私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

天風先生も関与の終戦秘話(昭和20年8月14日~15日)

「私の履歴書」を読むと、日本の新しい出発点となる昭和20年(1945)8月15日前後を書いている人が多い。
日本にとっても本人にとっても人生の大きな転換点だったからでしょう。そこには政治家、軍人、高級官僚、侍従職、皇族の方もおられた。

自著第2弾「人生を『私の履歴書』から学ぶ」のうち、第5章の「激動の歴史の中で生きる」の中に、それらの人たちが激動する状況下でどのように対処していったかを知ることで、私にとって生き方の参考になりました。
この本の原稿を書き上げたとき、天風会員の小島豊さんから「天風先生も8月15日には皇居にいて反乱軍を鎮めるのに一役かったそうです」と言われ、その資料をいただきました。
これは天風先生が昭和35年(1955)8月13日の神戸修練会で講演した録音記録でした。これを読んでみると「私の履歴書」登場人物の証言と時間的にも皇居内の状況も天風先生の発言は、信ぴょう性があると確信したのでした。

これを半藤一利著「日本でいちばん長い日」の時系列記述と前掲「楽しむ」欄の「歴史的証言」に登場した人物・町村金吾(警視総監)、下田武三(外務省条約局課長)、入江相政(宮内庁侍従)の証言を照合しながら検証してみました。

時代背景

1945年7月、太平洋戦争末期。連合国は日本にポツダム宣言受諾を要求。無条件降伏か、それとも本土決戦か。連日連夜、閣議が開かれるが議論は紛糾していました。
8月6日に広島に原爆投下、8日にソ連が日ソ中立条約を破棄し宣戦布告、そして9日に長崎に相次いで原爆が投下され、事態はますます悪化の一途になっていました。

8月9日の御前会議では、無条件降伏は軍隊であって国家としてではない。それなら日本国の存在がなくなることはないとして、日本国は厳重に主権を保持しつつ戦争を終結しうるので、ポツダム宣言を受け入れることとなりました。
しかし、阿南惟幾・陸軍大臣は「陸軍としては、このままここで戦争を終結することになれば、国体の護持について確信が持てないので反対」と強硬に主張。これに同調する意見もあり、閣議不統一で休憩となり、結論が持ち越された。
そして決断すべき最後の日の14日となります。

8月14日

10:50・・・・御前会議(御文庫地下室:現在の吹上御所近く)
(天皇の招集で終戦のご聖断:閣僚+陸・海総長および軍務局長、書記官長ら23名)

12:00・・・迫水書記官長・記者会見(終戦ご聖断の内容説明)

13:00・・・閣議(終戦の正式決定・全閣僚の賛成が前提、降伏詔書文案で紛糾)
「戦勢日に非ずして」を「戦局好転せず」に阿南大臣が強硬主張・閣議中断
・迫水書記官長→詔書案作成(安岡正篤を招いて)

15:00・・・阿南陸相(陸軍本部に一旦帰り、幹部将校らに天皇のご聖断説明
・「従えぬなら、わが屍を乗り越えて行け」と言明)

15:50・・・町村警視総監は木戸内相に一部軍部に不穏な動きあるが治安維持を約束

16:00・・・閣議再開(文案決着「戦局好転せず」に米内海相が同意)

17:00・・・終戦決定(陸軍司令→全軍に→軍司令部・近衛師団にも)

21:00・・・NHK「翌正午に重大発表あり」を放送する
・閣議(清書された詔書への全閣僚押印)→印刷局→官報号外公布

22:00・・・外務省→ポツダム宣言(下田武三)受諾電報発信(連合軍側に)

23:00・・・阿南陸相→鈴木首相にご心労をお掛けしたお詫び(葉巻進呈:暇乞い)

23:35・・・陛下は玉音放送を録音・2度おこなう(宮内庁・御政務室で)

23:40・・・近衛師団参謀室(近衛師団長説得を最優先に、「ダメなら斬る」の総意)
(古賀参謀、石原貞吉参謀(少佐)、井田中佐、椎崎中佐、窪田中佐、畑中少佐)
畑中少佐→井田中佐に森・近衛師団長の説得要請

8月15日

00:10・・・玉音録音盤(徳川侍従:皇后官職事務官室の軽金庫に保管)
・竹下中佐→義兄の阿南陸相に戦争継続の説得→拒否される
・井田中佐は森赳(たけし)近衛師団長に説得を試みるも時間切れ
・森近衛師団長・白石中佐(義弟)殺害さる(畑中少佐、椎崎中佐の手で)
・古賀・石原両参謀が師団長命令書作成→東部軍不破参謀に電話(近衛師団決起)
不破参謀はこれを田中静壱軍司令官に近衛師団決起を報告

