その講演の「受け取り方も他人よりはるかに内容量が多かったに違いない」と書かれています。この言及は天風先生から松下氏へのもので、松下氏から先生から影響を受けた言及は見つけることができませんでした。
しかし、いろいろ松下氏の言動を調べていると偶然にこれに該当する発見がありました。松下氏は昭和の初期に有名な水道哲学(水道の水のように低価格で良質なものを大量供給することにより、物価を低廉にし、消費者の手に容易に行き渡るようにしようという思想)など経営哲学を打ち出していますが。天風哲学との類似点は、この水道哲学を進化させた松下電器本社(現・パナソニック)ら3か所に建設したの創業の森「根源の社」の由緒書きから読み取ることができるのです。それには次の言葉が書かれています。

宇宙根源の力は、万物を存在せしめ、それらが、生成発展する源泉となるものです。その力は、自然の理法として、私どもお互いの胎内にも脈々として働き、一木一草のなかにまで、生き生きと満ちあふれています。私どもは、この偉大な根源の力が宇宙に存在し、それが自然の理法を通じて、万物に生成発展の働きをしていることを会得し、これに深い感謝と祈念のまことをささげなくてはいけません。
その会得と感謝のために、ここに根源の社を設立し、素直な祈念のなかから、人間としての正しい自覚を持ち、それぞれのなすべき道を、力強く歩むことを誓いたいと思います。

松下氏は神道、仏教、キリスト教などの各宗教に慣れ親しんだとされます。そして、経済的な面だけでなく精神的な豊かさの追求も重視しており、「物心ともに豊かな真の繁栄を実現していくことによって、人びとの上に真の平和と幸福をもたらそう」という理念のもと、松下電器産業、PHP研究所、松下政経塾を経営しておられたと思えます。
根源の社(こんげんのやしろ)は「宇宙の根源」を祀る宗教施設(社)ですが、松下氏が何を祈っているのかと問われたとき、「感謝と素直」だと謙虚に答えたと言われます。この根源とは、宇宙の根源であり、万物の創造主とも言えるので、松下氏も「最初は天祖大神と言ったけれど大神と言うことはいかん、ということで根源になったそうです。(PHP研究所谷口全平論文「根源の社」建設から)
この思想は松下氏の経営の根幹思想(哲学)として理解されていますが、天風先生の章句集「統一箴言」に書かれている「人の生命は、宇宙の創造を司どる宇宙霊(神仏)と一体である。そして人の心は、その宇宙霊の力を自己の生命の中へ思うがままに受け入れ能う働きを持つ。然もこうした偉大な作用が人間に存在しているのは、人は進化の原則に従い、神とともに創造の法則に順応する大使命を与えられているためである。・・・・」の言葉に強く影響を受けているように思えるのです。天風教義は、これを日々実践することによって、健康と幸福をわがものとし、真人として生きがいのある真人生を建設することです。天風会員たちが日々「感謝と喜び」の気持ちで生活することを指導されていますから、この松下氏の「宇宙の根源」や「感謝と素直」の考えは軌を一にする感じがするのです。

そうするとひるがえって天風先生との関係は、「根源の社」が1961年(昭和36:松下氏は社長時代)に創建されています。「真人生の探究」の初版は1947年(昭和22)です。松下氏は青年時代から天風先生の講話を聴き「受け取り方も他人よりはるかに内容量」を多く受け入れた結果の「根源の社」だったのでしょう。
天風先生は東京を活動拠点にしていましたが、関西地区(大阪、神戸、京都)にも毎年出向かれて講演や修練会を持たれていました。昭和48(1973)の天風会55周年当時には、関西では顧問に砂野仁(川崎重工業会長)、越後正一(伊藤忠社長)、佐藤義詮(大阪府知事)、百崎辰雄(ビオフェルミン相談役)などそうそうたる人が名を連ねていたので、若いときから天風先生に心酔していた松下氏もこれらの人たちと一緒に、天風先生の思い出話をされていたことでしょう。

天風先生の葬儀・告別式に参列され、葬儀委員長として弔辞を読まれたのは重宗雄三氏で、霊前への供花をされていたのは時津風・日本相撲協会理事長(元横綱・双葉山)でした。
重宗氏は、参議院議長を3期9年間努められ、その9年間にわたり参議院のドンとして君臨し、池田勇人・佐藤栄作両政権を支えた人物でした。その影響力の強さから、佐藤・岸信介とともに長州御三家と呼ばれ、その権勢から「重宗天皇」と称され、参議院は「重宗王国」とまで呼ばれていました。その重宗氏が、昭和44年1月の「志るべJNO.92号によると、概略次のように弔辞を読まれています。

「天風先生のお教えを受け、ご指導を預かるようになりまして20数年、先生の愛国の熱情には、常に強く胸を打たれました。こうしている今も先生の、あの独特の熱弁を忘れることができません。しかしながら、先生の偉大な教えは永く後世に伝えられるでしょうし、また伝えていかなければなりません。そしてそれが先生から教えを受けた我々が、先生のご高恩にお報いする唯一の道であろうと信じます。我々は、この悲しみを乗り越え真の人生に生きる者を一人でも増やし、共に手を携えて、先生の念願され、理想とされた明るい社会、住みよい社会、住みよい世界の実現に精進努力することを、先生のご霊前にお誓いするものであります」と。

また、「私の履歴書」には登場していませんが、運輸大臣も務め天風会理事長であった丹羽喬四郎氏は、「幸運にも先生のお教えを受けご協力を賜ること40年、性愚根愚鈍の身を何回となく、或いは病弱のため、または世上の転移途上で挫折せんとせし危機を、恩師天風先生のお力により、尊きお訓えをいただき脱しえて今日に至っているのであります」と別れを惜しまれている。また、岳父が岡田啓介首相で内閣書記官長や郵政大臣を務められた迫水久常氏は当財団の顧問および会員代表として、岳父の勧めによる入会の経緯と弔辞を述べられた。

次いで、外務大臣・厚生大臣などを歴任された園田直氏は評議員長および会員代表として、天風先生の言葉「天へ行くとして輝く日月に変わりはない。俺は月を見よと指をさして教えた。全国の会員に伝えよ、指を見ないで月を見よ、俺が指そうとも安武会長が指そうとも、ささるる真理の月に変わりはない。全国の会員に伝えろと賜った言葉は最期の言葉であります」と会員への再自覚と結束を呼びかけられたのでした。

