第2章 病やハンディキャップとの闘い

人間は弱いものです。
不遇の原因を他人や環境のせいにしがちですが、自分自身が原因と自覚すると自分で解決法を見つけ、克服するしかありません。

その問題解決の対処をここで取り上げました。

落第

人生の最初の挫折は落第だと言われています。
特に志望校が人気の高い学校であれば、小学校や中学校受験からでも、失敗すると挫折感を味わうことになります。
大学の場合、一浪はヒトナミ(人並み)と読むと先輩からいわれ、私は安心感を持った経験があります。

しかし、希望校に入れなかった挫折感を発奮材料にして、大成した人も大勢います。これを紹介します。

映画監督、俳優、世界的な演出家で「世界のニナガワ」とも呼ばれる。
彼は1935年、埼玉県生まれ、高校で落第、画家を志して東京藝術大学を受験するが失敗し、画家になるのを諦める。「劇団青俳」に参加し、俳優として活躍していたが「自分は演出に向いている」と悟り劇団を結成し演出家に転向した。50歳のころまで俳優としても出演していたが、親しい女優の太地喜和子から「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優をやめてちょうだい」と言われ、俳優をやめ演出家専業となる。鮮烈なビジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とした、現代日本を代表する演出家である。

アングラ・小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビューし、次いで商業演劇の演出家に転向した。それ以後、若者層を中心に人気を集めた。
彼の演出作品は、現代劇からギリシャ悲劇やシェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたる。平幹二朗主演の「王女メディア」は辻村ジュサブローに衣装を頼み、きらびやかだが、異様なかぶり物を使うなど舞台装置の巧さを合わせた斬新さは、海外でも評価が高く、その演出は「世界のニナガワ」とも呼ばれた。
また、彼は短気な気質で、苛烈な演技指導の厳しさでも知られ、「口よりも手よりも先に、物(特に、靴)が飛んでくる」と言われるほど、一般的にはスパルタ演出家のイメージが強い。一方で人情的で心優しく、「周りにだけでなく、同様に自分に対しても厳しい」姿勢で仕事をするため、数多くの俳優やスタッフから慕われていた。(彼の葬儀の参列者も異口同音で教育的で慈愛のある指導だったと述べ、哀悼していた)
彼は演出家として心構えの原点を次のように語っている。

ぼくの演出する舞台は開幕からの3分を大切にする。懸命に働いた人たちが夢を見ようと足を運ぶところが劇場だ。幕が開いたとたん眠気に襲われる芝居であってはならない。そう戒めている。

彼は高校落第、行きたい大学受験の失敗など挫折と孤立をかみしめ、独学で映画を研究し読書に耽り、監督やディレクターと接する現場から演出を勉強した。
なかなか世に受け入れない怒りを力に変え、前例のないアイデアを生み出した。歌舞伎など日本文化の伝統からヒントを得た桜吹雪、大階段、緋毛氈の絨毯、石の雨、赤い月などであり、英国や仏国、イタリアなどの広場や史跡、絵画にも多くのヒントを得てマクベスなど西洋もの演出だった。
この屈折した時代のエネルギーが新しい演出技術の模索に繋がり、新分野を開拓することができたのだろう。

覚醒剤

現在も芸能人やアスリートにも脱法ドラッグ(麻薬、覚醒剤、大麻)で逮捕される人はあとを絶たない。
逮捕された有名人は反省し更生を誓っているが、後に再逮捕されるのをみると薬物依存症から脱却するのは難しいのだろう。

改習者の告白では、極度の依存性になると肉体も精神もズタズタになりコントロールが効かなくなり、家庭や職場にまでこの言動が悪影響を及ぼすという。これを未然に防いだ登場者を紹介する。

彼女は長らく上方漫才・喜劇界をリードした関西を代表するコメディアンであり女優。民間ラジオ放送草創期の人気番組『漫才学校』『夫婦善哉』の司会などで知名度を高めた。
1920年(大正9年)現・東京都中央区日本橋小伝馬町)生まれた。父は芸事が好きで新内節を唄い、寄席芸人を招いては宴を楽しむ趣味人だった。1927年(昭和2年)家具屋をたたみ、父親の思いつきで芝居一座を結成し、娘の彼女が座長になった。