00:30・・・水谷近衛師団参謀長・井田中佐と一緒に東部軍田中静壱司令官への説得も
(森師団長死・近衛師団決起)の情報を既に得ていたため、同意得られず

01:30・・・畑中少佐と椎崎中佐は皇居内警備指令所(本部)芳賀近衛2師団連隊長に
ニセ命令書で(皇宮警察の武装解除、正門、坂下門など各御門の閉鎖命ず)
・下村情報相、大橋NHK会長ら放送技術16名が軟禁(警備指令所内地下)
・叛乱軍目標(陛下の擁立、録音盤の確保・放送は絶対させない)
・井田中佐は畑中少佐に(軍司令官説得の失敗報告、計画中止を勧告)
(畑中少佐→録音盤奪取を急ぐが、近衛兵でも庁内事務部門の表札が式部職・賞典職・宗秩寮・内匠寮・蔵寮であり、侍従部門は内舎人室、縫手室などの名称では職務内容が把握できず。また、侍従の服装も宮内服で同じのため階級などが判らないため狼狽した)

天風先生は大谷皇宮警察部長室に居て、首謀の石原参謀(少佐)以下15~16名が抜刀・乱入して、玉音盤捜索の要求に対し、説得し退出させる

02:00・・・日比谷放送会館封鎖:近衛1師団が武装・着剣で銃剣を突きつけ生田NHK常務理事ら60名軟禁

03:00・・・近衛兵宮内庁に侵入(将校は抜刀、兵士は着剣した銃で踏み込む)
・木戸内相(御璽保有)、石渡宮相ら女官地下室(金庫室)に隠れる
(入江侍従・御文庫内で就寝中、徳川・戸田侍従にたたき起こされ鉄扉を全て閉じる)

03:30・・・軍部板垣・不破参謀→近衛師団石原参謀と会い(森師団長の死亡確認)
・軍部・高嶋参謀長―>近衛師団全体に田中司令官の軍命令を発す

04:00・・・軍司令→皇居内の芳賀近衛連隊長と畑中少佐に皇居警備解除令を出す

04:20・・・首相官邸(機関銃音)→鈴木貫太郎首相避難(迫水書記官長の機転)
・徳川侍従(録音盤応答で兵士から殴打:自分を切っても何にもならぬ)

05:00・・・NHK放送開始時に畑中少佐「5分間の軍部意見を入れさせろ」と強要

05:10・・・田中軍司令官出動→近衛師団本部に行き渡辺連隊長に事実を述べ恭順さす(主犯格の石原参謀をこの時点で検挙)
・田中司令官・皇居に行き:芳賀近衛第2師団連隊長に皇居撤収を直命
(同時に藤田侍従長に治安維持確保の報告→侍従長が陛下にこれを報告)
・日比谷放送会館を解放:生田NHK常務理事ら60名軟禁・解ける

05:30・・・阿南陸相・遺書2通(割腹自殺・介錯無用:竹下中佐、井田中佐が見守る)

06:00・・・天風先生・田中司令官・大谷部長と宮内庁玄関脇の自決者の確認と近衛兵5名に清掃を指示

07:00・・・警備指令所の下村情報相ら軟禁16名も解放、近衛師団→皇居引揚げ

08:00・・・御文庫の金庫室から木戸内相、石渡宮相も安堵して出てくる

10:00・・・録音盤→放送会館へ(副盤は紫袱紗・先頭車、正盤は麻袋・後列車で)

11:00・・・枢密院会議(枢密院顧問14、政府:首相・外相・法制局長の3)開催

11:20・・・畑中少佐、椎崎中佐(皇居前芝生で割腹・拳銃自殺)両名・辞世の句あり

12:00・・・玉音放送される

(「日本でいちばん長い日」半藤一利著より、抜粋)

なぜ天風先生は皇居にいるの?

当時、先生は「戦争は罪悪だ、不合理だ、不正義だ」と言っていたので、講演の際には私服の憲兵隊が常時付きまとっていました。
そして要注意人物として、軍から特別強制疎開命令が出され、家は壊されてしまったので、家族は茨城県の布川に疎開させていました。
しかし、先生は大正15年(1925)から皇族講演の講師を拝命していましたから、天皇陛下にも何度か御前講演を行った実績を持っておられました。それゆえ、先生の体には天皇の勅令がないと指一本触れられない人物でもありました。
その皇族講演を行う身分でしたから、「当分皇居の中でくらしたらよい」とのことで皇居ぐらしとなりっておりました。

なぜ反乱軍と遭遇することになったの?

