私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

第1章 逆境・不遇にどう向き合うか

人生は山あり、谷ありです。楽しいとき、うれしいとき、絶頂の時もあれば、反対に重苦しく辛い日々があり、奈落の底に突き落とされるときもあります。それも、自分自身が起因する場合もあれば、職場や家庭または生まれついた境遇による遭遇もあります。

それらをこの「履歴書」に登場した先達が遭遇した場面の「雨の日」を分類して、それぞれの克服法や気づきを抽出しました。

破産

大企業の社長でも創業時代は倒産寸前まで追い込まれた経験を吐露してくれている。

大企業になっても事業拡大に失敗した場合や地震など自然災害に遭遇することもあるハズだ。資金繰りに追われ血の小便を流し、「金のないのは首のないと同じ」とか「死ぬよりも苦しい」といわれる。

しかし、その時の苦労が人情の機微や経営の責任を知ることとなり、経験者の人間性を大きく成長させることにもなる。この例を2つ紹介する。

俳優、シンガーソングライター、タレント、ピアニスト、画家。ニックネームは若大将。作曲家としてのペンネームは弾厚作。父は俳優の上原謙、母は女優の小桜葉子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。
1937年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学を卒業後、1960年春に東宝へ入社。同年『男対男』で映画デビュー。当時、同じく有楽町にあった渡辺プロにも一時期在籍した。1961年、「夜の太陽」で歌手デビューする。『NHK紅白歌合戦』出場17回。代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在である。

両親の七光りと持ち前の好感度で早くから東宝の若手看板スターとして大活躍する。娯楽映画の『若大将シリーズ』が大ヒットし代表作となるが、一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八といった名匠の作品にも多く出演していた。また、主演映画で歌った彼が作曲の「君といつまでも」は350万枚の大ヒットとなり、爆発的な売れ行きを記録する。映画以外でも作曲家・弾厚作として「夜空の星」などシンガーソングライターとしてもコンサートで大成功を収める。この華やかな時代に母方の叔父が1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックホテル茅ヶ崎を開業し、彼は取締役に就任していた。
しかし、このホテルは1970年7月に23億円の負債を抱え倒産、そして18億円で売却され、彼は経営陣の一員として巨額の債務を抱えた。この2月前に母親を52歳で亡くしており、悲しみに暮れているところにこのホテルの倒産劇が沸き起こったのだった。彼はいたたまれなくなりアメリカに逃避する。加えて、女優松本めぐみとの外国での電撃結婚が世間を騒がせ、かつてない不遇の時代を迎える。
同年9月に妻を伴って帰国すると、同日夜の記者会見ではマスコミからは借金逃避と外国での突然の結婚に対して、「甘い、甘い」「いい気なもんだ」など厳しい批判が浴びせられた。家もいままでの豪華な家には住めず、2LDKのマンションに引っ越すことになる。叔父の事業の失敗を恨んでも仕方がない。自分の身から出たサビと観念する。
しかし借金の返済を迫られ、苦境で彼の心は荒むばかりであった。そのうえ「若大将シリーズ」は打ち切られ、彼の出番は少なくなっていくと手のひらを返すように彼の周囲から多くの人が去っていった。

「ばかやろう、ばかやろう」。税務署に最低限の生活費は認めてもらったが、収入の大半は差し押さえられる。卵かけご飯の卵を妻と半分ずつ分けたりもした。僕はもらった酒を飲んでへべれけになり、庭の立ち木をなぐり続けた。こぶしが血だらけになっても、まだなぐる。「ばかやろう」。気持ちをどこにぶつけていいのか分からなかった。

そんなときに彼の心情を岩谷時子が作詞して出来たのが、「追いつめられて お前とふたり 知らない街を 歩いている」歌詞の「追いつめられて」だった。この現状の窮地を冷静に見つめ、ここから再出発するとこころに誓う。
そして、とにかく収入を増やすため、ナイトクラブやキャバレー回りをも積極的におこなった。こんな苦労を重ねて借金の返済に充て、質素な生活を続けたので10年で完済することができたのだった。
1970年代に入ると「若大将」シリーズのリバイバルブームが巻き起こり、映画界のスターとして復帰する。また、テレビドラマの出演や彼の新曲コンサートでも超満員となり、第二の加山雄三ブームが沸き起こった。苦節十年、どん底を経験した彼は人間力を高め、新曲の構想を温めた期間は無駄ではなかった。そして海の好きな彼は「苦しい時を支えてくれたのは、海であり、妻であった」と書き、感謝している。

戦後日本を代表する経済人の一人。新日本製鐵会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭などを歴任した。財界四天王(小林中・日本開発銀行総裁、水野成夫・サンケイ新聞社長、櫻田武・日清紡社長)の一人で、”戦後の財界のドン”ともいわれた。

彼は1900年島根県松江市生まれ、大正13年(1924)東京大を卒業し、浅井物産に入社するが1年後、倒産した富士製鋼を再建するため転社する。これには彼の長兄・護と長兄がお世話になった渋沢正雄の会社との義理があったので引き受けた。
会社再建のために、300人の従業員が一丸となって戦っているさなかに昭和初頭の大不況が襲ってきた。京浜工業地帯の煙突の煙が消えてしまうほどの古今未曾有の大不況だった。
当時トン当たり5,6万円していた鉄板が40円、丸棒が50円を割ったという。それでも買ってくれるところがあれば良かったが、買い手がつかなくなった。もう破産よりほかないというところまできた。工場の全設備は銀行へ担保に入れたから、借金の利子さえ払えないので銀行は1銭も貸してくれない。ついには従業員に賃金を払うことも欠くありさまとなった。
これを何度か乗り越えたものの、昭和6年(1931)の暮にはどうにも首が回らなくなり、ついに夜逃げをするよりほかなくなった。家には帰れないので、暮れから正月までの何日間か東京の安宿を転々とし、しまいには箱根から熱海の宿にも泊まることになった。その時の苦しい心境を次のように書いている。

正月の温泉町は静かな中にも新春らしい活気がある。通りには羽子板を持った子供たちの楽しそうな姿が見え、時折り島田に結った女が、男に寄り添うようにして通り過ぎてゆく。それに引きかえこのオレは・・・夜逃げの話を聞いていたが、こんなにたまらないものかと、身にしみて知らされた。柔道で首を締められる苦しさなぞ、それをおもえば物の数ではない。

けれども彼はいつまでも逃げおおせていられるものではないと思い、渋沢社長や300人の従業員のことを考えると川崎の会社に戻るしかなかった。そして銀行に倒産回避の必死の工面と交渉をして危機を脱出したという。このときの「夜逃げ」の苦い経験が彼を逞しい経営者に育て上げ、日本財界のリーダーに成長させたのでした。彼が”戦後の財界のドン”と尊敬された証拠を「履歴書」登場名前の索引数で次に示します。

昭和31年から日本経済新聞の文化欄に掲載された「私の履歴書」に登場した人物は、平成15年末(47年間)までで650名。今回、平成15年までに集計したのは経済人だけなので、それ以降の経済人、他の政治家や官僚、作家、芸術家などの登場者の引用数を入れれば、この順位は変わると思います。しかし、戦前・戦後の日本経済を牽引し、リーダーシップを発揮した人々が大きく影響を受けた各界のリーダーを知る1つの目安になるのは間違いないとも思い、まとめてみました。

(1)経済人の場合
順位回数氏名:132松下幸之助、永野重雄、229石坂泰三、327小林一三、松永安左エ門、426渋沢栄一、中山素平525稲山嘉寛、623佐藤喜一郎、722小林中、土光敏夫、821鮎川義介、920渋沢敬三、1019池田成淋、伊藤忠兵衛植村甲午郎である。
苦労人で面倒見のよい松下幸之助と永野重雄がよき相談役としての筆頭に挙げられている。意外に思えたのは、明治初期の国立銀行や基幹産業および教育などに多大な貢献をして子爵となった渋沢栄一は第3位であり、また、東芝の再建や経団連会長として財界総理として評価の高かった石坂泰三は、新日鐵の永野重雄のそれに及ばなかった。
その理由を私なりに考えてみると、渋沢栄一や石坂泰三は政府系の仕事や産業全体の仕事が多く、企業単位の個人的な相談ごとは永野重雄や松下幸之助に及ばなかったのではないだろうか。特に倒産寸前までいき、夜逃げの苦渋を味わっている永野には相談に来る相手に適切な助言をすることができたからなのだろうと思った。

失意のどん底

人間だれしも若い頃は、夢があり希望があります。それが敗れた時、失意のどん底に陥ります。
その夢や希望が大きければ大きいほど、その失意も深くなます。

それを克服して大成した好例を2つ紹介します。

作曲家・歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。1993年、日本作曲家協会理事長。

船村は1932年栃木県生まれで、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科を卒業する。大学在学時に作詞家の高野公男と組み、作曲の活動を開始した。2歳年上の高野とともに、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。高野から「東京に出てきた人間はいつか故郷を思い出す。お前は栃木弁で作曲しろ。おれは茨城弁で詞を書く」と激励され、協力しあうことになる。
1953年、雑誌「平凡」のコンクール曲に応募したところ、一等になり「たそがれのあの人」がレコード化され、作曲家としてデビューする。しかし、キングレコードから次の作曲依頼が来てレコーディングする際、彼の若気の慢心から楽団員とトラブルを起こし、会社から出入り禁止措置となる。音楽の世に出る舞台を自ら閉ざしたため、仕方なく二人はピアノなど楽器を売り払い、「東京楽団」を結成し、バンドマンや歌手、役者を揃えて地方公演に行く。しかし、興行師に騙されたり、観客も不入りだったため、ギャラが払えず、やむなく解散。惨めな楽団結末となった。

高野はベレー帽まで質に入れ、私は父の形見の金時計を手放して宿代に充てた。一文無しになった二人は、それぞれの故郷に帰って金策するしか方法はない。

腹を括った彼は追いつめられギターを抱えて宴会や祭りを回る“楽隊屋”の仕事を、高野は米軍の劇場から払い下げられた舞台衣装などを売って歩く忍耐の仕事についた。こんな失意の時代だったが、お互い「いつか地方の時代が来る」の夢を信じて苦難に耐えた。
しばらくすると出入り禁止措置も解け、三橋美智也の「ご機嫌さんよ達者かね」を高野が作詞し、彼が作曲でレコード化された。これがヒットして二人の音楽界への道が開かれたのだった。二人の名前を不動のものにした本格的な作品は、1955年、春日八郎が歌った「別れの一本杉」で空前の大ヒットとなった。しかし、高野は翌年1956年に肺結核のため、26歳の若さで死去した。
彼は茫然自失だったが考え直し、高野と約束「いつか地方の時代が来る」の夢を信じて望郷の歌「男の友情」、「あの娘が泣いている波止場」、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」など作曲し、大ヒットを連発する。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録し、戦後歌謡界を代表する作曲家の一人となった。夢を持ち続け、それを信じて努力してゆけば道が開けたという好例でした。