この参列者は全国から集まった2百数十名で華族や有名な政治家、経済人、芸術家、アスリートもおられた。この人たちを見ると天風先生の人徳、人間の大きさに今更ながらびっくりしてしまいます。

へぇー、工芸家や建築家、芸術家はこんなに抜群の記憶力が良いのかと感心した事例がありました。

松田権六(漆芸家:1896(M29年) – 1986(S61年)) 掲載時84歳:1980.2.1~3.2
日本の蒔絵師。人間国宝。文化勲章受章者。石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科を経て1943年(昭和17年) 東京美術学校教授に就任、以後36年間そこで教鞭を取る。1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。漆工芸史に名を残す名匠として、「漆聖」とも称えられた。

松田がエジプト側の特別好意でクフ王の発掘物「太陽の船」を見せてもう機会があった。その際、エジプト国民にまだ披露していないから発表されると困るので、カメラ、メモ帳、スケッチブックなどを一切預けさせられた。彼は「私の履歴書」に次のように書いている。

ここでの見聞は興味深く感じ、説明中の数字は特に記憶し、船の構造、機能などしっかりと頭の中に刻み込んだ。ホテルに帰るとボーイに数枚の方眼紙、コンパス、三角定規など製図用具を頼んだ。夕方の4時ごろから縮尺を決めて方眼紙に太陽の船の縮尺図を描き始め、翌朝描き上げた。

ところが、同国の芸術局長・ヨーゼフ氏は、松田が約束を破り、禁じたスケッチをしたと激怒した。しかし、そうではなくて、頭の中の記憶に基づいて描いているので、時間を書ければもっと正確に何枚でも描けると弁明し、翌朝その通りの精密な縮尺図を見せたため、誤解は解けた。当時のフセイン副大統領は、「こんな人間は見たことがない。日本人がこんなに優秀とは知らなかった」と謝り、ホテル代一切がエジプト政府負担になり、あと4日で切れる滞在期間もその場で半年延長されることになったという。

松田はこの記憶術を中村天風師から学んだと「志るべ」に次のように書いている。

天風先生は軍事探偵なので、その任務の一つに敵情視察あります。その場合、鉛筆は勿論、写真機はいうに及ばず、スケッチさえも許されぬ状況の中で、瞬時に敵情をキャッチし、それを正確に報告されております。しかも敵中だけに命からがら逃げまわることも多々あったようです。この視察のポイントを先生の口から何回となく実感を伴って話していただいた。この記憶法を私は、これまで再三再四にわたって利用させていただいております。(天風会機関誌「志るべ」NO.175号)

 この記憶の会得法は、中村天風著「研心抄」第4章、第2節「官能啓発の実際習練法」に書かれている。そこには、聴覚、触覚を鋭敏にする方法を述べたのち、視覚の習練法に移る。「まず、後ろ向きに座って、他の人に十数個の品物(どんなものでもよい)を雑然と不規則に置かせて、よしっ!という掛け声とともにクルリと向きを変えてその品物を一瞬見て素早くまた後ろ向きになって、目に見えたそのままの品を何と何というようにする。もちろんこれも最初の間は並べられた品の何パーセント位かの僅かなものしか捕らえられないに違いないが、習練するに従い、次第にその全部を完全に一瞬で眼の底にはっきりと映し出されるようになれるものである」と。

 私はこの記憶法の実際を高校生の時、甲賀流忍者14代頭領の藤田西湖氏から見せてもらった。約1000人が集まる講堂で藤田氏から忍者に伝わる技術や能力を講演していただいたのだった。圧巻はこの記憶法で、藤田氏は目隠しをして壇上の前に立つ。その後ろには希望した生徒5人が黒板全体(縦5段、横20列)に数字をランダムに書き込んだ。そして藤田氏が「黒板全面に書き込みましたね。それでは、私が振り返って一瞬、その数字を見て、また目隠しをします」と言われた。そして氏は一瞬、数字を見たのち、目隠しをし直し前を向いて、後ろにある黒板の数字を「それでは、一番左上から順番に読み上げます。正しければその数字を消していってください」。最上段が済むと「次は最下段の右隅から読み上げます」と言い、だんだん数字を消して、最後の数字もいい当てられた。みんなはへぇーと感心するばかりであった。「忍者は聴覚、嗅覚、触覚、視覚を発達させ殿様などの上司に情報を正確に伝える任務を持つのです。現在でも範囲の決まっている試験ならこの記憶法ですべて満点が取れます」と言ってみんなを笑わせた。今、インターネットで調べると甲賀流頭領の藤田家は歴代、忍術で培った能力や技術を使って諜報活動に従事し、軍のスパイ養成所で指導に当たっていたようである。したがって、軍事探偵としての特殊訓練を受けた天風師が弟子の松田にこの記憶法を伝授したように思えるのです。

日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」が連載した61年間の登場者810人のうち、特に「志るべ」や先生の著書、講演などに出てくる人物として、広岡達朗氏「元ヤクルト・西武監督」がいます。その広岡氏がより具体的に、先生との出会い、感動、実践を書いてくれていますので、再現いたします。

広岡達朗(元ヤクルト、西武監督:1932年 – )    掲載時78歳:2010.8.1~8.31
広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督、野球解説者(評論家)。現役時代は読売ジャイアンツで活躍し、引退後は広島東洋カープ守備コーチ、ヤクルトスワローズヘッドコーチ・監督、西武ライオンズ監督を歴任した。監督としては、最下位球団だったヤクルトと長期に渡って低迷していた西武をリーグ優勝・日本一へと導いた。その後は千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーを経て、現在は野球評論家。

出会い: 2010年8月10日の「私の履歴書」には次のように書いている。
巨人へ入団して、2,3年目、守備に限らず、悩みが尽きないころ、知人にヨガの達人、中村天風先生を紹介してもらった。早速、東京都文京区・護国寺の修練会に行ってみた。羽織はかまで登壇して「天風であります」と言ってパーと投げる。「格好いいけれど、きざだなあ」というのが第一印象だった。
しかし、話をよく聞いてみるとうなずけることが多い。家族ぐるみのお付き合いをしていただくことになった。克己、祥子、信也という3人の名付け親にもなってもらった。
これを参考にしろと渡された勝負における誦句集、「今日一日、怒らず、怖れず、悲しまず。正直、深切、愉快に、力と勇気と信念をもって・・」はすべて覚えて、今でも暗唱できる。ことあるごとに相談に乗ってもらった。

