天風先生の駐米留学と欧州訪問を手伝う

天風先生の「成功の実現」を読んでいると、第3章「悟入転生―天風自伝」に芳澤謙吉氏が出てきます。天風先生は日露戦争の時に軍事探偵として、幾多の死線を乗り越えるほどの強靭な精神と肉体の持ち主でした。しかし、終戦後結核を発病し心身ともに弱くなったことから人生を深く考えるようになり、人生の真理を求めて欧米を遍歴することになります。そのとき、天風先生がアメリカ・コロンビア大学の留学時とその後、ロンドンに渡る際にお世話になったのが芳澤謙吉氏でした。当時のことを次のように書かれています。

最初、私はアメリカだけを目的にして、5万円しか持っていかなかったんだ。今の5万円じゃないですよ。今の5万円は乞食だって持っているけど、昔の5万円といったら大したものですぜ。1万円持って行ったらね、女中ひとり使って、何もしないで銀行の利子で食えた時代なんだ。1万円で。

ところが、アメリカって国が今の日本よりもまだ物価が高いアメリカへ行って半年経たないうちに金が無くなっちゃった。旅で病み、その上、金が無くなったときぐらい心細いものはないぜ。旅でなくたって、銭が無くなれば心細い。ましてや天涯孤独の旅、いつ何時死んじまうか分からない旅だ。

でもねぇ、ありがたいことには、多少なりとも英語がしゃべれて、支那語がしゃべれただけに、銭が全然なくなったときも、支那人の通訳になった。この橋渡しをしてくれたのがアメリカ公使館の書記官をしていた芳澤謙吉君(注、後の外務大臣・中村天風師の親族)が言ってきたのだ。

それで通訳の8か月の間、8千ドル(月千ドル)もらって、中国人留学生のために学位をもらったものだから、また別にお礼に8千ドルくれた。だから当時の8千ドルが2倍になった。アメリカの8千ドルよ。日本の8千円じゃない。それがあるからこそ、イギリスに行き、ベルギーに行き、フランスに行き、ドイツに行けたわけだ。

それにしても、天風先生は8か月でコロンビア大学の医学博士学位を取るのは驚くべき才能ですが、疑いたくもあります。しかし、「1911年に孫逸郎という支那人の名前で学位をもらった人間が記録に残っている」と杉並区永福町の漢方医院・橋本昌枝さん(女医)の友人(コロンビア大学の先生)から報告があった、と書いています。

これから芳澤氏の「私の履歴書」による特異な経験談を紹介します。

芳澤謙吉(元外務大臣) 「私の履歴書」1957年(S32)11月 執筆時84歳

1874年〈明治7年〉1月24日 – 1965年〈昭和40年〉1月5日)は新潟県生まれ。外交官、政治家。大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。妻の操は内閣総理大臣等を務めた犬養毅の長女であり、犬養内閣では外務大臣に起用された。外務事務次官や駐アメリカ合衆国特命全権大使を務めた井口貞夫は娘婿である。

1.明治天皇御大葬を担当する

私は明治天皇御大葬の事務官に任命された。明治天皇崩御は各国に非常に衝動を与えた。9月13日御大葬には各国の偉い人が特派されて参列した。英国からは英国皇帝の従弟アーサー・オブ・コンノート殿下、米国からは国務長官ノックス、独逸からはブリンツ・ハインリッヒ(カイザーの弟)、仏国からは元外務大臣ビションといった人々である。

 日本政府は接待員ことに委員長の選任については非常に意を用いた。たとえばコンノート殿下については接待委員長の乃木大将で、接待員として海軍から阪本俊篤海軍中将と私がでた。御大葬は13日夜すんだ。私ら接待員は御大葬が済んでから自宅に帰り、翌朝伏見宮邸に出頭したところ、乃木委員長自殺と夫人も殉死された報道を聞いてびっくりしたのだった。

この乃木(まれ)(すけ)大将は、明治天皇に対し、日露戦争で多くの死傷者を出したことを、(じ)(じん)をもって、お(わ)びしようとしていた(日露戦争では二人の息子も戦死している)。その時、明治天皇は乃木希典大将を思いとどまらせたという伏線があった。乃木大将は天皇崩御の知らせを聞き、ずっと自害を考えていたが、御大葬までは「軍人らしく責任を全うしよう」と覚悟したものと思われる。現代では、想像もつかない思いだが、芳澤氏はこの事実を時代の記録として後世に残したかったのだろう。

また、乃木大将の遺書は岩田宙三(元法相)が受け取り、「私の履歴書」1957年8月執筆で紹介している。

2.五・一五事件(岳父死す)

昭和7年(1932)5月15日は日曜日で好天気だった。私は久しぶりにゴルフに出かけた。夕方官舎に帰ってきた時、家族のものが「向かい側総理官邸に何か出来事があったようだ」というから、私は早速行ってみた。官邸は警察などがあわただしく騒いでおり、応接間に入ると犬養総理は頭部を負傷していて、頭に手を当てていた。聞けば海軍将校が乱入して、ピストルを射撃したということだった。

 私は驚いて海軍大臣に電話をかけてその旨を伝えると、大角海相も驚き「さっそく対応処置をとる」といった。騒ぎは大きくなり、全閣僚、政友会の人たちが集まり一時は戒厳令のうわさまで飛んだが、その晩犬養総理は負傷のため78歳を最期として世を去った。この犬養総理の死・・・つまり五・一五事件に絡んでいろいろな流言が伝えられ、また事実幾つもの秘話はあるが、ここではそれについて述べるのは避ける。

Wikipediaによると、海軍青年将校率いる第一組が5月15日と決行日とされたのは、陸軍士官候補生が満州視察旅行から戻るのが前日の14日であり、15日は日曜日のため休暇外出することが出来るし、また来日中のチャールズ・チャップリン歓迎会が首相官邸で行われる予定のため、首相が在邸するはずであるとの理由であった、とある。それにしても芳澤氏は岳父・犬養総理の死を身近に見て、総理官邸の全閣僚、政友会の重鎮たちの混乱ぶりを書き記している。本当はここ書かれている「事実幾つもの秘話」は身内しか知らない秘話でしょうから紹介したかったのでしょうが、紙面の都合で割愛したのは惜しまれます。