代表する脚本家・劇作家・演出家である。

倉本は、1935年東京生まれで、1959年東京大学文学部を卒業する。ニッポン放送に入社し、本名でディレクター・プロデューサーとして勤務する傍ら「倉本聰」のペンネームで脚本家としての活動を行なう。
彼は会社に内緒で脚本活動を行なっており、当時は夜10時に会社を出て帰宅してからテレビの脚本を書き午前4時頃に就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった。
しかし、彼が書いた他社のテレビシナリオが好評を博し、売れっ子ライターとなる。その後、約4年半勤めたニッポン放送を退職し、日活と年間の脚本数を決めて契約するシナリオライターになった。時間を見つけ東映の映画シナリオも担当する。この間は修行と思い書きまくったと述懐している。

そうしたとき、NHKから大河ドラマの脚本を依頼された。喜んだものの1974年の正月に始まった大河ドラマ「勝海舟」で問題が発生した。主役「海舟」役の渡哲也が体調を崩して役を降りることになり、代役に松方弘樹に決まるが、その出演交渉の説得役を彼が務めた。
この役は監督とかデレクターがやるものを「脚本家がやりすぎ」との批判がでた。また、このドラマ制作に際し、脚本家の彼と演出家との間でシナリオ変更の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中で降板した。
そのため、これに関する取材を受けた週刊誌の記事が彼の意図に反し、NHKを攻撃する内容に変わっていた。当時の制作局長には自分の軽率を謝罪したが、周りの多くの人からつるし上げられたという。とうとう嫌気がさして北海道に逃避した。39歳のときだった。

ススキノを毎晩飲み歩いた。半分ヤケだった。行く先に不安はあったが、サバサバした気分でもあった。飲み屋のバーテンダー、風俗嬢、その筋のお兄さん、単身赴任のサラリーマン、板前さんや地方のおじさんー。いろんな人たちとよく飲み、しゃべり、遊び回った。
東京で付き合っていたのは業界人ばかりだった。「そんな利害関係のある連中とばかりつるんでいて、よくシナリオが書けたよなぁ」としみじみ思った。

札幌に来て3年、ここには高度経済成長時代を経て構造転換の大波の中で衰退し、やがて見捨てられた残骸が沢山あった。彼は次第に北海道の厳しい自然とそこで暮らす人の人情の厚さに癒されていった。
彼がここで悟ったのは、知識ではなく知恵で生きることだった。彼は目からうろこが落ちる体験を何度もした。山の廃屋、海にも廃屋、そして農村の廃屋の他、炭鉱、山林業、水産業、農業など、かっての日本の繁栄を支えた人たちがいた。
これらの人たちと一緒に廃屋に泊り込み、親しく接することにより、これを原点に構想を膨らませるとシナリオが生まれた。地元の人たちの熱心で多大なロケ支援もあり、これがテレビで大反響を呼んだ「北の国から」だった。

彼が失意の底から北海道で学んだのは「知識ではなく知恵で生きること」だった。それを生かす場を、テレビ用のシナリオライターと俳優志望の若者を集めて働きながら学ぶ「富良野塾」として開設させたのでした。映画や歌舞伎には人財育成があるのにテレビにはこのシステムがない。
塾のルールは「若者は金がないから入塾料、受講料、生活費は一切なし」とする。夏場の農作業で全員が稼ぎ、住まいや学習の場も自分たちで造った。管理棟、稽古場、作業場、マキ小屋の他、レストラン棟、宿舎、サイロ棟、乗馬訓練用の馬小屋などもだった。ここでは「知識ではなく知恵で生きる」ことを「学び演技に生かす」のを信条とした。
2014年4月4日、富良野塾は幕を閉じたが、447人を受け入れ、卒業したのは380人。そのうちライターや役者をしているのは三分の一で、活躍中だと書いている。

失敗の連続

人生は七転び八起きといわれますが、まさにこの人生を歩んだ人がおられます。
失敗にもへこたれず、転んでも、転んでも起き上がった不屈の人でした。

安藤は1910年に台湾で生まれ、1934年に立命館大学専門部を卒業する。1948年に株式会社中交総社(のちの日清食品)を設立する。実業家、発明家。日本で「チキンラーメン」と「カップヌードル」を開発し、世界的に普及したインスタントラーメン産業の創始者となった。日清食品の創業者。「チキンラーメン」「カップヌードル」を発明・開発したことにより、食文化に大きな革新をもたらした人物である。

 彼は幼い頃に両親を亡くしたため、日本が領有していた台湾で呉服商を営む祖父母に育てられた。小学校を卒業と同時に祖父の仕事を手伝い、その後図書館の司書になったが、事業を興したいという野心にかられ2年で退職、22歳のとき台北市にメリヤス会社を設立して大阪に問屋を設け、メリヤス製品を仕入れて販売、大当たりした。
また、プレハブ住宅に機材販売、エンジン部品の製造なども一応の成功を収めたが、軍用機のエンジン部品工場では、国から支給された部品の横流し疑惑が原因で、憲兵隊本部へ連行され拷問や自白を強要された。
しかし、やがて無罪が証明されて釈放されたものの、戦災により彼が手がけた事業はすべて灰塵に帰してしまった。

戦後は製塩業、栄養食品開発と食に関係した仕事に切り替わっていった。それは、昭和20年代の深刻な食糧不足をしのぐために、日本政府はアメリカ合衆国から送られる援助物資に頼っていたが、そのほとんどがアメリカの余剰小麦を利用した「粉食」(パン、ビスケットなど)だった。日本の厚生省は「粉食奨励」を政策として進め、学校給食をはじめ、パン食を奨励していた。
彼は、古くから東洋の食文化であるめん類をもっと奨励すべきだと、当時の厚生省に提案した。「パンには必ずスープやおかずが必要だが、麺類なら同じどんぶりの中に主食の麺にスープと具材が付いて栄養もある」と主張した。
厚生省の担当官からは、「うどんやラーメンは量産技術が無く流通ルートも確立していないためやむなくパンが主体になっている」実情を説明され、麺文化の振興のために、彼自身が研究してはどうかと奨められたことが念頭に残っていた。
昭和22年頃の街ではまだ、栄養失調で行き倒れになる人が後を絶たなかった。冬のさなか焦土と化した大阪・梅田の闇市で、ラーメンの屋台にできた長い行列があった。寒さに震えながら順番を待つ人々を見て、たった一杯のラーメンのために、人はこれほど我慢するものかと興味を持ったのだった。
46歳のとき簡単なラーメンづくりを取り掛かるのは今だと思いついた。しかし、関与していた信用組合の倒産により、理事長だった彼は責任を負い、また無一文になったが奮起した。

彼は部下もいなければ、カネもないので一人で取り組むしかなかった。昔なじみの大工さんに頼んで、庭に十平方メートルほどの小屋を作り、研究所とした。中古の製麺機、直径1mもある中華なべ、小麦粉、食用油などを買い、準備を整えた。
開発したい「着味めん」の目標は①おいしくて飽きがこない味、②台所に常備される保存性、③調理に手間のかからない簡便性、④値段が安いこと、⑤安全で衛生的なことの5つである。彼は「めんについてはまったくの素人」だったため、原料の配合から味付けまで、作っては捨て、捨てては作るの手探りで進めた。しかし、難題は保存性と簡便性だった。
 これも何度も試行錯誤の末、妻が天ぷらを揚げているのを見て気がつく。小麦粉の衣が油の中で泡を立てて水をはじき出し、無数の穴が開いていた。めんを油で揚げれば多孔質になり熱湯を注ぐだけで水分が吸収されて柔らかく復元するし、ほぼ完全な乾燥状態になって保存も利く。この発想が即席めんの製法特許「瞬間湯熱乾燥法」の開発となった。
彼は朝5時に起きると小屋にこもり、夜中の1時、2時になるまで研究に没頭した。睡眠時間は平均4時間しかなかった。こんな生活を丸一年の間、一日も休みもなく続けた。この即席めん開発が成功したとき、彼は48歳になっていた。そして次のように述懐している。

振り返ると私の人生は波乱の連続だった。両親の顔も知らず、独立独歩で生きてきた。数々の事業に手を染めたが、まさに七転び八起き、浮き沈みの大きい人生だった。成功の喜びに浸る間もなく、何度も失意の底に突き落とされた。しかし、そうした苦しい経験が、いざという時に常識を超える力を発揮させてくれた。
 即席めんの発明にたどり着くには、やはり48年間の人生が必要だった。

いやぁー、このねばり、このチャレンジ心、この謙虚さ、ほとほと頭が下がります。彼は「48年間の苦しい人生経験がこの事業を成功させた」と書いています。成功もあれば失敗もあり失意の底も経験されている。それを貴重な経験として晩年からの新事業に取り組まれた彼の渾身の努力の前に、神様が微笑むしかなかったという感じでした。

長く苦しいスランプ

長い人生にはスランプと思われる時期が誰しもあります。人間のバイオリズムの波が好調なときとそうでないときが交互に訪れるからだ。アスリートはそれを知っており、好調な時期を長続きするように自己管理を徹底させている。
しかし、長い人生ではそれをおこなっても長く苦しいスランプが続くときがくる。

それを「履歴書」に登場する人物はどのように解決していったのか、2例を紹介します。

戦後初・捕手として世界初の三冠王、出場試合数歴代2位、監督としても出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算犠飛数歴代1位などの記録を持つ。
京都府生まれ。峰山高校から南海ホークス入団。南海でプレーイングマネジャーの監督、ロッテオリオンズ、西武ライオンズの3球団で現役27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍。引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、楽天イーグルスで監督を務めた。インサイドベースボールの主張し、最盛期を過ぎた選手の再生工場主としても有名。89年に野球殿堂入り。

野村は、契約金ゼロのブルペン捕手として見習いで採用された。1年でクビを言い渡されるが、上司の温情で残留となる。肩が弱かったため、このままではレギュラーになれないと砂を詰めた1升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。
このような努力が実り、翌年のハワイ遠征後に正捕手になれた。打撃も22歳でホームラン30本の初のホームラン王になることができた。しかし、打率は2割5、6分。何よりも三振が100近くあった。打てなかった原因はカーブだった。意地の悪い観客は「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだった。カーブをどう打てばよいのか。壁にぶちあたったときに、テッド・ウィリアムズの著書『バッティングの科学』(ベースボールマガジン社)に出会う。その中で「投手は球種によりモーション時に小さな変化を見せる」という一言があり、これをきっかけに投手のクセを研究するようになった。