感動:当時広岡氏は、グランドに出ると忽ちヤジられていました。その声が嫌でグランドに出るのも怖い状態であったので、相談すると、先生の考え方の基本は「心が体を動かす」だった。「人間の生命には本人が気づいていない強い力が潜んでいるが、消極観念にとらわれるとその力は引き出せない。勇気・積極思想が必要」と教えてくれたのでした。そのとき、与えられた勝負における「誦句集」と「真人生の探究」を繰り返し一生懸命に読んだ。そしてこれを読むうちに、「なるほどなァ」と感動し納得した。「よおし、俺もまず気持ちを変えることが大切だ」と実行を決心した。それから一層真剣に「真人生の探究」を毎年読み続けている。

実践:広岡氏は、天風先生から「勝負を決めるのは自分なんだ」「自分は駄目だと思えば駄目になる。大切なことは事に当たって如何に気持ちを入れ替えるかだ」とも教えられた。その入れ替えの方法が解らず、この本を読むと「観念要素の更改」が必要とあった。消極心を積極心に入れ替えるため、「自分は強くなる」「自分はできる」と寝る前に「自己暗示法」を活用した。そして守備や打撃力を向上させるには物事のタイミングである「間」を掴むために合気道や居合抜きにも熱心に取り組みました。

しかし驚いたことに、「真人生の探究」の初めに、「まず人間は何のために生きてきたか」、それは「人類の進歩と向上発展ために生まれて来たのであって、そうでなければ、何ら意味がない」の言葉でした。野球人にも「ここまで要求されるのか」の疑問です。けれど読むうちのこの真意が理解でき、試行錯誤しながら自分に厳しく対応したのでした。その結果、野球人生、監督時代にもこれを応用・実践した。それを次のように説明しています。

ただ好きな野球をやって太く短く、好き放題やって、それが駄目になったらやめてしまう考え方に、ぼくは賛成できません。やはりやるからには、きちっとした野球をやって、自分も幸せになり、しかも後輩を育て、この世に生きて幸せだったという気持ちで、野球をやめるべきだという考えなんです。(中略)。私はそこで意識改革を叫び、その方法として、まず積極観念を植えつけ「俺はできるんだ。俺は強くなるんだ」と暗示をかけております。

このような考えのもとで、最下位球団だったヤクルトや、長期に渡って低迷していた西武の監督を引き受け、モノの考え方の大切さを説き、たべものや夜更かし、深酒など選手にマイナスになる生活態度を徹底的に管理し指導しました。これらは全部この天風哲学から引用させてもらったと書いています。これにより両球団をリーグ優勝・日本一へと導くことができたのでした。
この考え方は野球人だけでなく、人間なら誰にも当てはまる素晴らしい実践の成果です。
(「志るべ」NO.285(昭和61年9月号) 「真人生の探究」こそすべてーわたしが推薦する“一冊の本”から )に詳しく書かれていますので再読されることをお勧めします。

著名経営者で天風先生を敬愛した人物としていつも名前が挙がるのが、松下幸之助氏と稲盛和夫氏です。しかし、このお二人とも日本経済新聞の「私の履歴書」の中には、天風先生の名前は出てきません。(天風先生と松下幸之助氏との関係については、「志るべ」2018年2月号に掲載させていただきました。)

 稲盛氏が「私の履歴書」でわずかに天風先生らしき人物を紹介しているのが、掲載最終日に「私は以前あったヨガの聖者の言葉から、自分の人生は80年くらいと勝手に思っていた」というくだりだけです。しかし、稲盛氏の月刊誌「致知」での巻頭言や著名人との対談で「リーダーの資質」「人の生き方」などについて、天風先生からも学んだ教訓を多く紹介されています。

 では、先生と稲盛氏の接点はどこであろうか?私(吉田)が興味を持ったのはこの一点でした。天風会「千葉の会」の副代表・高山詠司氏は千葉県の盛和塾佐倉の世話人でもあるため、盛和塾の機関誌に登場する稲盛氏の発言記録を送ってくださったので、これを参考に検証したいと思います。

稲盛和夫(京セラ名誉会長) 2001年3月「私の履歴書」掲載

1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の二男として生まれる。1955年(昭和30年)、鹿児島県立(現・国立)大学工学部を卒業後、有機化学の教授の紹介でがいしメーカーの松風(しょうふう)工業に入社。3年後退社し、京都セラミック(株)を8人の同志で設立。以後、京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者、公益財団法人稲盛財団理事長、日本航空名誉会長となり、名経営者として高く評価されている。

心の持ち方の気づき:稲盛氏は前掲の「私の履歴書」にも、機関誌「盛和塾61号」にも書いていますが、13歳のときに、肺湿潤という結核の初期病気に罹りました。そのときの結核は不治の病とされたので、本人は死ぬかもしれないと思いすっかり意気消沈します。熱に浮かされて病床に臥せっていると、お隣の奥さんが、「生長の家」の主催者・谷口雅春氏の「生命の実相」を読みなさいと貸してくれた。この本の中に「心に描いたとおりのことが、あなたの周辺に現象として現れます。心に呼ばないものは、決してあなたの周辺に現象として現れることはないのです」と書かれていた。氏はそのとき子供ながら思い当たることがあった。結核の叔父を身近に看病する父や兄はそんなに簡単にうつるものかと無頓着だったが、自分だけが結核を気にする心があった。この心が災いを呼び込んでしまったのではないか。そして、この本は「心のありようを考えるきっかけ」を与えてくれたと感謝している。

 同じ「盛和塾61号」(2004,10)に京セラを設立(1959:s34)して間もないころ、松下幸之助氏による「ダム式経営」の講演を聴いても、「心の持ち方=思い」の大切さに気付きます。「ダム式経営」とは経営がうまくいっているときに、ダムのように利益を貯め、必要なときにそれを使っていくというもの。ダムを造って貯めこみ、調節し、常に一定のお金を使っていくようなダム式経営をすべきだという言葉に電撃が走ったように衝撃を感じた。そして、「まず心に思う」ことがいかに大事かとその時に改めて気づいたと書いている。