8月14日昼ごろ、天風会員だった皇居警察本部の大谷喜一郎本部長から、「近衛師団が不穏な動きをしているので、今夜ここに泊って欲しい」と懇請される。理由は「明日の放送を取止めさせるために録音盤の収奪に来る可能性がある。そうなると皇居警察本部は皇居を護衛する任務の関係で、軍人と衝突することになります。そのため、私一人では心細いので、明日の12時まで居てください」と言われたのでした。
先生も暇なものだから、「よし、それじゃー俺が居てやるから心配するな」と義侠心で応えたものと思えます。

そうして二人で午後10時ごろまで将棋を指し、交代で睡眠をとることにして、先に大谷部長を寝かせた。
そうすると、(これ以後、神戸修練会で講演した録音記録)

12時ちょっと回った時分であります。外に出ないで警察本部に居たら、誰かが血相変えて「部長殿、部長殿」と言うから、「部長は寝ている、何んだ用は?」
「陸軍の士官が、兵隊を連れてこちらへ来ます」。
「陸軍の士官が、兵隊を連れて来る、あれか、どれくらい来るんだ」
「先生ご存知ないのですか、宵の口からこの皇居は陸軍に占領されています」

「みな地下室に監禁されてしまっています」、「それで桜田門も、二重橋も、乾門も、全部の御門という御門は、陸軍の軍隊で固めちゃっています」、「じきにここへ兵隊が来ます」と、顔を真っ青にしているんですよ。
そうこうして言葉が終わらないうちにドカドカドカと、相当荒く血相をかえて陸軍の少佐の服装をした人間が、研ぎ澄ました軍刀を抜きながら、兵隊を15、6人、みんな白襷させて入ってきたのであります。そしてドア脇に立ってから、
「お頼みします」と言い、ズカズカと入ってきた。

(これ以後、大井満著「心機を転ず」174頁から引用)
「何だ、貴様らは。ここは私室だ、みればわかるだろう。黙って踏みこむとはいったいどういうことだ」と、若い彼らに優しく声をかけた。
「はっ、失礼いたしました。実は探し物をしているものですから」
「そうか、何をさがそうというのか知らんが、人の部屋へ入って来たら、自分の官、姓名くらいは名乗れ。私は中村天風だ」
「はっ、自分は近衛師団参謀、石原少佐であります。自分は、陛下のお声を録音した、玉音盤をさがしております」
「そうか、詳しいことはわからないが、とにかく段平をしまえ。敵が上陸してきたわけでもあるまい。日本刀というものは、武士の魂であり、また敵から身を護るためのものだ。やたらに抜くものでない。早く、しまえ」
「はっ・・・」、軍刀を鞘に収めた石原少佐は、蹶起の趣旨を述べ、
「降状など、断じてできません」と、涙ながらに訴える。
天風は諭すように「軍人としての、その気持ちはよくわかる。しかし、陛下のお言葉とあれば、まさに綸言汗の如しで変更はない。となれば、その生命をお守りするのが軍人の責務だろう」。

 石原少佐は猛然とこれに反発し「いえ、違います。それは君側が陛下に無理強いしたことであって、陛下御自身のお考えではありません」。

 この時であった。天風の口から雷のごとき叱声が発せられた。
「馬鹿者!」「貴様は、それでも軍人か!」。天風の顔は、一瞬、阿修羅のごとき、凄まじい形相になっていた。
「いいか、陛下は大臣や幕僚の言に左右されるような、そんな御貫禄の薄いおかたではない。こんな重大なことを陛下以外に誰が決められるというのだ」
「・・・・・」、石原少佐にとって、それは思いもかけぬ一言であった。それに縛られ、しばらく塑像のように動けぬ少佐であったが、やがて、その眼からは、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちていった。
ああ、これで万事休すだとの思いが、一気にこみあげてきたのであろう。さすがの石原少佐も、まさに臣下として逆らいようのない、きつい一言であった。  

この烈迫の叱声で、彼らは来た時の勢いと打って変わって、まるで手綱する羊のように多くの兵隊を連れて静かに階段を降りて行った。そうするといままで寝台に寝ていた大谷部長が、起きだして、「あぁー驚いた。よくもあのキチガイみたいな暴れに、あれだけ怒鳴りつけましたね」と、感嘆する。先生は「別にたいして怒鳴りつけるつもりはなかった。けれどもついあういう声がでたんだよ」と事も無げに言った。