目を凝らしてみると、ある、ある。当時の投手は振りかぶった時に、ボールの握りを隠さなかった。ボールの白いところが大きく見えると変化球、小さいと直球とか、振りかぶったときに頭の上で2回反動を取ったら、直球、1回だったら変化球など。フォークボールは指で挟むから、グラブがどうしても広くなる。なくて七癖とはよく言ったもの。ほとんどの投手は何らかの癖を持っていた。

スランプはアスリートにかぎらず、ビジネスパースンらにも訪れます。そのスランプを冷静に見つめ、打破するために日夜研究と努力を重ねるのはみな同じです。しかし、その努力の深さ、熱心さで人生の分岐点となります。
彼はこの投手のクセを盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけ、カーブを事前に見破ることで克服した。それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても稲尾だけは攻略できず、彼は16ミリカメラで稲尾を撮影し研究した。そして、稲尾への精神的な揺さぶり攻撃もかけた。それが他球団選手も恐れた「魔のささやき作戦」(心理かく乱戦法)である。それをライバルの稲尾が次のように「履歴書」で証言している。

好投していて打席に立った。すると『中洲の何とかいう店、別嬪さんが多いらしいのう』。その店、知らないわけではない。1球ごとに話は具体的になり『○○子ちゃんて、ええ子らしいな』。確かに知らぬ仲ではない。そしてダメ押し。『子供できたって、お前か』。『えっ、本当ですか』。身に覚えがないわけではないから、こちらも動揺を抑えられない。その後の投球はメロメロ

余談になるが、この「ささやき作戦」を野村が巨人の長嶋に応用してみた反応は、

日本シリーズやオールスターで対戦した巨人の王は、人がいいから話しかけると答えが返ってくる。だが、まったく会話にならなかったのが長嶋だ。『チョーさん、最近銀座に出てるの』と尋ねても、『このピッチャどお?』と違うことを聞いてくる。一球投げると『いい球なげるねぇ』。ささやきが全く通じない。つくづく人間離れしている、と感じたものだ。

アハハハ。緊迫した試合の中でお互いがこんなプライバシーの侵害に当たる会話(駆け引き)をしていたとは……。主審アンパイアはどんな気持ちでこのやりとりを聞いていたのだろうか。想像するだけでも楽しい。

 メキシコ五輪のマラソンで銀メダリスト。走った距離は、地球を4周半だという。
福岡県生まれ。高校卒業後、八幡製鉄(現新日鉄住金)に入社。1960年代から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーである。また、オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場した。

君原は、東京オリンピックでマラソン3位となった円谷幸吉とは同学年だったため、親しくしていた。円谷とは東京オリンピック代表として半年間ともに練習を重ねたことから無二の親友ともなっていたが、8位になったその晩は宿舎で床に就いて、円谷に羨望と嫉妬と賞賛の入り交じった複雑な感情を抱き眠れなかったという。
東京五輪終了後福岡に戻ってからの彼は、八幡製鐵陸上部の退部届を提出するほどに落ち込んでいたが、コーチの高橋がその退部届を保留扱いのままにしていた。東京五輪マラソンの失敗はしばらく尾を引きなかなか立ち直れなかったが、彼自身初めて女性からのファンレターが届いたのをきっかけに交流を深め、高橋コーチの勧めもあって女性と結婚する。
彼は結婚で癒され次第に練習に力が入るようになり復帰できた。しかし、円谷は東京五輪後に結婚目前までいっていながら、自衛隊の幹部から「競技に差し障りがある」と反対され破談になった。心の平静を得た彼と、悩みを打ち明ける相手のいなかった円谷との相違がここに生じたのだった。
1968年メキシコオリンピック前に、円谷がメダル獲得期待の重圧に負け自殺したのにショックを受ける。「そこまで自分を追い詰める必要はない」と助言できなかったことを、深く悔いていた。このことがトラウマとなり、以後のレースに影響したが、銀メダルを取ったメキシコ五輪では、最後のゴール前で後ろを振り向き、すぐ後ろにライアンがいるのを知る。それで彼はさらにスパートをかけ、銀メダルを獲得できた。
 普段はスピードを落としたくないので後ろを振り向かない彼が、「天国から円谷さんがメッセージを送ってくれたとしか思えない」と述懐していた。そして

8位に敗れた東京五輪と銀メダルを獲得したメキシコでは、私にどんな変化があったのだろうか。パワーもスピードもスタミナも東京のほうが上だったと思う。練習量も東京五輪のほうが多かった。しかし、自分の力を出し切れる選手ではなかった。(中略)
 東京五輪後に私は妻帯者となっていた。メキシコでメダルを取れた要因はそこにあると思っている。結婚し、癒され、精神的に落ち着いたのが大きかった。その結果、私の競技者としての総合力が上がったのだ。

 彼は東京五輪マラソンの失敗で走る意欲を失い、スランプに陥ったが、結婚することで気持ちがほぐれ、走る意欲を回復することができた。心の平静を得た彼と悩みを打ち明ける相手のいなかった円谷との違いを指摘し、自分を追い込む「競技者は悩みを打ち明ける人の支えなくしては生きていけない」と心の支えの必要性を告白している。スランプ克服には家族や肉親などの「心の支え」になる人も必要なのです。

嫌な部署配属

私が人事担当役員のころ、若い部下や他部門の人たちから「会社を辞めたい」と相談を受けましたが、原因のほとんどは仕事の悩みではなく、職場の人間関係でした。

職場の特徴や人の良いところを見つめ、人と人との間でたくましく生き、成長する人間になって欲しいと今も願っています。

 賀来はカメラの電子化を進める一方、複写機、ワープロ、プリンターなど製品の多角化をはかり大幅に業績を伸ばし、財界屈指の論客としても知られた。
大正15年(1926)、愛知県生まれの彼は、旧制五高を出て戦中、戦後の混乱期に学徒動員や浪人暮らしののち、九州大学を卒業し、28歳でキヤノンに入社。
 ハッキリものを言う性格から、上司やトップと衝突することが頻繁にあったため、クビを覚悟したこともあったという。しかし最初の上司は、その性格を「面白い」とし、自分の管轄部下とした。
 その経理部では原価計算課に回され、まる6年在籍することになる。ところが、ここの仕事があまり面白くない。分厚い棚卸表から、社内加工費、外注費、個数、単価などを計算し、それを縦横合わせて合計を出す。1枚やるのに1時間ぐらいかかり、毎月何百枚も計算しなければならない。
 やっていることは計算機の代わりのようなものであり、せっかく卒業した大学での知識など、まったく必要としない。
「こりゃ、ひどいところに勤めたな」と思ったものの、新入社員の身で「つまらぬ仕事はできない」などと投げ出すわけにもいかなかった。
 そこで、スポーツ好きで明るい性格でもあった彼は、次の名案を実行した。

「つまらないようにおもいながら仕事をしたのでは、自分が不幸になるだけである。つまらない仕事でもやりようがあるだろうと考えて、計算を“スポーツ化”することを思いついた。中学生のころ砲丸投げに熱中し、毎日少しでも記録を伸ばすのを楽しみにしていた。その楽しさを思い出し、毎日、仕事、仕事量を記録することにしたのである。そうすると、今日は六枚やった。明日は七枚に挑戦しようと、記録更新の意欲がわいてくる。(中略)。
 工夫の末、計算の能率は三、四倍になり、そろばんにも熟達した。それに、いやな仕事でも時間が短く感じるようになったし、私を異常と見た人たちも、半面、真面目で裏表なく、よく働くと認めてくれた」(『私の履歴書』経済人二十九巻 278、279p)

 このときの賀来の下積みの事務経験が、カメラ主体企業のキヤノンを、複写機、ワープロ、プリンターなど事業の多角化に成功し、業績を伸ばすことになったのである。
          *          *
 いやなことでも面白くしようとするポジティブな発想が、仕事にも人生にも必要なときがあります。
 仕事を楽しく、愉快に取り組めるよう努力する才能は素晴らしい。まず、自分の得意なこと、楽しめることを仕事に結び付ければ、気持ちが楽になります。それにより与えられた仕事に精通することで上司からの信頼を得、将来につながった好例です。

「日本最高のホテル」として帝国ホテルの名を内外で高め、川奈ホテルなど国内有名ホテルの設立にも数多く関与し、日本のホテル業界の草分け的存在となった犬丸は、明治20年(1887)石川県に生まれた。
 彼は明治43年(1910)に東京高等商業学校を卒業するが、成績不良のため就職に苦労し、やむなく南満州鉄道経営の長春ヤマト・ホテルのボーイになる。
 しかし、自分の職業を蔑視する気が抜けず、数年後、出直す覚悟でロンドンに行き修行をするが、ここでもコックではなく窓ガラスふきが日課だった。彼は心中、悶々としていたものの、何をおいても就職することが先決であるため、不平を隠して勤務した。
 窓ガラスふきは汚れ仕事で、しかも危険が伴う。厨房で料理に手腕をふるいたいと熱望していた彼は、この仕事を半ば投げやりにやり続け、心はどんどん空虚になっていった。
 このホテルにはもう1人、窓ガラスふきがいた。すでに初老を過ぎた男で、毎日黙々と仕事に勤しんでいるかに見える。犬丸は心中、ひそかにこの男を軽蔑していた。
 しかしあるとき、犬丸が何気なく問いかけた仕事に対する質問への男の答えが、犬丸に仕事の神髄を悟らせた。

「『君は毎日このような仕事を続け、それをもって満足しているのか』。すると彼は黙って私を廊下へ導き、両側の窓をさして静か言った。
『イヌマル、双方を比べてみろ。拭えばきれいになり、きれいになれば、その一事をもって私はかぎりなき満足を覚える。自分はこの仕事を生涯の仕事として選んだことを少しも後悔していない』。
 私はこのことばを聞くに及んで、一瞬何かに深く打ちのめされたごとく感じた。豁然と悟りを開いた思いだった。実に職業に貴賎なし。なんたるりっぱな生活態度であろうか。私はこの時から窓ガラスふきを天職と心得て専念し、以後職場を変わっても一貫してその気持ちで働くことができるようになったのである」(『私の履歴書』経済人四巻 407p)