彼女は苦しくてつらい想いを正直にこの「履歴書」で告白している。早くから舞台生活を送ったため、十分な教育を受けられなかった。早熟で駆け落ちを16歳でして失敗、落語家から漫才に転向し人気を博していた三遊亭柳枝師匠と結婚するも師匠の女癖の悪さから協議離婚。
こんなときは仕事もうまくいかない。疲労困憊していた昭和22,23年頃は、覚醒剤を疲労回復薬としてどこの薬局でも売っていたので、芸能人や受験生も気軽に注射をしていた。そこで彼女が気軽に始めるとあっという間に深入りし1日40本もうち、そのせいで眠れないと睡眠薬にも手を出してしまった。
こんな状態ではどの劇場も使ってくれず、仕事もまったく無くなり、どん底生活が始まった。その間に症状が次第に悪くなり、ちょっとした音にもびっくりし、電車の中でも道路でも、泡を吹いてひっくり返るようになった。時には舌を噛んで血の泡を吹く状態となっていたという。そこで父親や周りも彼女が極度の覚醒剤依存症になると放って置けなくなり精神病院に入院させたのだった。

その夜から禁断症状が襲ってきた。薬が欲しくてたまらない。眠れないし、胸苦しくて吐き気もする。入院したての患者は禁断症状で暴れるらしいが、私は必死なって我慢した。芸人としての誇りからだった。(中略)いっそ死んでやろうと、病院の中をさまよった。鉄格子にひもをかけようと思ったが、高いところにあって届かない。低いところはちゃんと看護婦さんが見ている。
ひもがかかるような角はすべて丸く削ってある。トイレも下半身は隠れるが、上半身は見えるので自殺など出来ない。よく行き届いているなと、妙なところで感心した。
結局、死ぬのをあきらめて、食べては寝、寝ては食べる毎日に戻った。この規則正しい生活のため、やせ細って30キロほどしかなかった私の体も、自分でわかるほど太ってきた。

彼女は比較的軽症だったので入院して20日程度で退院できたが、病院で重症の人の禁断症状やうつろになった顔を見て、つくづく薬物依存の恐ろしさを思い知った。「必死なって我慢した。芸人としての誇り」から二度としたくない、人にもさせたくない気持ちから、このように自己の暗い人生を正直に告白してくれたのだろう。ここを起点にして彼女は立ち上がったのでした。

このとき彼女の付き人になっていたのが鈴木(南都雄二)で、実質二人が夫婦になっていたため、漫才コンビを組むことになった。その後も曲折はあるが、ラジオやテレビの人気番組『漫才学校』『夫婦善哉』の司会などで人気を博し、映画や舞台で幅広い演技と芸風で多くのファンを魅了した。薬物依存の恐ろしさを家庭や職場の周りの親しい人が本人に忠告し、早めに医療機関や保健所など相談機関を利用して欲しいものです。

虚弱体質

この「履歴書」の登場人物は人生の成功者といえますが、幼少の頃は多くの人が虚弱体質だったと書いています。

明治・大正・昭和のはじめでは社会全体がインフラ整備も不十分だったため、衛生状態も良くなかったので、肺結核、胃潰瘍、腸チフス、マラリア、コレラ、ジフテリアなどの経験者が多くおられました。

 石川は初代経団連会長・石川一郎の六男として大正14年(1925)東京で生まれる。昭和23年(1948)に東京大学を卒業後、運輸省(現:国土交通省)に入省するが、同30年(1955)国鉄を退社。鹿島守之助の二女の婿となり、取締役として鹿島に入社する。社長、会長として原子力発電所、超高層ビル、名神高速道路など大型受注を推進した。また、日本商工会議所の会頭としてもリーダーシップを発揮した人物である。

 彼はスポーツ好きで、小学校の運動会ではいつも代表選手になっていた。しかし、小学6年のとき、結核の前段階である肺門リンパ腺炎にかかり、いっさいの運動が禁止された。
 中学校に入っても胸の病気が悪化し、欠席気味だった。中学1年の3学期から2年の2学期半ばまで休学しなければならない、重症であった。
彼にとって、問題は病そのものより、学校に復帰したあとだった。数学の授業に出てもさっぱりわからないし、休んでいるあいだに代数はどんどん進み、ついていけなくなっていた。その結果、2学期の通信簿は数学だけ落第点になっていた。
そのとき、石川はつくづく思った。「結局、誰も苦境に陥った自分を助けてくれない。母親やまわりのみんなが看病してくれるし、医者も診療してくれる。しかし、それは支援であって、自分自身が病気を治すという強い意志をもち、なすべき努力をしなければ回復しない」と。
 そこで健康時でも、体を強くしていないといつ病魔に襲われるかわからないと気づき、次のように決心する。

