水上達三 みずかみ たつぞう

商業

掲載時肩書日本貿易会会長
掲載期間1973/08/15〜1973/09/10
出身地山梨県清哲
生年月日1903/10/15
掲載回数27 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
一橋大学
学歴その他東商予
入社三井物産
配偶者山崎種二紹介娘
主な仕事高崎、s22.7.3解散、第一物産、木下産商合併、経済同友会、海外移住審議会、外国為替審議会
恩師・恩人今井富之介
人脈石橋湛山(中学先輩)中曽根康弘・山際正道(高崎)、新関八州太郎、小林中、織田幹雄、田中角栄(岳父の店員)
備考代々庄屋、ニックネーム「隼の達」、銘「人は石垣、人は城」
論評

1903年10月15日 – 1989年6月16日)は山梨県生まれ。実業家。戦後三井物産に復帰した直後、財閥解体により、三井物産は多数の会社に分割され、そのひとつである第一物産代表取締役常務、同社副社長を歴任。1954年の三井物産大合同後は副社長等を経て、1961年から1970年まで三井物産社長、1969年から1971年まで三井物産会長、後に同社相談役就任。その間の1961年から1963年までは社団法人経済同友会代表幹事を務めた。1972年から1985年まで社団法人日本貿易会会長。貿易会会長としてはジェトロと、貿易研究所(現 財団法人国際貿易投資研究所)の設立に尽力。1977年から1989年まで財団法人中東調査会会長。

1.高崎時代
昭和3年(1928)に三井物産に入社した。翌年の春、私は群馬県の高崎派出所に「派出員付」として出された。私は2年後に若手起用で主席になったが、尊い経験をさせてもらった。相当量の商品を扱うことになったし、その間に歴史の荒波に揉まれたからである。
 私は生糸、砂糖、鉄鋼、外米、大豆、穀物、肥料、何でも勉強した。米、大豆は主席になる前から、産地と直接取引をしていた。高崎は、歴史的にも交通の要地で、商業は盛んだったし、「お江戸見たけりゃ、高崎、田町」の言葉通り、昔から信越商人は江戸まで出ず、高崎で買付ければ十分と言われたほどだ。当然、三井の得意先も多く、老舗との付き合いも多かった。異例のことだが、本店の営業部を通さずに取引した。

2.物産の解散と再出発
昭和22年(1947)7月3日、GHQから三井物産、三菱商事は解散せよ、と指令が飛んできた。よく誤解されることだが、三井物産、三菱商事は「解体」したのではない。「解散」させられたのである。財閥は「解体」であり、三井物産はようするに無に帰したのだった。“三井物産は無くなった”という実感が突き刺さった。
 「明日からどう食うか」を考え始めたとき、物資部の建材課長だった菅英一君から、「会社を作りましょう。社長をお願いします」と言ってきた。そこで新関八州太郎氏に社長をお願いし、昭和22年夏、「第一物産」の名で、結局私を入れて37名の同志たちと、我がおんぼろ会社は船出した。解散時、男子社員だけでも3千人あまりいた三井物産であったが・・・。それでも営業部には、繊維、肥料化学品、金物、建材、物資などの各部門を設け、一応、形だけは総合商社であった。

3.米国で転換社債を発行
蘇生した三井物産の社長に昭和36年(1961)に就任した。私は同38年にニューヨークでADR(米国預託証券)、転換社債を出した。ちょうど、商社斜陽論、自己資本の充実などが言われた時代であった。当方でも長期資本確保のため、日本での社債発行を研究していた。が、物産のような商社にそれが許される見通しは当分なさそうだ。そこでまず、外国での転換社債を考え、ニューヨーク市場に出すことを決めたのである。2回目は国際金融情勢、政府方針もあり、ヨーロッパで発行した。

4.公害問題に取り組む
昭和38年(1963)秋、当時行政管理庁長官の山村新治郎氏から「行政審議会の会長を引き受けて欲しい」と頼まれた。そこで最初に「公害問題」を取り上げることにした。このときの委員は、市村清氏、大宅壮一氏、水野茂夫氏、杉村章三郎氏などだった。東京オリンピックの前年で、まだ「公害」の言葉すら耳慣れないころだった。そこで最も分かりやすい「水」「空気」「音」を対象にすることとし、空気は東京・日比谷の交差点、水は隅田川、音は大田区と川崎市内で調べた。
私たちは山村長官、鈴木俊一東京都副知事などと半日を費やし調査船に乗って隅田川を下り実地に視察、水質汚染を検査、船から降りて集会を開き地域住民の声を聞いたのだった。

水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年10月15日 - 1989年6月16日)は、日本実業家

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