 そして「しばらくして、私は中村天風さんの哲学に触れるようになりました。天風さんも心に思うことが大事だと、繰り返し説いておられました。『自分の未来に、決して悲観的な思いを持ってはいけません。自分には明るく、幸運に恵まれたすばらしい未来が必ずあるのだと信じて努力をしなさい』という天風さんの言葉に触れたとき、心に思うことが大事なのだと、私はさらに確信を深めました」と。そして京セラの経営12か条の3番目に「強烈な願望を心に抱く」を入れたのでした。

 機関誌「盛和塾76号」(2007.2)には塾長講和第68回が掲載されていますが、稲盛氏が京セラの社長(1966:S41)になったある年の新年、会社の初出勤の日、集まった社員にその年の方針として、「新しき計画の成就は只不屈不撓(ふくつふとう)の一心にあり。さらばひたむきに只想え、気高く強く一筋に」というスローガンを掲げた。実はこれは、中村天風さんの言葉からお借りしたものです。この言葉を毛筆でしたため、社内に貼りだしましたとある。

 また機関誌「盛和塾86号」には北海道の知床の会場で、ある塾生が塾長・稲盛氏に「どんな本を読めばいいですか」と訊ねたところ「中村天風師の『研心抄』がいいね」言われた。これを熟読していた堀口塾生は横線や二本線を引いたり、四角で囲んだり、丸や二重丸を付けたこの「本」を塾長に見せた。すると塾長は「この読み方はすばらしい。本というのはこうやって読むものです。こういう心に刷り込むような読み方で初めて著者の真意がつかめて身につくものです」と褒めてくれたと記す。そして堀口塾生は、この「本」から「利他を根本とする思いやり」を学び、「経営とは社員を守ること」に行きついたと語っている。

 機関誌「盛和塾93号」(2009.8)では塾長講和第89回が掲載されている。サブタイトルは「中村天風に学ぶ強い力」である。稲盛氏はここで、「特に心の問題で我々に教えを示してくれたのは、中村天風さんというヨガの修業をされた哲人です」と紹介し、次のように語ります。「天風さんは、人間の心というのは、もともとは尊く、強く、正しく、清いものだと言っています。こころがどういう状態であるかによって、その人の人生、その人の周辺に起こる現象がすべて決まってくるのですと。だから「苦しくとも、決して悲観的な思いを抱いてはならない」「不況のときこそ、積極的な強い心を持つ」「善き思いを『強く一筋に』抱けば、道は必ず開ける」、そして「「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきに只想え、気高く強く一筋に」と続けた。最後に、稲盛氏は、「精神論のように聞こえるかもしれませんが、天風さんの例にもあらわれているように、心のありようによって、人生や経営が大きく変わっていくのだということを私は本当に強く感じています」と締めくくられている。

 機関誌「盛和塾105号」(2011.4)では塾長講和第100回が掲載されている。タイトルは「日本航空の再建、および日本の再生について」である。この中で会社更生法適用申請を行った倒産企業再生の足跡を語っています。社員には「倒産した企業」として危機意識を持ち、「再建する」という強い熱意・願望・使命感を持ってもらうよう要請する。そのためには「採算意識を持つ」「善悪を判断基準にする」、そして「不屈不撓の一心で計画を成就させる」として、JAL社内のスローガンに「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきに只想え、気高く強く一筋に」をいたるところに掲示させました。まず、強い熱意と願望の心の持ち方が大事なのでこれを掲げ、次いで「採算(原価)意識」を持たせるために、部門別の採算を細かく見る経営管理手法(アメーバ経営)を採り入れた。これは航空路線の営業や仕入れなど利益部門だけでなく、研究開発や管理部門にいたるまですべてに適用するもので採算の意識改革に効果を上げた。などなどが述べられています。

天風先生との出会い:私(吉田)は、これほどまで天風先生を敬愛してくださる稲盛氏と天風先生の出会いの原点はどこにあるのかを考えてみました。それはきっとこの時点ではないかと想像するのです。それは「私の履歴書」に書かれている次の箇所です。

1959年(昭和34年)、松風工業から行動を共にした同志8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、結束のため8名の血判状にも署名した。そしてわき目もふらずに働き続けて1年目から黒字決算を果たす。

ところが創業3年目の1961年(昭和36年)、前の年に入った高卒社員11人が突然、「定期昇給とボーナス保証」の要求書を提出してきた。そして「この要求を認めてくれなければみんな辞めます」という。

小さな会社であり、彼らのまじめな勤務ぶりを稲盛氏は知っていた。就業時間は朝8時から午後4時45分となっていたが、実際には深夜まで残業が日常化していた。松風工業以来のメンバーは徹夜もいとわずという社員ばかりで時間の観念がなかった。

ただ、中卒の社員は夜間高校に通うため定時に帰らせる。それが高卒になると、当然のように何時間でも上司に付き合わされ、時には日曜まで駆り出される。そんな不満が積み重なっていたようだ。

稲盛氏がいくら説得しても、「毎年の賃上げは何パーセント、ボーナスは何カ月と約束してくれなければ辞めるだけだ」と譲らない。

そこで幹部とひざを突き合わせての交渉が3日間にも及んだ。氏は「来年の賃上げは何パーセントというのは簡単だ。でも実現できなければウソをつくことになる。いい加減なことは言いたくない」と誠意を込めて説得する。すると一人、そして一人とうなずき、最後に一人だけ残った。「男の意地だ」となお渋る一人に、「もし、お前を裏切ったら俺を刺し殺していい」と迫ると、氏の手を取って泣き出した。

この時、氏は初めて会社責任の重さと経営責任の永続性に気付いたのだった。それを次のように書いている。

そもそも創業の狙いは自分の技術を世に問うことであった。この反乱に出会って私の考えは大きく変わった。こんなささやかな会社でも、若い社員は一生を託そうとしている。田舎の両親の面倒をろくにみられんのに、社員の面倒は一生みなくてはいけない。これが会社を経営するということなのか。