 この後、彼はホテル支配人に仕事ぶりを認められ、重用されるようになる。そしてロンドン、ニューヨークで修業し、大正8年(1919)帝国ホテルの副支配人となり、建築家ライト式建築の新館を完成させ、昭和20年(1945)には社長となった。
          *          *
 私はこのエピソードを読んだとき、太閤秀吉の草履取り時代を思い出しました。
 信長に仕えた藤吉郎が、冬の寒い日に主君の草履を懐で温めて出したという話です。与えられた職務を忠実に、誠意をもって務めれば、上司が「見どころのあるヤツ」と正しく評価し、一段上の仕事を与えて本人の力量を試すというのが経営者心理です。与えられた仕事を着実に成果を上げれば、次の一段上の仕事が待っています。
 人は、与えられた仕事ごとに全力で取り組む必要があります。

実業家。社名等にも関連して「新日本石油の生みの親」といわれる。日本石油副社長、日石三菱社長、新日本石油代表取締役社長・会長、JXホールディングス相談役。

 渡は1960年に慶應義塾大学を卒業し、日本石油株式会社に入社する。最初の配属先が本社東京でなく新潟製油所だったので落胆が激しかった。経済学部を卒業だから、本社事務部門を希望していたので島流しに遭うようなイメージだった。しかし、環境が不満だからといって、嘆いても始まらない。いかに良い方向に変えていくかを考えたほうがいいと気を取り直し、せっかくだから製油所をくまなく理解してやろうと、自分でスイッチを前向きに切り替えた。
そして生産現場を見て回り、ヘルメットをかぶり、原油をガソリンや重油に分けるトッパー(常圧蒸留装置)に潜り込み、石油製品のできるまでを身をもって実地に学んだ。ここまでやった事務屋はまずいなかったという。これが営業現場に行った時のメリットで、商売で実際に役立った。具体的には、生産部門は急な注文が来るとたいてい「できない」と断るが、彼は段取りを変えれば「できるはず」提言し、重宝がられた。また、反対に「本当に無理」と判断した注文については、工程上、不可能な理由を具体的に説明して納期を延ばしてもらうことができたからだ。
得意先でのトラブルも炎天下で背広やワイシャツがぐちゃぐちゃになるのも構わず汗みどろで、3時間アスファルト除去作業をやっていると、この誠意を認めてくれたのか、店主は笑顔で「わかった。もういいよ」と言ってくれたそうだ。

現場を理解し商いの心を会得できたことは、2つの大きな財産となった。偶然選んだオイルマンの仕事がようやく板についてきた。

このときの「現場を理解する」と得意先との交流で「商いの心を得る」の2つの会得は、彼の大きな自信につながり、次のステップで大きく羽ばたく布石となった。そして後輩たちに次の言葉を贈っている。

実際の会社にがっかりする人も少なからず出るに違いない。でも、くよくよしななさんな。人生なんて初めから自分の思い通りにいくわけがない。壁を乗り越え切り開いていくところに面白み、醍醐味がある。深刻に見えても、気持ちを切り替えて前向きに臨めば、道は開ける。

彼は2000年6月、人事・労務畑や総務優位で販売出身はありえないとされていた日石にあって、初の販売部長からの社長に就任した。のち会長となる。2010年に新日本石油と新日鉱ホールディングスが統合して「JXホールディングス」が設立されると、相談役に退いた。彼の後輩たちへのエール「気持ちを切り替えて前向きに臨めば、道は開ける」は「履歴書」に登場する人たちに共通する贈り言葉だと思えます。

降格人事

積極人間ほど、新しい業務や事業にチャレンジして行きます。特に若い時は上司からこれを奨励されます。しかし、図に乗って手痛い失敗をし、降格人事にあう時があります。そのとき、この当事者は辛い試練の日々を過ごすことになります。

しかし、経営者は別の価値観で人を見つめています。企業経営は人の営みであり、異質で多様な人間が集まってこそ、活力が生まれる考えです。個を生かし、全体の力となったとき、企業は信じられないほどの力を発揮するからです。経営者は社会に羽ばたこうとしている人たちに、仕事の挑戦を通じて一人ひとりが大きく成長する機会を与える使命があります。だから挑戦はして欲しいのです。

八尋は、社長・会長の在任中はイラン革命、イラン・イラク戦争の勃発で暗礁に乗り上げた日本・イラン合弁のイラン・ジャパン石油化学プロジェクトの処理に奔走し、清算を決断した。また、商社出身者として初めて経団連の副会長を務めた人物である。

大正4年(1915)東京生まれの彼は、昭和15年(1940)、東京商科大学(現:一橋大学)を卒業し、三井物産に入社する。終戦はサイゴンで迎えた。
昭和25年(1950)、ゴム貿易の自由化を迎え、財閥解体で分割された第一物産(現:三井物産)神戸支店のゴム課長に就任。神戸はゴム工場が多く、ゴム商売の中心地で、ゴム取引所もできたばかりだった。
「ようもうけるな、八尋くん」といわれるくらい活躍したが、調子に乗りすぎて大失敗をしでかす。
昭和29年(1954)、生ゴム100トンを買ったところ、相場が半値にまで暴落し、大損を出してしまった。損失を取り返すべく、必死に挽回のチャンスを狙ったが損の上塗りばかりで、心労のため血尿が出る日々をすごすことになった。
このとき、実はこの損失が表面化する前に本社物資部ゴム課長への栄転が内定しており、トントン拍子の出世コースの階段を昇ろうとした矢先の出来事だった。
結局、水上達三常務にこの失敗を報告して陳謝したが、間もなく〝位冠剥奪〟でヒラ社員に降格された。
業務部預かりの身で、新人並みの電信整理が1日の仕事になった。屈辱の灰色の生活は6か月間続いた。水上常務は廊下ですれ違った八尋に、「底値鍛錬百日だよ、きみ」と秘かに力づけてくれたという。「しがみついていれば、いつか必ずチャンスが来る」との意味だと理解する。
そこで彼は、「時期が到来して敗者復活の機会が巡ってきたとき、それを自分のものにできるかどうかで、その後の人生は180度変わってしまう」と考え、努力を続けた。
そしてついに、その時が来た。まず、輸出化学品課長代理に任ぜられ、降格から2年ぶりに化学部に新設された石油課長で大活躍することになる。
彼は当時を振り返り、何事も粘り強く、あきらめない、そうすれば道は必ず開けると気づきを与えてくれた水上常務に今も次のように感謝している。

「私にチャンスを与えてくれた人はだれあろう、水上達三さんその人だった。『どうだ、まいったか』―。この言葉は一生忘れまい」(『私の履歴書』経済人二十七巻 48p)
*          *
私も不本意な降格人事を経験したことがあります。入社20年目に、花形だった営業部から地味な総務部に異動になりました。
職位は、部長職の支店長から本社総務部総務課長です。外部から見ると総務次長の下になりますから、2ランク下がったことになります。
営業担当役員が「おまえの将来を考えてこの人事を認めた」と言ってくれましたが、「いままでの自分への評価が今回の人事ですから、不本意です」と大いに不満をぶちまけました。私は営業が大好きで、それなりの実績も上げていましたので、この人事が不満ですっかりやる気を失くしてしまいました。
課長席に坐って業務上必要な会社の諸規則や過去の重要契約文書の点検をしていても、まったく頭に入ってきません。楽しかった営業時代の思い出ばかりが蘇ります。
午後からの諸法令の勉強会で、眠くてついウトウトし、副社長から「こらぁー、居眠りしている課長がいるぞ!」と大声で叱られるなど、意気消沈の毎日が続きました。
こうした悶々とした日々を送っていたある日、以前上司だった社長とトイレで隣り合わせになりました。「あまり元気がないな。おまえのことを心配していたんだ。慣れない仕事で大変だろうが、会社で重要な部署だからヘソを曲げないでやってくれ。俺はおまえの仕事ぶりを見ているから、ヤケを起こさず頑張れ」と言われました。
「そうだ。自分を見てくれている人もいるんだ。自分が怠けると、そのツケは必ず将来自分に返ってくるはずだ。こころ入れ替えて一から出直そう」と決心したのです。
「何事も粘り強く、あきらめない、そうすれば道は必ず開ける」と気持ちを切り替えたことにより、総務部の重要性がよくわかるようになりました。
それは弁護士、警察、他社などの交渉ごとや、取締役会や経営会議の議題がすべてわかるため、支店長時代では知り得ない会社全体の動きや重要課題に関与できることでした。
総務部の重要性がわかると、その職務をまっとうするための勉強をしようと考えます。そのため、商法(現:会社法)や証券取引法(現:金融商品取引法)など、重要な諸法令を勉強するのも苦にならなくなりました。
人間、不思議なもので、気持ちの持ち方で苦労が楽しみに変わったのでした。

左遷の連続

土川は「労務の土川」として知られ、犬山モンキーセンター、明治村など中京圏振興に大きく貢献した人物である。

 明治36年(1903)、愛知県生まれの彼は、昭和3年(1928)京都大学を出て、旧名古屋鉄道に入り、将来を嘱望されていたが、合併後、愛知電鉄側から就任した社長に睨まれる。その上不運は重なり、妻、そして父を失う。
 会社ではいろいろ努力し実績も挙げるが、理由をこじつけられて閑職の厚生部長に左遷させられた。この厚生部長は、青年たちの心身鍛錬も受け持つ所長でもあった。
 鍛錬所は東濃地方の山深い温泉地にあったため、毎月2週間はここで暮らした。配所の月をながめるには格好の場所だし、青年の起居をともにする生活は、剣道選手時代の合宿生活の続きのようだった。
 暇はあるし、書物も読める。青年と歴史を語り、人情を語り、精神修養について語り合える場所でもあった。その後も左遷はあったが、このときの青年たちとの交流で、人情の機微や青年たちのものの見方や考え方を勉強することができたという。
 昭和20年(1945)、運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長となる。 その後、社長になった彼が提唱し、主導する「労使一体感」は経営の根幹につながったが、左遷の連続で苦しかった当時を振り返り、「左遷哲学」を次のように語っている。

「こう左遷が連続すると私にはおのずから左遷哲学が生まれてきた。左遷、栄進なんてものはいろいろな見方がある。いかに左遷されてもそれによって世間の同情が集まるような時は五分と五分でたいした左遷にならぬものである。左遷のたびに易々とこれに従い、会社発展のために努力すると、これ意外な同情を得られるものであることがわかってきた」(『私の履歴書』経済人十三巻 272p)
          *          *
 この「左遷でも会社発展のために努力すると、意外な同情をえられるものだ」は大変な達観の境地です。
 私も地方に左遷され、その恨みから半年ほど仕事の手抜きをしたことがあります。手を抜いた遅れを取り戻すのにずいぶん苦労をしました。具体的には職場の人間関係、仕事の精通度などがスムーズにいかないのです。手抜きは自分が一番よく知っているものです。ヤケを起こせば自分に必ず跳ね返ってきます。心ある人は、必ずどこかで見てくれています。それを信じて、自分のために努力する必要があります。