「体を鍛えよう。家で体操を始めた。簡単な内容から徐々にきつくし、腕立て伏せや縄跳びをするようになる。夜、はだしでテニスコートを走った。寒くても欠かさなかった。体が良くになるにつれ、勉強も身が入る。中学三年で皆に追い付き、四年になるころには、数学をはじめ成績はトップクラスに戻っていた。
今でも私は毎朝、体操をする。病気だとか早朝に急用があるかということがなければ、寝床から始めて一時間はする。竹踏みも千回だ。
中学での大病と数学の成績悪化を経験し、私は生涯を通じて自己を律する指針を得たように思う。『克己心』が人間にとっていかに大事かを身をもって知った。今でも座右の銘にしている」

 彼は中学生のとき、「健康は自分で守るもの」と気づき、誰にも相談せずに「なすべき努力をしなければ回復しない」と自分の体を鍛え始めたといいます。この気づきが再出発点です。
 すぐれた人は意志が強く、自分で決めたことは徹底して継続します。その一つが晩年でも毎日1000回の竹踏みでした。この数字は半端ではありません。「自分の健康は自分で守る」という気迫の感じられる数字です。

 三島は「初恋の味」で親しまれた乳酸菌飲料のカルピスを、世界で初めて発売した人物ですが、この開発は彼が明治41年(1908)内蒙古(現:内モンゴル自治区)に入り、病気で瀕死の状態のとき酸乳に出会い、健康を回復したのが動機だった。
 三島は明治11年(1878)大阪府生まれで、父親は浄土宗本願寺派の住職だった。明治35年(1902)龍谷大学を卒業後、英語教師となるが、25歳(1903)で辞し、中国に渡る。大正4年(1915)帰国後、「心とからだの健康」を願い、酸乳、乳酸菌を日本に広める決意をし、同6年(1917)ラクトー株式会社(現:カルピス)を設立。
三島は96歳で亡くなるが、「私の履歴書」を連載していた昭和41年4月は89歳だった。自ら「証券市場に上場されている会社の社長では最高齢者」と書いている。彼は生来強健の質ではなく、特に消化器と呼吸器が弱く、子供のときから薬ばかり飲んでいた。
 三島は父を60余歳、母を47歳で亡くし、2人の娘は20歳代で早世した。「血筋から言えば今日まで生きているのが不思議である。だから人一倍、健康に気を使い、努力してきた」と周囲に語っている。それだけに、健康に役立つ書物は片っぱしから読み、あらゆる方法を試みていた。
そして、「時間を守って規則正しく生活すれば、身体はおのずと健康になる」という結論となった。そこで彼は、1日24時間を、10時間の睡眠、午前4時間の執務、午後2時間の読書、そして残る8時間を体力維持のための時間と定めたという。これを厳守するため、冠婚葬祭等の出席はいっさい断わり、妻子またはほかの人を代理に立てるように徹底した。
その1日8時間の健康法の内容は、「1.食生活、2.散歩、3.手足の温浴、4.日光浴」であり、それぞれに本では詳しく説明してくれている。特に有名なのが日光浴である。それを彼は次のように紹介している。

「日光浴の効用:昭和元年以来、ずっと続けてきた。およそタダで得られるものほど必要度は高い。(中略)日光浴の方法だが、夏は朝六時から七時までの十分間、冬は午後一時の間に三十分ぐらいやる。ある夏、長時間強烈な紫外線を全身に浴びて脳貧血を起こした失敗から、今村荒男博士の“肺や心臓のある肋骨の部分に日光を直接当ててはならない”という注意を守り、タオル製のチョッキを着用している。
また、日光浴で拡大鏡を使ってヘソの回りを焼かんばかりの高温度で照射するのが、私の独創で、秘伝である。二十年ほど前、ヘソに灸をすえてたいへん効能があったことから、モグサの代わりに日光であたためてもよかろうと考案したのだ。『ヘソの下には胃とスイ臓がある。熱で刺激すれば胃液、スイ液の分泌をよくするからよろしい』と私の主治医柿沼庫治さんが、この方法に太鼓判を押してくれた。ただし、やけどをしないように注意がいる」(『私の履歴書』経済人十巻 203、204p)
          *          *
 この本ではお灸の代わりにレンズを使ってヘソをあたためる執筆者の写真はユーモラスでもあります。三島の1日8時間の詳しい健康法メニューには驚かされました。
 高齢になると、特に健康管理が大切になってきますが、徹底することが重要だということがわかります。
 三島は健康法メニューの4種類を詳しく説明してくれていますので、本人の「私の履歴書」(『私の履歴書』経済人十巻)をご参照ください。