この体験からこんな経営理念を掲げるようになった。「全従業員の物心両面の幸福を追求する」。私の理想実現を目指した会社から全社員の会社になった。生涯かけて追及する理念として、この後にこう付け加えた。「人類、社会の進歩発展に貢献すること」と。

 この時が稲盛氏にとっていちばん経営のピンチであった。この話し合いが決裂し、若い社員が大量に退職しても困るし、労働組合を結成し組織化して経営者側といつも対立する関係になっても、企業の順調な発展は阻害される。これを誠意と粘り強い説得とで相互の信頼関係を築きピンチを乗り越えた。これは稲盛氏の人徳・人格が若い彼らに信頼感を植え付けたことになり、以後の企業発展の基礎となるものとなった。

この5年後の1966(S41)年に稲盛氏は社長に就任されるが、その間「全従業員の物心両面の幸福を追求する」の経営理念はゆるがない。そしていろいろと哲学書、宗教書、経営書など人生や経営にプラスする本を読み、経営講演などにも時間を見つけて出かけられたと思う。

一方、天風会は1947(S22)に天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」を、翌48年に、心のあり方を説いた「研心抄」を、そして翌49年に、身体のあり方を説いた「錬身抄」を合わせ、3部作として出版している。そして外部活動として、天風先生(79歳)は1955(S30)9月に京都・黒谷本山にて補正行修会を開いたが、それ以前から神戸、大阪、京都地域には毎月講演会を持っておられた。1962(S37)には天風会は公益性が認められ「財団法人」となり、「真理践行誦句集」も刊行されたため、いっそう講演活動も活発化した。

 これらの天風会活動から、稲盛氏は社長になる前後に「真人生の探究」「研心抄」「誦句集」を熟読されたものと思われる。ここに出てくる「不屈不撓の一心にあり」は「研心抄」および「真理行修誦句集」の「自己陶冶」に掲載されており、「新しき計画の成就は、ただ不屈不撓の一心にあり」と書かれている。氏は「研心抄」をよく読まれ、黒の「誦句集」も緑の「真理行修誦句集」も身近において何度も復誦され経営の血肉にされたと容易に想像されます。

これがのちに「京セラフィロソフィー集」に結実する。「人間として何が正しいのかで判断する」「公正、公平、誠意、正義、勇気、愛情、謙虚な心を大切にする」などを決めた。その後もKDDIなど新しい事業に取り組む前に、「国民の利益のためにという使命感に一点の曇りもないか」「動機善なりや、私心なかりしか」を自分に厳しく問い詰めて着手し、多くの人の支持や協力を得て、事業成功に導いたのでした。

最近の著書「心。」をサンマーク出版から出された。「すべては“心”に始まり、”心“に終わる」という見出しで、いまでも「人生は心の持ち方が一番大切」と最重要視されている方である。了

私は今、ライフワークとしている日本経済新聞の「私の履歴書」に登場した全861名を読み返しています。そして各界のリーダーであるこの登場者が、「何を後世に伝えたい」のか、または「知って欲しい」のかを抽出・抜粋しているのです。その一環で、今回能楽狂言方の人間国宝・六世野村万蔵氏昭和53年(1978)2月登場を読み始めました。氏は、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開会・閉会式の総合演出責任者になっておられた二世野村萬斎氏の祖父に当たる人(万蔵氏の次男野村万作二世の長男)でした。そして、確かこの野村万蔵氏や落語家の三遊亭円生師匠は天風先生と親しかったのでは?と思いながら読み始めたのです。

するとびっくり仰天の3発見がありました。それを次に紹介します。

野村万蔵(能楽狂言方)「私の履歴書」昭和53年(1978)2月登場 

万蔵氏は1898年(明治31年)7月22日 に東京に生まれ、1978年(昭和53年)5月6日に79歳で亡くなっています。そして家系は、狂言方能楽師、五世野村万造の長男で、九世三宅藤九郎は弟になります。戦後の「第一次狂言ブーム」において、息子の万之丞(七世万蔵)・万作などの活動と共にクローズアップされました。氏の芸風は型に忠実なものでありながら、老年にいたって型にとらわれない飄逸さ・写実性を加え、名人として高い評価を受けました。また狂言面など古面を蒐集する一方で能面打ちとしても知られ、自作の能面や狂言面を多数残している方でした。

この「履歴書」記述には、「能と狂言」「狂言流派」「修行と芸」「出演時の心得」などがエピソードとともに詳しく語られています。いよいよ最終「私の履歴書」2月28日の冒頭に「芸の世界」で天風先生の名前が飛び込んできました。それが、つぎの文章です。

「あなたの舞台は、一応、結構に思うのだが、なにか物足りないものを感じる。人間が練れていない

ところがあるのではないか」といった投書が、ある時、私の家に舞い込んだ。私は「ウム……」とうなった。芸には性格が出る。私の欠点も現れる。私は気が短く、せっかちなことは自分でもよく知っている。

投書の主は「精神修行に、中村天風という先生の話を聞け」と書いていた。

行ってみると、三百人ぐらい入れる大広間の向こうに先生かおり、九十というがそうは見えない。至極元気で、その第一声が、

「お前たちは!」 ときた。

「生かしてもらっていることを、感謝しているか!」

 すさまじい剣幕に仰天したが、話の内容に聞きほれ、私は個人的にも相談するようになった。

「私は、おこりっぽくていけないんですよ」

「そういう時はケツの穴をしめろ」

 と言ったりする、面白い先生であった。先生はほどなくして他界されたが、私はこれを機会に精神

の充実を心がけた。

 さて、私か七十になったころである。なぜか急に、観客がこわくなった。舞台で体が震えてしまう。

狂言師として、まだ未完成の証拠と思った。医者は病気ではないというが、どうにも、この恐怖から

脱却できず、弱った。

で、人の勧めで高尾山の薬王院本坊で行われるという、万年青年会の夏季講習に参加した。会長の故宮田信念先生(「志るべ」註:夏期修練会に参加されていた天風会員)から、

「七十すぎてからここへ来る人はあまりない。あなたは見上げた人だ」

と、イヤにほめられた。先生の講義を聞いたあと、隅の方に、ハチ巻きして、もろはだぬいだ男が

いる。その人が、「野村さーん」と手招きする。昨年亡くなった宮入行平さんという刀匠である。

 私が、高尾山に来たわけを説明すると、宮入さんは、

「いや、私も同じなんだ。刀剣を焼く時には、精神統一が絶対必要なのに、心が乱れ、雜念がわく。

それを直しに来たんです」

 宮人さんの胸は、永年の刀工でやけどだらけである。炭焼きの重労働といい、名刀を鍛えるには、まずもって人間を鍛えなければならない。それは狂言の道も同じであると、今さらのように悟った。