不本意な出向

現在は本社の企業基盤を強化するため、他社との提携、合弁、合併などをグローバルに行い、多角化を積極的に推進している。
そのため人員配置も本社だけでなく、地方や他企業または外国との提携会社などと多様になっています。

その配属に対してどのように対処すれば良いのでしょうか?その回答が次の2例となります。

安居は、同期の仲間と比べて取締役就任がずいぶん遅れたが、この言葉を自分に言い聞かせて誠実に仕事し、その実力が回りに認められて、花を咲かせた。

 昭和10年(1935)、京都府生まれの安居は昭和32年(1957)に京都大学を卒業して、繊維メーカーの帝国人造絹糸(現:帝人)に入社する。工場勤務、大阪本社に次いで海外出向するが、台湾で合弁事業、ビデオ事業・自動車販売など多角化事業の撤退を担当するものであった。
 次は欧州拠点の撤退、4回目の出向で帝人商事へ。彼は転勤、出向の連続で、子会社への出向は通算20年、そのうち10年は海外だったという。最後のお勤めと思ったインドネシアが好きになり、定年までいたいと願っていた。
 同期からの出世競争からも遅れていた50代後半、第2の人生をそろそろ考えているとき、本社に呼び戻される。同期から6年も遅れて57歳の取締役となったのだ。
 社長になったのは5年後の62歳だった。その後、舌ガンで社長を退任し、70歳で会長を退き、これから自由な生活に入ろうとしていた矢先、当時の小泉首相から中小企業金融公庫の総裁を要請される。
 安居は不本意な出向、事業の撤退業務、山あり谷ありのサラリーマン人生のすべてを、自分を偽らず、一生懸命生きてきた。その彼が日本政策金融公庫総裁となったいま、「心構え」の生活信条を次のように述べている。

「思えば、私からやりたいと言って就いた仕事は無い。普通の人間だから、不本意な人事に、会社を辞めようかと迷ったこともある。
 ただいかなる時にも腐らなかった。どちらかと言えば前を向き、少しだけだが未来を夢見て生きてきたように思う。自分なりに納得のいく結果を出せたら、それでよい。少なくとも自分をごまかさずに生きてきたつもりである。本当はこうすべきだと思いながら、目先の利益や上司の意向などを気にかけて自分を偽れば、必ず悔いが残る。他人はごまかせても、自分はごまかせない」(「日本経済新聞」2009.10.1)
          *          *
私は文章のこのくだりを読んで、同情と同感で涙を禁じえませんでした。
「私の履歴書」に登場する多くの経営者が、会社の傍流を歩んでも腐らず、与えられた職場単位で懸命に働き、自分の職務を果たしていくという信条に打たれたのです。
 その努力の蓄積が実力となり、周りの多くの人々から高く評価されるようになっていくのです。
「目先の利益や上司の意向などを気にかけて自分を偽れば、必ず悔いが残る。他人はごまかせても、自分はごまかせない」は心ある人にとって珠玉の言葉です。

 会社の傍流を歩いて社長になった佐藤は、発泡酒、缶チューハイ、ウイスキーの投入などアルコール総合化戦略で市場シェアの長期低迷を食い止め、ライバル企業を追い越す上昇気流に乗せたことで高く評価された。

昭和11年(1936)、東京生まれの佐藤は、同33年(1958)、早稲田大学を卒業し、キリンビールに入社する。その翌年、神戸支店営業課に配属となるが、実態は内勤で、キリンで花形といわれた営業とは違い、空き瓶回収の伝票処理などの地味な仕事だった。
 赴任して半年後、彼は上司に支店全体の業務や人員配置の見直しを求めたが無視される。この上申を快く思わなかった支店長に「きみは中小企業のほうが向いているよ」と屈辱的に言われ、不本意な近畿コカコーラボトリングへの出向となる。
 出向前の東京での研修の際、「ルートセールスの担当だ」と言われ、トラックに乗って朝から晩まで都内の小売店を走り回ったが、実際に現地に出向してみると、また、仕事の内容が違っていた。
 仕事は内勤職で、上司である年配の部長と、社員は実質彼1人のようなものだった。しかし、与えられた仕事を、1つひとつ誠意をもってこなすことで、実務のエキスパートになることができた。
 この出向で、彼は次のような「悟り」を得ることができたと述べている。

「定款こそできていたが、経理に関する規定は何もない。走りながら考えるしかなかった。開業に必要となる大阪府や大阪市、税務署への届出も期限ギリギリに間に合わせた。
 固定資産の減価償却は『定率法』か『定額法』か。在庫評価は『後入れ先出し法』か『総平均法』か…。まだ社会人になって三年目だったが、次から次へと経理のルールを決めなければならない。疑問点があると、原価計算や簿記の辞典と首っ引きになって考えた。仕事に追われながら、人間、どこへ行っても勉強はできるなと思った」(「日本経済新聞」2005.9.8)
          *          *
 会社や社会の仕組みを、原点から実務で経験している人は強い。
経済が右肩上がりで成長しているときは、営業型のリーダーシップが望まれるが、不況期や激動期には、堅実で実務的なリーダーシップが望まれます。
 頭では理解していても、地味な実務はなかなか素直に取り組めないのが人情です。しかし、この下積みに耐えて努力した蓄積が人間を成長させ、いざというとき、次のステップの出番に期待に応えることのできる人材になれるのです。

不遇時代の対処法
1. 失敗しても腐らない。必ず心ある誰かが見てくれている。
何事も粘り強く、あきらめないでチャレンジしていれば、道は開けてきます。必ず訪れる敗者復活戦のときに対応できるか否かです。そのときのためにも、不遇のときの努力は必要なのです。
2. 会社の発展のために努力すると、まわりから意外な同情が集まる。
現在社会から存在価値を認められている会社を発展させたいのは、労使とも共通の価値観です。真面目に職務に精励していれば、必ず共感する人が増えてきます。心ある上司ほど、評価してくれるはずです。社会的価値のある会社を発展させる努力をしましょう。
3. 仕事は明るく、前向きのスポーツ感覚で取り組もう。
いやいややる仕事は能率が上がりません。楽しく取り組めるような工夫をすることが求められます。自分流の〝仕事を楽しめる努力〟をしましょう。
4. 出向は試練と受け止めよう。
人生には無駄なものはありません。いろいろな経験が肥やしとなって、それぞれの人生を豊かにします。不遇時代は自身の成長のために必要な〝肥やしの時代〟と認識し、そこで体験するさまざまなことを次のステップアップの糧としましょう。

過酷なシゴキ

大阪有名校のバスケット部の顧問が生徒に過度の体罰を加え、自殺に追い込んだとしてマスコミをにぎわしていた。被害者の両親にしてみれば「死に追いやるまで体罰を加えなくてよいではないか」と思うのは当然である。
しかし、戦前やベビーブーマー時代に生まれた人たちは、体育系のクラブは体罰が当たり前と思っていた。野球部にしろバスケットにしろ、グランドを50周とか、コートをうさぎ跳びで50回などハードな訓練を課していた。途中でぶっ倒れるとバケツの水を被せたり、バットで尻を殴るとかの鉄拳制裁が日常茶飯事であった。

これにより「なにくそという根性が養われ、困難を乗り越える精神力が付く」と信じていた。こういうことを知っている校長や指導者は、「多少の体罰は仕方がない」と思っていたようだ。
しかし、自殺者が出たとなると何年か前の相撲の内弟子と一緒で、マスコミが放っておかない。連日、校長、教育委員会、そして行政のトップにその落ち度を追求している。

ところが昔の名選手は、この過酷なシゴキを乗り越えて大成しましたが、これも鍛え方の最良方法として存在していました。

1940年樺太生まれ。二所ノ関部屋に入門し21歳8か月で第48代横綱に昇進。柏戸とともに「柏鵬時代」を築く。1971年現役引退。一代年寄「大鵬」を襲名。2005年、相撲博物館長に就任。幕内優勝32回。

1940年(昭和15年)に樺太(現・ロシア・サハリン州)に生まれた。出生の直後に激化した太平洋戦争によってソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船で北海道へ引き揚げた。北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。
1956年9月場所にて初土俵を踏んだ。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されていた。序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき、十両目前の9月場所では3勝5敗で負け越したものの、幕下時代の負け越しはこの1場所のみでそれ以外は全て6勝以上挙げている。東幕下筆頭となった1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めた。
双葉山(時津風)、栃錦(春日野)、若乃花(二子山)、大鵬の大横綱4人の「私の履歴書」を再読して、次のことがわかった。4人の初土俵から十両への期間は、双葉山は2年8場所で、栃錦は2年8ケ月、若乃花は2年4ケ月、大鵬は2年9ケ月。いずれも昇進が3年に満たない。
しかしその後、十両から横綱への昇進は、双葉山7年(1931~1938)で25歳、栃錦10年(1944~1954)で29歳、若乃花9年(1949~1958)で29歳、大鵬は2年(1959~1961)で21歳だから、大鵬の際立った強さと速さに驚かされる。
しかし、異例のスピードで横綱昇進を果たした大鵬は、この昇進を裏付ける稽古量を次のように書いている。

コーチ役の十両・鬼軍曹の滝見山に最後のぶつかり稽古で散々しごかれた。土表に叩きつけられ、これでもかこれでもかと引きずり回され、へとへとに倒れ込むと、口の中に塩を一掴みガバッと入れられる。またぶつかって気が遠くなりかけると、バケツの水や砂を口の中にかまされる。この特訓の上に一日四股400回、鉄砲二千回のノルマがあった。

昔は、鍛えたい力士には青竹でバシバシと体中を何度も殴りつけたとも聞く。青竹は重くて丈夫だから選んだのだろうが、力士の体も頑丈だ。しかし何度も殴られると青竹も砕かれ、竹の先が箒の如くになってしまうという。今こんな猛烈な稽古を兄弟子がつけると若者弟子はすぐに逃げ出し、両親やマスコミに「パワハラで被害甚大」と駆け込むことだろう。
昔、「巨人、大鵬、卵焼き」は子供の好きな言葉であり、大人の好きな言葉は、「大洋、柏戸、水割り」でした。彼は何かにつけて巨人の長嶋を引き合いに出されたが、そんな時、彼はこう言った。「あの人のような天才でもなければスターでもない。私は南海の野村捕手のように下から苦労して叩き上げた努力型なんだよ。ああいう選手の方に親しみを感じるね」と。南海の野村捕手のように「ひまわり」ではなく「月見草」が似合っていると書いているのを見て私は驚いたのでした。