(これ以後、神戸修練会で講演した録音記録)
しばらくすると今度は警察官が入って来て、「今の兵隊が役所の所で腹を切りおった」。
「なに役所の所で腹を切った。多くをしゃべるな」
「御料車の入っている所」、「どこ?」    (聞きとり困難)
そこに関東軍司令官の田中静壱大将が、そりゃもうよろけるようにして入って来て、「今ここへ近衛の士官が来ましたか」と、言うから。「来た。来たから私が言い聞かせて帰した」
「それが腹を切ったんだ」。「そりゃ〜大変だ。どこで腹を切ったんだ」、「役所らしい」と言って。
そこで大谷部長、田中大将と同伴して下に降りて行くと、今の宮内庁の正面の所のガラージが、前に空襲で焼かれまして、あのお馴染の皮色の菊花のついてる自動車が2台、それから普段行幸の黒色の自動車2台、ガラージがないもんですから寄り合ってあそこに入れてあった。
その菊花の車の間でもって腹を切ってしまった。それからすぐ私がそこに行ってから、兵隊が5、6人しょんぼりして立っている。これから5人で白襷で持って行け。掃除して早く清めろ。
全くしょうがない、御料車の前で腹を切るなど。本人はどうせ死ぬなら陛下の御料車の前で腹を切るつもりで本人は何とも思わないで腹を切ったんでしょうけど、それは不敬極まりない話であります。それだからその事は秘密にし、これだけの人間しか知らないのだから。つまり、私と大谷部長と田中大将、それから脇にいる兵隊6人しか知らないんだ。など・・

なぜ天風先生は、戦後10年たった昭和35年にこの終戦秘話を話すことになったの?

この現場に立ち会った近衛兵6人の誰かが、「玄洋社の中村天風という人物が、たった一人で命がけで反乱軍を鎮めた」と言ったので、この噂が師団中に広まった。これを聞いた近衛の一軍曹が天風先生の名前を知っており、大阪の修練会に入会して、この秘話を会員に話したのだという。多くの会員が知ったため、また、会員からの要請もあったので、先生は翌年の神戸修練会で秘話を話されたのだろうと推測いたします。

検証: 「日本でいちばん長い日」より抜粋した時系列の時間帯の中に、「神戸修練会で講演した録音記録」と大井満著「心機を転ず」からの重要箇所を抜粋して挿入して見ると、本人しか知らないポイントは2つ。①主犯格の参謀・石原少佐が警備室に乱入した時と、②田中司令官が大谷部長の安否を求めて天風先生と面会した時間です。

1.天風先生は、石原少佐が乱入したのは午前零時を回ったころと言っていますが、井田中佐が畑中少佐に田中軍司令官への説得失敗を報告し、計画中止を勧告したのは、15日の01:30ごろで、畑中少佐がそれ以後、録音盤奪取を全軍に命令し手分けして急ぐことになります。この背景から、石原少佐も率先して録音盤捜索に参加したものと思われます。しかし、天風先生の理論整然たる説得で自制し、兵を引き揚げ他の部屋への捜策に向かったと思うのです。しかし、それも難しいと悟った時、本人は近衛師団に引き揚げました。そうして、05:10に田中司令官が近衛師団に行き、全軍に指揮権を発動した時、そこに居た石原少佐は森師団長殺害の主犯格の一人として検挙されたのでした。

2.この後、田中司令官が皇居警備を直接指揮するため訪問し、芳賀近衛第2師団連隊長に皇居撤収を命じたのち、藤田侍従長に治安維持確保の報告をした。その後06:00に皇宮警察本部に行き大谷部長に今後警備の打合せを行う予定だったのでしょう。そこに天風先生がおられたことになります。しかし、そうすると宮内庁玄関脇で自決した将校は石原少佐ではないことになります。理由は、05:10に石原少佐は既に検挙され身柄を拘束されていたからです。

私がもっとも驚いたのは、当時69歳の天風先生は反乱軍が抜刀してなだれ込んできたとき、顔色を変えずに烈迫の叱声で一喝されたことでした。ここに来るまで殺傷経験を持つ兵士は目が血走り命がけです。抵抗すればすぐさま切られるか銃撃されます。普通の人は恐れおののき、震えが止まりませんし、声が上ずってしまいます。クンバハカを習練し会得すると、恐怖や驚愕に心の動揺を受けることが著しく少なくなる効果があるといわれいますが、とても自分自身に「クンバハカ」と命令し実践しても平静心を保つことはできません。私は毎日2000回以上のクンバハカを実践してますが、胆力が付いて心の動揺を抑える自信ができたかというと全く自信はありません。胆力とクンバハカとは次元が違う気がいたしました。

この点が軍事探偵で幾多の死と向かいあい胆力を練った持ち主・天風先生でないとできない見事な対応だと感服したのでした。

なお、この時の鈴木貫太郎首相を支え、終戦に導いた裏方の迫水書記官長は岳父が岡田啓介元首相で、岳父から天風先生を紹介されて天風会員となり、のち当財団の顧問になってくださった方です。きっとこの8月15日の天風先生の見事な対応を宮内庁や田中司令官から報告を聞かれていたことでしょう。

「日本でいちばん長い日」半藤一利著より

なお、「終戦玉音放送録音盤秘話(中村天風述 昭和35年8月13日神戸修練会)」はこちらでで読むことができます。