 講義を終えた先生から呼ばれて壇上に登った。私は命ぜられるままに腕を出した。「痛くないぞ!」と、先生は気合もろとも太い針でプスリと私の腕を刺し貫いた。

 「痛いか?」

 「いえ、少しも」

 「痛くないと思えば、痛くない」

と言って針を引きぬいた。血管を避けているとみえて血も出ない。そんな教えを受けて、私の恐怖感は、次第に薄らぎ、今日では舞台へ出てもどうやら震えなくなった。いずれにせよ、芸の修業に終わりはないのだ。

 狂言は、象徴的な能と、写実的な芝居との中間を歩いているような芸で、そのどちらへもよろめき

たがる危険性がある。だから基礎訓練が厳しいのであろう。

(中略)

狂言は、まだまだこれからの発展に期待できる芸であると、私は思う。伝統芸であるから、時流に

沿うような改め方、崩し方は慎まねばならないが、その中でもやはり進歩は必要だと考える。同じ型

の中に、個人差、個性があり、それが芸の世界であり、型だけやっているのは死物といえよう。それ

は前にも言った活字と肉筆の違いである。・・・

これらの記述が冒頭テーマの「芸の世界」が「常に進歩を心がけて」に繋がっているのですが、びっくりしたのはこれを読んだ後です。

びっくり3発見

1.こんなに天風先生と行修風景を詳しく描写した「私の履歴書」登場者は、広岡達朗氏(元ヤクルト、西武監督)以外にはいませんでした。広岡氏はこの中で夏期修練会や「真人生の探求」「誦句集」を具体的に挙げられて天風先生と天風会を紹介してくれていたので、同じびっくりでした。

2.「志るべ」にも野村氏の「寄稿があったはず」と思い天風会事務局のご厚意で調べると、昭和53年(1978)4月の「志るべ」184号に載っていました。びっくりしたのは「私の履歴書」に登場は同じ昭和53年2月登場の最終回記載内容と、4月の「志るべ」184号に載っていた文章が全く同一だったことです。違っていた箇所は故宮田信念先生に「志るべ」註釈があっただけでした。

3.さらに驚いたことに、この「志るべ」4月掲載の1か月後の5月6日に野村氏は79歳で亡くなっていたのです。天風先生と同じく、最晩年まで常に「進歩と向上」を心がけて生涯をまっとうされた方だと感動したのでした。

私は今、ライフワークとしている日本経済新聞の「私の履歴書」に登場した全870名を読み返しています。そして各界のリーダーであるこの登場者が、後世に「何を伝えたい」のか、または「何を知って欲しい」のかを抽出し要約しているのです。今は未読の経営者を昭和60年代まで読み進めてきましたが、素野福次郎(TDK会長)氏が登場の昭和61年(1986)3月4日、初日冒頭に天風先生の名が出てきました。びっくりでした。いままでの登場者は「私の履歴書」記載の中頃や最後の方に名前がでるのが普通でしたから・・・。この初日の「書き出し」文章はこんな始まりなのです。

宇野千代先生の著書に、『天風先生座談』という本がある。天風先生こと中村三郎を「一生にただ一度めぐりあった人」という宇野さんが、亡き天風先生の講話をより多くの人に知ってもらいたい、とまとめたものである。

中村三郎という人は、華族出身で軍事探偵になり、アメリカで医学博士号を得た。その後、インドでヨガの直伝を受け、中国革命にも加わって、孫文政権の最高顧問になったという、数奇な運命の持ち主である。

 天風先生の講話は体験に基づいた軽妙な口調で、説くところも禅に近く、全く私心がない。「会う人は、皆先生」といった生き方にも深く感じ入って、この本を読んだ私は、他の人にも読んでもらいたくなり、出版社に問い合わせた。ところが、初版が発行されてから十五年もたっており、在庫がないと言う。そこで、千部買い取りということで新たに刷ってもらい、会社内外の人たちにお配りしたこ とがある。

 よけいなおせっかいと思われるかもしれないが、小さいころから読書の習慣を身につけた私は、本によってものごとの真実を教えられ、先輩、友人など多くの人々とのご縁によって半生を歩んできた。それだけに、優れた著書や人物に接すると、人に紹介せずにはいられないのである。

素野氏は昭和12年(1937)に入社したが、創業後間もない当時の従業員はわずかに4人でした。入社後は一貫して営業部門を担当し、松下電器産業(現・パナソニック)など大口の取引先を開拓。昭和44(1969)年には社長に就任。積極的な海外進出でTDKを世界最大の磁気テープメーカーに育て上げ「中興の祖」と呼ばれた。氏が掲げる「企業は道場」の箴言は社長時代のものですが、

人から企業が成長するための秘訣を、と問われると「家庭も学校も当てになりませんので、企業で教育をしなくてはね。企業は道場ですよ」と語っていた。当時、TDKでは管理職ポストの4割を他社からの移籍組が占めていたことから、社内の結束を強化するため社員教育に力を入れていた。それを「私の履歴書」では具体的に「人材育成を制度化する」として次のように記載している。

昭和44年(1969)1月、山﨑貞一社長が会長になり、専務だった私はTDKの第3代社長に就任した。社長として最も力を入れたのは人材の確保である。「企業は人なり」とはよく言われるが、経営者の大きな役割は質の良い社員を養成し、企業としての社会的使命を果たすことである。私は社員教育に力を入れた。

 48年(1973)に人事部と教育課を統合して人事教育部としたのもそのためである。人事は社員の能力開発のためにやるもので、人事制度そのものが社員教育という思想である。従って新入社員の採用も、現場からの要求数ではなく、教育できる範囲の人数を採る。何しろ大卒の新入社員でも、3年間は専任の先輩を付けて教育する。先輩は教育の報告書を出さねばならないし、1年ごとに社長や担当役員が新入社員の質問に答える機会を設けているから真剣に取り組む。