余談ですが現在(2017年)、序の口以上の力士になった人のうちで、十両になれるのが50人に1人、前頭が100人に1人、大関は200人に1人、横綱は600人に1人ぐらいと言われています。
相撲協会に在籍している力士は、約640名だから、横綱になれるのは1人です。それも毎年横綱に昇進するわけではないから、2年であれば1280人分の1になり、白鵬が10年も横綱を務めているのは、超人としか喩えようがない。本当に凄い大横綱です。

長嶋は1936年、千葉県生まれで、立教大学を卒業後、読売ジャイアンツに入団する。闘志溢れるプレ-と無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍し続け、多くの国民を熱狂させた。「ON砲」として並び称された王貞治とともに巨人のV9に大きく貢献した。最優秀選手5回(日本シリーズ4回)。引退後すぐに監督となる。1988年、野球殿堂入り。現在、巨人軍終身名誉監督でもある。

彼は1954年、立教大学を入学すると、野球部では鬼と呼ばれた砂押監督に目をかけられ、自宅に呼んでの練習など「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。監督は戦争経験があり、鬼のスパルタ教育者として六大学に勇名をはせていた。当時31歳の監督は自分にも厳しいが、手を抜くことを知らない。シートノックを捕り損なうと連帯責任で練習は一からやり直しだった。
夕暮れまで練習し、やっと合宿所へたどり着くと、飯を詰め込む暇もなく「長嶋、いるか、これから夜間練習をやる」と特訓が待っていたという。
伝説となった月夜のノックは有名である。ボールに白い石灰をなすりつけただけで、暗闇の底から「いくぞ」の声で強いゴロが飛んでくるものだった。

「いいか、長嶋、ボールをグラブで捕ると思うな。心で捕れ、心で!」そのうち「お前はまだグラブに頼っているのか。そんなもの捨ててしまえ」と怒鳴る。エラーをするとすぐグラブを外せ、となる。
だが、素手で捕ると球際が強くなって変化に対応できるようになる。一番やさしいところでバウンドを処理するのがフィールディングの極意だ。真剣に球と勝負していくと、それが分かってくるから不思議だった。

彼はバッティングの練習も普通の倍も重いマスコットバットを千回振るのがノルマだった。打撃練習で3時間、ぶっ通しでマスコットバットを振る。投手は入れ替わり立ち代り7人いる。そこまでしないと土台ができないからだ。練習しすぎで翌朝、腰が曲がらずトイレではしゃがめない。どうしようもなく中腰のスタンダップ姿勢で用を足した経験も多くあったそうだ。彼には守備と打撃専用の4年と3年のコーチ二人がついた。監督とコーチの三人がかりで鍛えられる方は大変だったと彼は述懐している。

彼の陽気さや華麗な守備と帽子を飛ばす派手な三振など、ショーマンシップが人気を博した。「ホームランを打ってスキップしながら生還する姿」や「暴投である高めのボールをホームランし、頭のあたりにきたウエストボールの球を打ったときはジェスチャー入りで笑いながら生還している姿」などはユーモアがあって、みんなを楽しませたものである。
マスコミに「長嶋は野球の天才である。動物的カンの男だ」と書かれ、それがいわゆる長嶋像として定着している。しかし、彼は「天才肌でもなんでもない。夜中の1時、2時に苦闘してバットを振っている。自分との技への血みどろの格闘を一人で必死にやっていた」と反論している。
ところが、同じような血のにじむ努力はほかの一流打者もみんな猛練習しているので、あまり説得力はない。しかし、次の描写が彼らしい。しかし、

「絶好調の時は、怖いものなし。どんな球でもいらっしゃい。インコースだろうがアウトコースだろうが、この状態になると『来た球を打つ』だけ。私が『来た』と思えば、それは私のストライクゾ-ンとなる。悪球打ちというが、敬遠ボールやウエストボールをホームランにしたり逆転打にしたのも、マイゾーンに入ってくるからだ。そんな時、投げた球がソフトボールぐらいに見えて打てない気がしなかった」

このように、勝負時にはめっぽう強く、他人の悪口を言わない長嶋はやっぱり今でもみんなのヒーロー像だ。

 1937年、大分県生まれ。1956年西鉄ライオンズに入団。西鉄の大黒柱として3年連続の日本一に貢献。「神様、仏様、稲尾様」とあがめられた。1969年現役引退。以後、西鉄ライオンズ監督、中日コーチ、ロッテオリオンズ監督を歴任する。1993年野球殿堂入り。

 稲尾はバッティング投手として採用された。手動式練習機(ピッチングマシーン)と陰口を叩かれながら主力の中西太、豊田泰光、高倉照幸などを相手に毎日300球~400球も投げた。
 これは下積み時代のシゴキとしか言いようがない。ストライクばかりでは人によっては「疲れるではないか。3球に1球は外せ」と叱られる。ボール球も1球をストライクゾーンのコーナーギリギリを狙って投げる練習をし、制球力を磨いた。この過酷な練習から帰ると宿舎の二階までの階段が上がれないほどへとへとになっていたという。
 しかしこの制球力が彼の最大の武器となり、のちの長嶋との対決でも効果を発揮する。それは読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズで、第1戦を彼で落とし、第2戦も敗戦。平和台球場に移動しての第3戦、監督は彼を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。降雨による順延で中一日をはさんだ第4戦、三原監督は彼を三度目の先発投手に起用してシリーズ初勝利したが、彼はそれまでの長嶋には打たれたこともないコースを打てるはずのない崩れたフォームで打たれていた。味わったことのない恐怖感を覚えていた。そのとき開き直って次のように書いている。

「相手が感性で来るなら、こちらももう理屈はやめだ。感性で勝負するしかない。0勝3敗で迎えた1958年の日本シリーズ第4戦。長嶋封じに、いちかばちか奥の手を使うしかなかった。ノーサインで投げるのだ。瞬間芸の勝負。こちらがモーションを起こすとさすがの長嶋さんにも微妙な気配が生じる。踏み込んで来たら、テークバックで握りを変え、スライダーからシュートに、あるいはコースを切南海の野村捕手のようにり替える。引っ張りにかかる気配がしたら、その瞬間さっと外に逃げるのだ。この感性勝負で長嶋さんに勝った。三飛」

  彼はこの霊感投球とコントロールの良さで自信を得た。第5戦でも彼は4回表からリリーフ登板すると、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。そして舞台を再び後楽園球場に移しての第6・7戦では2日連続での完投勝利で、西鉄が逆転日本一を成し遂げた。彼は7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発し4完投。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊ったのだった。若い日に強打者を相手に毎日300球~400球も投げた苦しい経験が役立ったのだった。

*このシゴキの項では、名選手の好例を3つ取り上げたが、現在では少子化で社会背景が違ってきている。体育系のクラブも指導方法を変えていかざるを得なくなっている。また、会社に入ってくる新入社員も「怒られるのが嫌」で「常に褒めて仕事を教えないとダメ」となっています。
今年(2017)の箱根駅伝で3年連続の優勝をもたらせた青山学院大学の原 晋監督は「強いチームのつくり方」で次のように語ってくれています。

「選手個々に目標を設定させるだけでなく、ランダムで5、6人のグループをつくり、目標管理ミーティングを行っています。
ランダムにする理由のひとつは、学年、レギュラー、控え選手、故障中の選手、その区別なくグループをつくることで、お互いの目標を客観的に見直せるからです。それによって、より達成可能な目標を設定できるようになります。
もうひとつの理由は、チームに一体感が生まれるからです。主力選手だけ、故障中の選手だけのグループにすると、どうしてもチームが分断されます。それぞれの立場で、それぞれの思いを知ることで、はじめてチームとしてまとまります。」

ここにはシゴキのイメージは全くありません。選手に自主目標を設定させ、グループで目標管理ミーティングをさせています。あくまで自主的な自己管理です。このような人材育成が行われる現状に時代の変化を感じ、「時代は変わった!」と目を見張る思いです。

ガラスの天井を破る

米国のヒラリー・クリントン女史が初めての女性大統領に挑戦し、得票数では相手候補よりも上回ったものの、選挙では破れてしまいました。クリントン女史が敗北演説で「初の女性大統領になるガラスの壁が破れなかった」悔しさを、次代の女性に夢を託したことは記憶に新しい。
日本でも女性の活躍時代を推進すべく、政界、官界、経済界に呼びかけ、政府の政策も採り入れられています。日本の上場企業の女性トップは2015年12月現在、30社でした。
しかし、この「履歴書」61年間で登場した上場企業の女性トップは、だだ一人でした。

このガラスを破った人を紹介します。

実業家、テンプスタッフ創業者。テンプホールディングス取締役会長。篠原学園専門学校理事長。アメリカの『フォーチュン』誌に12年連続で「世界最強の女性経営者」に選出された。

篠原は1936年神奈川県生まれで、1953年に高木学園女子高等学校を卒業する。53年に三菱日本重工業株式会社に入社し、57年同社を退社。58年に東洋電業に再就職し、結婚するが、1年で離婚。家事手伝いを経て69年にスイス・イギリスに2年間留学する。71年にオーストラリアの市場調査会社ピーエーエスエー社に社長秘書として入社する。このときの驚きは、女性の管理者が何人かいて、一般の女性社員も責任ある役割を与えられていた。男女とも自分の好きな服装でテキパキと仕事をしていることであった。そして、「女性がこうして働ける世界があったのか。日本ではなぜそうではないのか」と彼女は疑問を感じたのだった。また、この豪州企業は、この会社の社員が休むとその仕事を埋める人材を派遣してもらっていた。この「テンポラリー・スタッフ(臨時社員)」のシステムに興味をもって帰国したのだった。

帰国後、1973年豪州で知った人材派遣業からヒントを得て人材派遣会社のテンプスタッフ株式会社を資金100万円で設立し、代表取締役に就任する。
当時は、東京オリンピック、大阪万博の後でもあり、目覚しい経済発展を続けている日本市場に、外国企業が猛烈な勢いで東京などにオフィスを構え始めていた。英語がわかり英文タイプが打てる日本人スタッフは限られていたので、企業は人材確保に苦労していた。
彼女は、「即戦力がほしい」という外資の需要と「技能を生かせる仕事がしたい」という日本人女性の潜在需要を結びつけた。彼女の仕事は外回りの営業と登録派遣スタッフの職場紹介が中心で、市場拡大に専心した。

しかし、売上が上がるほど人材派遣は企業に請求書払い、派遣スタッフには現金払いのため、資金繰りに悩むことになった。この問題も国民金融公庫の融資を得ることで解決することができ、84年には名古屋と札幌に支社開設する。そして85年には銀座と新宿に支店開設し、86年渋谷、東京駅前支店の開設など順調に事業を拡大していった。

当然管理職の育成が追いつかず、支店長は公募で採用することにした。支店も増え社員も100名ほどになったが、社員は登録スタッフの中から採用した女性ばかりだった。女性支店長たちは、受話器を置く暇もないくらい派遣依頼の対応に忙しかったので、顧客の要望に応じられるスタッフとの調整に追われ、目の前のことで手いっぱいだったという。彼女はここで次のように考えた。

支店長に対しては「任せる、褒める」の方針で、特段の指示も出さず自分で考えさせてきたけれど、社員が100人、売上高が100億円になるとそれではいけないに違いない。組織にもやり方にも限界が来ているようだ。そこで彼女は決断する。異業種でバリバリ働いていた若手男性をスカウトすることにし、成功する。それがリクルートの営業を担当していた水田正道である。

しかし彼は同僚5人と一緒に彼女に本格的に経営改善をするならと入社条件を突きつけてきた。彼女は水田を信頼していたのでこれを受け入れた。それが「経営計画の策定、計数管理、成果主義の3点を経営に採り入れる」ことであった。
これを採用することで支店長を含めた大幅な人事異動、組織整備、社内改革を行い、異業種経験をした適材適所の人材に業務を任せた。この「適材適所の人材に業務を任せる」決断は一大決意が必要ですが、これを行うことにより彼女が全体のマネジメントを行うことができ、難しいガラスの天井を破ることができたのでした。

不況の活用

どの企業も好況と不況の波をかぶります。
好況時には「得手に帆をあげて」進めば良いが、それがいつまでも続くわけがない。平素から市場の動向を読み、不況時に対する策を準備しおかなければならない。
しかし、そのタイミングを考え、決断するのが難しい。

その好例を紹介する。

 本田は経営を副社長の藤沢武夫に任せ、自分は開発に没頭し、共にホンダを世界的な大企業に育て上げて、日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを認められた人物である。

 明治39年(1906)、静岡県に生まれた本田は、昭和3年(1928)、自動車修理業で独立する。同9年(1934)、東海精機を設立するが失敗し、浜松高等工業学校で機械について基礎から勉強し直す。
 戦後、自転車用エンジンで成功し、同21年(1946)本田技研を設立、社長となる。そして、オートバイの生産を開始し、「ドリーム号」「スーパーカブ号」のヒット商品を開発する。これが順調に発展したため、自動車生産に進出した。
 岩戸景気とオリンピック景気の狭間の昭和37年(1962)には、景気がだいぶ悪化して日本の代表的な大企業までが生産調整に四苦八苦していた。しかし、彼はその1年以上も前の36年3月には生産調整を断行していた。
 そのとき世間からは何かと非難されたが、彼はちゃんとした見通しをもって行なっていた。アメリカのドル防衛でアメリカ経済が変調を来たし、日本にも影響しそうな気配があり、それに昭和35年(1960)から36年(1961)正月にかけての大雪で、日本の3分の2が大規模な交通マヒを起こしたため、販売不振となっていたからである。
 生産調整は、2月にやればまだ寒く、代理店に先行き不安を抱かせないように強気で押し通し、暖かい季節に向かい景気もよくなりそうな3月に実施した。あくまで代理店の気持ちを考えたうえでの決定であった。生産調整は5日間とし、実施までの約1か月間にどんなことを行なうか、綿密な計画を立てた。
 本田技研は急成長したため、生産機械や部品にアンバランスが目立ち、下請けの能力差による精度の違い、値段の高低などが生じていた。
 社員全員でそうした矛盾を洗い出し、不具合を是正した。このため、生産調整で操業をストップしても、社員は機械の配置換えや手入れなどで、休業どころではなかったという。
 その結果、生産を再開したときには、以前より質のすぐれた製品が、しかも低コストでできるようになっていた。ほかの企業は一般に好景気で、生産増大の傾向が強かったため、ホンダが操業停止をしても下請け業者からはクレームがまったくこなかった。
 生産調整に関する本田の次の言葉は、その判断力と先見力、決断力がすぐれていたことをあらわしている。

「このときの調整ですっかり体制を整えたため、いまの世の中が不況だといって騒いでいるさなかに、私のところは反対に増産に転じていられるのである。昔から言われているように、ヤリの名人は突くより引くときのスピードが大切である。でないと次の敵に対する万全の構えができない。景気調整でもメンツにこだわるから機敏な措置がとりにくいのだ。どんづまりになってやむをえず方向転換するのではおそすぎる」(『私の履歴書』経済人六巻 245p)
          *          *
 本田の例は、過剰生産に対応する事例ですが、今回のリーマン・ショックでは、全世界で市場全体の需要が急減し、大不況となりました。
 トヨタをはじめ、ほかの製造業者も在庫圧縮に大苦戦しましたが、鈴木自動車の鈴木修会長だけは前年からの景気後退を見逃さず、早めに生産調整を行なっていました。
各社の首脳陣も、前年から販売が思わしくなく、データ上ではわかっていたといいます。しかし、それを決断するタイミングと実行力に差が出たとしか思えません。
トップの先見性、判断力、決断力が被害を最小限で食い止め、会社の危機を救うことになります。

転職

昔の人は創業者であれ、芸術家、芸能人であれ、よく転職を重ねています。それだけ夢があり、バイタリティがあったとも言えます。
自分の夢を実現するためのまわり道だったとも言えます。

それを2例、紹介します。

小説家、劇作家、脚本家。数多くの時代小説のほか恋愛・人情小説などを多く書いた。「新吾十番勝負」「愛染かつら」などが代表作。「風流深川唄」「鶴八鶴次郎」「明治一代女」などで大衆文学の大御所の一人といわれる。

川口は1899年、実親を知らない子として東京・浅草の貧乏職人の家庭で育てられ、小学校卒業後、洋服屋や質屋の小僧、古本露天商、警察署給仕の後、電信士の資格を取り電信局に勤務することになる。しかし、職場は空気の流通が悪いので一日中発信機を叩いていると呼吸器がやられるため、結核患者が多くいた。彼は文筆家になりたい希望を早くから持っていたので、文章を絶えず書いていたし、詩や歌も作って同人雑誌にも出していた。そこで文学に近い環境に職を求めないとダメだと気づき、知人を頼って娯楽雑誌に雑文投稿や宣伝雑誌の編集、無名新聞の編集など、どれも半年とは続かない職業を転々とした。その間にもいつ発表できるか判らない小説や戯曲を勉強のつもりで書いていた。書き出すと勤めが厭になってやめてしまい、暮らしの立っている間は書き続け、金がなくなると職を探して歩く奔放な生活だった。

こんな自分本位の自堕落な生活を送っているので、友人には迷惑をかけ、借金をこしらえて払えなくなり、知人には愛想をつかされ、手に負えぬ不良児になったが、文学書は手放さず、芝居は見つづけた。
彼の楽しみは芝居と講釈と落語だけだった。芝居は歌舞伎と新派だったが毎晩のごとく安い木戸銭の座席で見ていた。これらの芝居などを見ている間にも職業は転々と変わったが、大勢新聞に勤めたときには、有名な劇評家から歌舞伎の知識を教えてもらっていた。
芝居と落語に熱中の次は義太夫に夢中になり通ったという。理由は、芝居は役を受け持つ弁慶や義経の役者がそれぞれの人物に扮するが、義太夫は、太夫と三味線の二人だけで全部の役をやり分ける。どの一人にも成りきってうまく語るのだから、ほとほとと感心してしまうからだった。
仕事よりも芸能好きだから貧乏暮らしは続いていたが、この時の芝居気違い時代がなかったら、脚本家の下地を作れなかったと述懐している。
その後、講釈師許に住込み口述筆記を手伝い、時代小説を書くための知識を習得した。そして久保田万太郎に師事して文学仲間の交友を広めてもらった。小山内薫のもとでは戯曲を勉強し、関東大震災の後、大阪で雑誌編集に携わった経験を経て作家の道に入っていった。

彼が生まれ育った浅草の特徴は、あらゆる芸能に熱中する気風のあったことで、芝居でも寄席でも、浄瑠璃でも清元や常盤津、長唄まで聞きに行ったり、師匠について習ったりした経験が、のちのちどれほど彼の戯作者として各種芸能に役に立ったか判らないと述べている。そして若い演劇志望者に次のように助言している。

「芝居や寄席へばかり通っていて不真面目な男だ」と避難されたのが、その実大きな勉強になっていたのだ。
私は今の若い演劇志望者に「十冊の本を読むより一つの芝居をみろ」とすすめている。芝居を見ないで演劇を学ぼうとするほど愚かな努力はない。舞台の実際が先で、理論はあとから付いてくるものでなければならない。

彼は上記のように枚挙にいとまがないほどの職歴を重ねたが、早くから文筆家になりたい希望を持っていたので、その環境に適している浅草にある職業を次々と選び転職した。目的意識を持って転職し、いろいろなジャンルの芸能の戯曲や脚本、小説を書く大作家になることができたのだった。

実業家。「段ボール」の実用新案を取得。大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、聨合紙器(現社名レンゴー)を設立した。パッキングケースを育て上げ「日本の段ボールの父」と評される。

井上は1881年、兵庫県生まれ。2歳の時に、兵役を逃れるため遠縁にあたる井上家の死籍相続人になる。高等小学校を卒業後、1895年から神戸の商家での丁稚を皮切りにその後、用紙店の住込み、回漕店、活版屋の小僧、中国料理店の出前持ち、パン屋、銭湯の三助、黒人相手のいかがわしい酒場の手伝い等職を転々とする。1905年、25歳になった彼は一人満州に旅立つ。青雲の志しで満州に来たが、彼が求めていた職はない。雑貨屋の番頭、炎天下の土木工事の監督、弁当売り、炭売り、うどん屋、牛肉の行商、あげくの果ては金鉱を見つけに満州奥地にまで放浪するありさまだった。
借金返済に行き詰まり、ついには自分の身柄を売りつけ西豪州の真珠採り人夫になろうとする。しかしこれは十人のうち半分は死ぬ「超重労働」であると聞く。人買い主に嘆願し、助けてもらってかろうじて、日本に帰る。

 このとき彼は初めて自分を取り戻したようにわが身を振り返り、将来を考えた。朝鮮、満州、中国にわたる流浪の生活は無謀というより、むちゃくちゃであった。それにこの異郷の生活によって得たものは、ただ年をとっただけだった。海外に雄飛して故郷に錦を飾るのを夢見たが、いまやその夢は粉々に砕け、心身ともに疲れ、元の裸一貫の生活に帰るのだ。このとき29歳。彼はここからやり直しだと固い決心をしたのだった。そして次のように書いている。