 社員教育の対象は幹部社員にまで及んでいる。46年から始めた制度に、経営補佐レベルの管理職を対象にした1か月の自由研修がある。1か月休暇を与えて、その間何をしようが自由。リポートを見ると「海外へ出て英会話をマスターした」「東京から青森まで自転車で走破した」「高校野球を全部記録した」と、さまざまである。

素野氏はこのユニークな制度で多くの人材を育成されたが、その中にTDKから二人目の澤部肇氏が2019年12月「私の履歴書」に登場した。その澤部氏は、「TDKはコストではなく価値で勝負する会社に生まれ変え、①新製品比率30%以上、②シエアトップ製品50%以上という目標数値に落とし込んで会社を牽引した」と書いている。それが実り、現在では30以上の国や地域に250以上の工場を持つ、経営のグローバル化が進み、海外売上比率は9割を超え、海外株主比率も4割に達する超優良企業となって発展し続けている。

 やはり「企業は人なり」でTOPの人物次第で企業は大きく成長します。企業の経営資源は「ヒト、モノ、カネ、情報」と言われますが、世の中がデジタル化、脱炭素社会化を目標に定め、大きく激動しているときですから、企業や組織は有能な人材を育成することが、最重要課題となっています。天風会もコロナ禍で従来のような活発な活動はできませんが、若人や女性会員の増加・育成を図らねばなりません。若い人たちもこの複雑化した現在を「どのように生きるか」を模索されていると思います。そのきっかけとして、素野氏のように各自が「天風先生座談」や「運命を拓く」など勧めやすい文庫本を若い有能な人にプレゼントしてはいかがでしょうか。若い人に早く天風先生の考え方や生き方を学んでもらいためです。きっと貰った人はその本から人生の生き方や考え方に共鳴して貰えると信じます。既に「もう、今までにずいぶん配ったよ」という人が多いと思いますが、今回は子供や孫の友人を含めて若い人を対象の提案です。

 余談になりますが、私(吉田)が澤部氏に執筆後の2020年1月に、「先輩の素野社長が宇野千代さんの「天風先生座談」を社内外の多くの人に配られたとありますが、当時読まれましたか」と拙著「私の履歴書」61年の知恵―を恵送した際に質問しました。すると、澤部氏から「感動して読ませていただきました」との礼状が届きました。澤部氏も天風先生の生き方・考え方を経営に生かされたのですね。

天風先生を敬愛した「私の履歴書」登場者を今まで「志るべ」に6回(6人)寄稿しています。

  • 松下幸之助氏・・天風思想と同根の「宇宙の根源」        志るべ2018年2月592号
  • 重宗雄三氏・・・・天風先生への弔辞                            志るべ2017年11月589号
  • 松田権六氏・・・・・天風先生は忍者の記憶術                志るべ2017年12月590号
  • 広岡達朗氏・・・・・自己暗示法を活用する                    志るべ2018年1月591号
  • 稲盛和夫氏・・・・・天風教義を経営に生かす                志るべ2020年2月616号
  • 野村万蔵氏・・・・・芸の世界「常に進歩と向上を」     志るべ2021年9月635号

これらを私のホームページにも掲載しています。URLは下記のとおりです。

HOME | 吉田勝昭の「私の履歴書」研究 ー 私の履歴書から得られるもの (biz-myhistory.com)

お暇なときに観ていただければうれしいです。 了

天風先生の「成功の実現」を読んでいると、第3章「悟入転生―天風自伝」に芳澤謙吉氏が出てきます。天風先生は日露戦争の時に軍事探偵として、幾多の死線を乗り越えるほどの強靭な精神と肉体の持ち主でした。しかし、終戦後結核を発病し心身ともに弱くなったことから人生を深く考えるようになり、人生の真理を求めて欧米を遍歴することになります。そのとき、天風先生がアメリカ・コロンビア大学の留学時とその後、ロンドンに渡る際にお世話になったのが芳澤謙吉氏でした。当時のことを次のように書かれています。

最初、私はアメリカだけを目的にして、5万円しか持っていかなかったんだ。今の5万円じゃないですよ。今の5万円は乞食だって持っているけど、昔の5万円といったら大したものですぜ。1万円持って行ったらね、女中ひとり使って、何もしないで銀行の利子で食えた時代なんだ。1万円で。

ところが、アメリカって国が今の日本よりもまだ物価が高いアメリカへ行って半年経たないうちに金が無くなっちゃった。旅で病み、その上、金が無くなったときぐらい心細いものはないぜ。旅でなくたって、銭が無くなれば心細い。ましてや天涯孤独の旅、いつ何時死んじまうか分からない旅だ。

でもねぇ、ありがたいことには、多少なりとも英語がしゃべれて、支那語がしゃべれただけに、銭が全然なくなったときも、支那人の通訳になった。この橋渡しをしてくれたのがアメリカ公使館の書記官をしていた芳澤謙吉君(注、後の外務大臣・中村天風師の親族)が言ってきたのだ。

それで通訳の8か月の間、8千ドル(月千ドル)もらって、中国人留学生のために学位をもらったものだから、また別にお礼に8千ドルくれた。だから当時の8千ドルが2倍になった。アメリカの8千ドルよ。日本の8千円じゃない。それがあるからこそ、イギリスに行き、ベルギーに行き、フランスに行き、ドイツに行けたわけだ。

それにしても、天風先生は8か月でコロンビア大学の医学博士学位を取るのは驚くべき才能ですが、疑いたくもあります。しかし、「1911年に孫逸郎という支那人の名前で学位をもらった人間が記録に残っている」と杉並区永福町の漢方医院・橋本昌枝さん(女医)の友人(コロンビア大学の先生)から報告があった、と書いています。

これから芳澤氏の「私の履歴書」による特異な経験談を紹介します。

芳澤謙吉(元外務大臣) 「私の履歴書」1957年(S32)11月 執筆時84歳

1874年〈明治7年〉1月24日 – 1965年〈昭和40年〉1月5日)は新潟県生まれ。外交官、政治家。大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。妻の操は内閣総理大臣等を務めた犬養毅の長女であり、犬養内閣では外務大臣に起用された。外務事務次官や駐アメリカ合衆国特命全権大使を務めた井口貞夫は娘婿である。