 まじめに働こう。これまでのような放浪生活はきっぱり縁を切って地道に暮らそう。いまから思えば大陸生活で私が得た、たった一つのものはこの決心だったかもしれない。そして私は「金なくして人生なし」という私なりの哲学を持つようになった。

1909年、このとき彼は再出発を「紙にするか、メリケン粉にするか」の決断に迷い、ついに巫女のお告げによって「紙」を選ぶ。昔、東京・馬喰町のレート化粧品で使っていたドイツ製品はボール紙にシワを寄せていた包装を思い出し、これを国産化しようと思い立つ。
これがダンボール紙製造の始まりとなるが、やってみると「紙のシワ」が不揃いで出てくる紙が扇形になる。これを均衡にするための試行錯誤を繰り返す。また、紙の質も段(シワ)をつけても風に当たると伸びてしまう苦労を何度も経験する。しかし、大陸での放浪で野宿や人にモノを乞うた惨めさや死ぬほどの苦しさを考えると苦労とは言えない。20以上も経験したいろいろな転職で培った知恵と才覚が生きてきた。あとは彼の不屈の闘志で努力に努力を重ね国産化の成功に導いたのであった。

懲戒解雇

自分の勤めている会社から懲戒解雇を宣告される場合は、滅多にないはず。
しかしもし、これがあった場合、大企業を相手なら、その被害者は萎縮して十分な反論もできず、終わってしまいます。

それを不屈の闘志で跳ね返した2例を紹介します。

 東京進出の旗振り役となり、関西ローカルだった吉本興業を全国区に押し上げた人物である。大阪府生まれ。関西学院大学卒。吉本興業に入社し、人気番組「ヤングおー! おー!」(制作・毎日放送:1969~1982年まで放映)などをプロデュース。 1991年に社長就任。

 中邨は花菱アチャコのマネジャーを担当し、どんなお客でも満足させる芸人(アチャコ)のプライドを目のあたりにして芸人の心意気を学んだ。その後、演芸部門の再興に取り組み、うめだ花月(大阪市)などの劇場開設に携わり、吉本新喜劇をスタートさせた。
 しかし人生は順風満帆ばかりではない。トップとの人間関係で思わぬ事態に発展する。上司の八田竹男と組んで演芸の復活に成果をあげてきていたが、昭和38年(1963)後ろ盾となっていた林正之助社長が体調不良で退任する。代わって東京にいた弟の林弘高が社長に就任した。新社長とともに東京から新しいメンバーが大挙して乗り込んできて、彼らは翌年4月に西日本最大のボウリング場をオープンさせた。東京組の新規事業派と大阪組の演芸派とに派閥ができ、彼は新社長と対立してしまう。
 そして昭和43年(1968)6月に突然、彼は「労働基準法20条に基づいて貴下を即時に懲戒解雇する」の内容証明付文書が送りつけられた。しかし、解雇理由は書かれていない。理由を示せと何度も迫ると「軽自動車を買い、私用に流用している」と回答してきた。これは全くの濡れ衣なので弁護士と一緒に徹底抗戦する。そうすると3ヶ月後の9月にもっと驚いた次の文書が送達された。

その後の調査の結果、懲戒解雇の理由がないことがわかったので処分を取り消し、5月27日付けをもって任意依頼退社願いを承認する。

とあった。彼が自ら退社願いを出したことにして落着させるというこの一方的な態度に激怒して、逆に彼から会社に対し、刑事告訴に踏み切った。
 晩秋のある日、退任した前社長林正之助が彼の自宅に訪ねてきた。「僕も近く復帰するので、中邨君も戻ってくれんか」と誇り高い前社長が頭を下げてくれた。その後、彼の人柄や実力を知る弁護士や仲間たちが協力してくれたので、「理不尽には徹底抗戦」の裁判に勝ち名誉も回復もできた。そこで彼は復社することに決めたという。
その後は1969年に始まった若者向け人気番組「ヤングおー! おー!」を企画するなど、テレビ局と組んでタレントを売り出す手法を確立した。東京は、人気が出ると思うと先物買いでギャラを高くするが、大阪は芸人の格でギャラを決める。この垣根を壊したのが中邨である。その突破口は明石家さんまだった。中邨は桂三枝(現・文枝)や笑福亭仁鶴、やすし・きよし、月亭可朝らを人気者へと押し上げ関西お笑い黄金時代を築いた。

1919年神奈川県生まれ、1940年上海にある官学校の東亜同文書院を卒業し、同年大同貿易(丸紅の前身)入社。主に食糧畑を歩いたが、経済界きっての中国通で知られ、中国との様々な商談を手掛け、丸紅の対中ビジネスの礎を築いた。また、アジアを中心とする海外と日本との橋渡し役として、数多くの国際会議やミッションに参加し、交流に貢献した人物である。

彼は東亜同文書院の学生時代から、中国各地を旅行し中国人の生活や文化に親しんでいたので卒業後も、東南アジア、特にフィリピンに強い営業基盤を持っていた大同貿易に就職する。最初の任地はマニラ支店で仕事は通信係りであったが、仕事の合間をみては華僑の実態について勉強をしたのが、後に大いに役立つことになった。
フィリピンは当時、米国の支配下にあり、マニラ麻、コプラ、砂糖、鉱山物などを主要産物として世界中に輸出していたが、この時のマニラ支店は年間で大同貿易の資本金(4百万円)にほぼ匹敵する利益をあげていた。彼も一員として大活躍していたが、昭和16年12月8日太平洋戦争が始まり、陸軍報道部員として徴用された。そしてフィリピンの地域や内情をよく知っている人間としてマニラ司令部に派遣された。彼は華僑対策に従事し華僑から軍に対し協力ももらうことができたが、この期間にフィリピン華僑論をまとめあげていた。

戦後、食料・油脂関係の仕事に就く。国内の菜種、魚油の買い付けに全国を歩く。食糧難でもあったので買い付ければ売れる時代でもあった。そして昭和25年(1950)6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、国際商品は一挙に値上がりしたが、翌年に入って停戦の兆しが出たとたんに反転し、ガターンと半値に下がってしまった。四苦八苦の努力をしたにも関わらず、結局、彼の担当部は2億5千万円の損失を出してしまった。この損失は当時の丸紅本社の資本金が3億円だったので、上司から始末書を出せといわれ、彼は大阪本店の油脂課長でもあったので、「損失を招いたおわび」としてこれを提出した。

ところが後日、副社長から「本日の役員会で君の懲戒解雇処分を決定した。ただし情状を酌量して即日、嘱託に採用する」と宣告された。彼は驚愕し「会社に迷惑をかけたことには十分責任を感じるが、法規、社規に違反したわけでもなく、まして不正は何一つない。相当の覚悟はするが、サラリーマンにとって極刑の懲戒解雇は納得できない」と食い下がった。彼は会社には持論を展開して粘りに粘ったところ、6ケ月後に一応処分は取り消された。
処分は撤回されたとはいえ、昇給は同期から大幅に遅れ、ボーナスももらえなかった。身の不遇を嘆き、会社の片隅でしょんぼりしているとき、自宅の近所の人で仏教の熱心な信者の人が、次のような助言をくれた。

あわてちゃいかん。名誉を挽回しようと急いではいかん。こういう時はじっとしていることだ。そうすれば必ず運は後からついてくる。じっとしていれば運が君の肩に乗る。乗ったら走れ。

この助言どおりに焦らずに時期を待つのはつらかったが、その「運に乗る」捲土重来の時期が来た。翌昭和29年に日本の食料事情の悪さを考慮した中国から「配慮物資」として、中国産大豆10万トンの輸入契約に成功した。これが食品業界から大変喜ばれ、期待以上の利益もあげることができ、以後彼の大活躍が始まったのであった。「名誉の回復は急いではいかん」の教訓が生きたのでした。

一人二役で超多忙

若いとき、自分に期待をかけられたり、将来を嘱望された場合、それを意気に感じてその期待に応えたいと張り切るものです。
その張り切りは他人から見ると超人的な働きに見えます。

その好例を紹介します。

放送作家、詩人、作詞家、小説家。作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員としてもかかわった。
阿久は1937年、兵庫県に生まれ、幼少期は兵庫県警巡査であった父親の仕事の都合で、淡路島で過ごす。1959年(昭和34年)に明治大学を卒業し、広告代理店・宣弘社へ入社する。彼は企画課に配属され、ラジオやテレビの番組の企画書、プレゼンテーション用のCMソングのほか、コピーも絵コンテも担当していた。これは1週間に一本というスピードで、ありとあらゆる番組の企画書をノルマのように書いていた。
1964年に結婚すると生活に対する責任と将来に対する職業を本気で考えるようになった。そのときに「ラジオの台本を書いてみませんか」との誘いを受け、応諾した。当然、仕事は掛け持ちになる。そこで最初は放送作家のタマゴとしてコント作りに励むが、このとき阿久悠のペンネームが誕生した。広告代理店・宣弘社の社員だったので、本名を名乗るわけにいかなかったのである。

広告代理店の社員である深田公之と放送作家阿久悠の過酷な二重生活のスケジュールは次のとおり。
1.横浜郊外の自宅を早朝に出て通勤電車内で、新聞記事からコントになりそうなネタを考え出す。
2.有楽町で降りて、テレビホールに行き、コントの背景とその衣装と持ち道具の準備を阿久悠として頼み、
3.それから大急ぎで宣弘社に出社し、タイムレコーダーを押す。そこで社員として打合せを行う。
4.そして会社を抜け出し11:00までに有楽町のテレビホールに行き、12:30まで自分の風刺コントの出来の善し悪しを点検する。
5.これが終われば、宣弘社に戻り、夕方まで完璧な企画課の社員であろうと企画書を書き続けた。
6.退社後は、阿久悠となり、テレビ収録に立ち会ったり、仲間たちと付き合ったりして深夜帰宅となる。
7.そこからまた、コントなりトークの台本なりをほぼ明け方近くまで書く。
このような生活を1日24時間休みなく2年間働き続けたのでした。

妻の雄子は何も言わなかったが、およそ人間離れのした生活に危機感を覚えていたに違いない。ぼくはぼくで、ぼくの才能を本気で信じた最初の人間である妻を裏切らないためには、大物になるしかないという思いが強く、そのための準備として小物の仕事をしつづけたのである。睡眠時間は3時間平均であった。

このときの心境をこのように書いているが、この時のがんばりと蓄積があったので、幅広いジャンルの仕事を成し遂げたのだった。人間は「自分の才能を信じてくれる人」がおれば、その期待に応えようと驚異的な働きができるものだと感じたものでした。