1.明治天皇御大葬を担当する

私は明治天皇御大葬の事務官に任命された。明治天皇崩御は各国に非常に衝動を与えた。9月13日御大葬には各国の偉い人が特派されて参列した。英国からは英国皇帝の従弟アーサー・オブ・コンノート殿下、米国からは国務長官ノックス、独逸からはブリンツ・ハインリッヒ(カイザーの弟)、仏国からは元外務大臣ビションといった人々である。

 日本政府は接待員ことに委員長の選任については非常に意を用いた。たとえばコンノート殿下については接待委員長の乃木大将で、接待員として海軍から阪本俊篤海軍中将と私がでた。御大葬は13日夜すんだ。私ら接待員は御大葬が済んでから自宅に帰り、翌朝伏見宮邸に出頭したところ、乃木委員長自殺と夫人も殉死された報道を聞いてびっくりしたのだった。

この乃木(まれ)(すけ)大将は、明治天皇に対し、日露戦争で多くの死傷者を出したことを、(じ)(じん)をもって、お(わ)びしようとしていた(日露戦争では二人の息子も戦死している)。その時、明治天皇は乃木希典大将を思いとどまらせたという伏線があった。乃木大将は天皇崩御の知らせを聞き、ずっと自害を考えていたが、御大葬までは「軍人らしく責任を全うしよう」と覚悟したものと思われる。現代では、想像もつかない思いだが、芳澤氏はこの事実を時代の記録として後世に残したかったのだろう。

また、乃木大将の遺書は岩田宙三(元法相)が受け取り、「私の履歴書」1957年8月執筆で紹介している。

2.五・一五事件(岳父死す)

昭和7年(1932)5月15日は日曜日で好天気だった。私は久しぶりにゴルフに出かけた。夕方官舎に帰ってきた時、家族のものが「向かい側総理官邸に何か出来事があったようだ」というから、私は早速行ってみた。官邸は警察などがあわただしく騒いでおり、応接間に入ると犬養総理は頭部を負傷していて、頭に手を当てていた。聞けば海軍将校が乱入して、ピストルを射撃したということだった。

 私は驚いて海軍大臣に電話をかけてその旨を伝えると、大角海相も驚き「さっそく対応処置をとる」といった。騒ぎは大きくなり、全閣僚、政友会の人たちが集まり一時は戒厳令のうわさまで飛んだが、その晩犬養総理は負傷のため78歳を最期として世を去った。この犬養総理の死・・・つまり五・一五事件に絡んでいろいろな流言が伝えられ、また事実幾つもの秘話はあるが、ここではそれについて述べるのは避ける。

Wikipediaによると、海軍青年将校率いる第一組が5月15日と決行日とされたのは、陸軍士官候補生が満州視察旅行から戻るのが前日の14日であり、15日は日曜日のため休暇外出することが出来るし、また来日中のチャールズ・チャップリン歓迎会が首相官邸で行われる予定のため、首相が在邸するはずであるとの理由であった、とある。それにしても芳澤氏は岳父・犬養総理の死を身近に見て、総理官邸の全閣僚、政友会の重鎮たちの混乱ぶりを書き記している。本当はここ書かれている「事実幾つもの秘話」は身内しか知らない秘話でしょうから紹介したかったのでしょうが、紙面の都合で割愛したのは惜しまれます。

医師が解説する「医学的クンバハカ考」

 細野周作医師がヨガの密法クンバハカについて2018年4月22日に千葉で講演してくださったものを動画で開示いたします。
 クンバハカ密法は、心身統一法の全ての行法の基礎となる基本行法です。神経反射の調節法とも呼ばれ、心身の両面にすばらしい効果があります。
 肉体面では、有害ストレスを撃退し、精神面では心の動揺を平静化します。肛門をグッと閉め上げ、同時に肩の力を抜き、下腹(丹田)に気を込める行法です。

米津先生引率の滝行

1998年2月22日

真冬の滝行「とりふね社」

天風会の重鎮・米津千之先生が引率の冬滝行に参加しました。私が56歳のときで、2月の厳寒日です。寒い寒いと言いながら炬燵に引きこもりがちな毎日でだったのですが、当時は毎月1回、天風会員で滝行クラブの人たちと秩父、丹沢、赤城、筑波山麓を巡回しながら修行を楽しんでいました。動機は「心身を鍛錬して且つ頭が良くなる」という甘言に誘われたからでした。最初の2年ほどは冬を除いての参加でしたが、米津先生から「本当の滝行の良さは2月の参加である」と言われ、意を決して秩父・三峰山「清浄の滝」に参加しました。

雪道を踏みしめ滝に到着すると、雪のない岩は凍っており、滝となって水が流れていない岩の上のほうはツララが一面に垂れ下がっていました。あまりの凄さに一瞬もう帰ろうかと思いましたが、6割が女性の参加者で彼女らはきゃっきゃっと喜んでいましたので仕方なく装束に身を固めました。20人ほどの参加者が順番に滝に入り、篠原リーダーの指導のもとに修行を行います。滝を頭頂に受けたときは春や夏の水の冷たさとは全然違っており、一瞬にして脳震盪を起こしたように頭の中が真っ白になり何も判らない状態になりました。わずか5~6秒で滝から出されたと思いますが、足元がふらつき持ち場に帰ってくるのがやっとでした。このビデオでは、私が2番目に登場します。

外気温は3~4度ですが、水を浴びた後はその水が体温を奪って滴となり、岩にポトポトと落ちると、岩の冷たさでその水がゼリー状の氷となります。体は冷えて足はがくがく震えが止まりません。参加者全員が滝から出てくるまで40分ほどかかりますがその間、震えながら気を送り続けなければなりませんでした。しかしそれが終わった後の焚火と温かいコーヒーの味は忘れられません。米津先生からこの効果は心身の鍛錬と一年中風邪を引かないということでした。もう仲間たちと滝行に行く元気はないですが、この日以降、現在に至るまで、真冬でも毎朝冷水浴びをしています。暑い毎日が続きますが、みなさまにこの映像で涼風を送ります。

吉田勝昭