病気

人間一生のうち、誰でも何らかの病気を経験する。しかし、何か月間も治療を要する大病となると精神的にも滅入ってしまう。

自分の明るい将来をあきらめかけた時、どのような心境でこれを克服されたか。
お二人の経験を例示いたします。

日本の実業家。三菱地所社長、会長等を歴任。交詢社副理事長。福澤諭吉の曾孫。
1932年、東京生まれ。諭吉の次男・福澤捨次郎(時事新報社長)を祖父、捨次郎の子・福澤時太郎の次男として生まれる。小学校5年のとき肺結核を患い、慶應幼稚舎を卒業後は療養生活に入ったため、中学・高校へは行けなかった。23歳の時に病状が少しずつ快方に向かい、独学で大学入学資格検定(大検)を取り慶應義塾大学法学部に入学。1961年に同大学を卒業し、28歳で三菱地所入社。長く営業部門を歩み、老舗企業体質をグローバル企業体質に変身させた実績を残す。


彼が就職した三菱地所は老舗企業で殿様商売のように思えた。旧態依然とした商慣習の価値観でテナントは一業種一店の入居基準だった。会社は「テナントにビルの使い方を教える」という上からの目線で接していた。だからテナントの競争原理による創意工夫が生まれないので、ビルの魅力も失われていた。それを彼が営業部長の時にこれを撤廃した。


彼が新社長になったとき、すでに買収していた米ロックフェラー・グループの再建を行う。このビル群は、ニューヨーク・マンハッタンの中心部・48番街と51番街に19の商業ビルが四方に建ち、各ビルの低層階はひとつの建物として繋がっている。中心にあるセンタービルの半地下のプラザには、万国の国旗とプロメテウスの黄金像が立ち、夏にはカフェテラス、冬にはアイススケートリンクとして使用される。特に12月になると特大のクリスマスツリーが飾られることで有名である。しかし、米国で不動産不況が起き、賃料が一気に下落した。再建を図るために、特損をだす日本でいう民事再生法で法的整理を行おうとした際、ロックフェラー家当主のデービッド・ロックフェラーからときの総理大臣にまで手を回し、それを阻止させようとされたが、初志を貫き上場以来の1200億円もの赤字決算を断行することで再建が容易となった。また、丸ビルの建て替えで初めて指名入札を導入したときは、建設業界に恨まれた。それでも勇気をもって見直し「守るものは守り、変えることが道理にかなう」と考えに基づくものだった。彼の生き方の「物事の本質だけを追い求める」という考えの原点は、13年間の闘病生活にあると書いている。

自分の入院が長引いたら、親兄弟に迷惑をかけ続ける。天井の染みを眺めては「本当に済まない」と繰り返す毎日だった。(中略)入院歴でも年齢でも先輩の患者たちが病室に来て、「親に迷惑をかけているなんて気に病むな。病気を治すことだけを考えろ。エゴイストになれ」、「この病気は神経質では治らないよ。神経を太くして、無神経にならないといけない」と諭してくれた。

彼はこの助言を「他人は他人、自分は自分」と割り切ることも大事だと納得する。それまでは結核と一人で闘ってきたので孤独だった。年齢や出身が違っていても、同じ病気を抱える人たちのアドバイスは最高の薬になった。「病気を治すことに専念しろ」の助言で単調な入院生活に歯を食いしばる気力がみなぎってきた。そして、彼は人が一生涯で実体験できることなんて、たかがしれている。やる気次第で知識は広がると思い、長い療養生活で多くの古今東西の名著を読むことで未知の世界を勉強したのが後々に役立ったのだった。

1911年、和歌山県に生まれる。1933年、兵庫県立神戸高等商業学校卒業後、野村證券に入社。戦後は、1949年取締役大阪支店支配人となり、1968年11月に社長に就任するまで瀬川美能留社長とのコンビで公社債市場から株式市場への資金調達を主流に成長させ、野村證券の発展に大きく寄与した。1978年には当時54歳の田淵節也に社長職を譲り、自らは会長となった。

彼は16歳の時、神戸高等商業学校に入学する。その当時、予科一年、本科3年の四年制高商は、神戸高商(現神戸大学)、東京高商(現一橋大学)の二校であった。予科を終え、本科一年に進んだ夏の終わりごろに突然、大喀血を起こす。校医の診断は結核であり、「君の生命はあと半年」と宣告された。当時の結核には薬はなかった。自然療法、安静療法だけであったので、光と水と空気のみで立ち向かった。しかし、母親の献身的な看病もあり、この肉の一片は母のため、この一片は自分のためと自分に言い聞かせ療養に努め、二年半で療養生活を終えることができた。この療養中に、神戸高商は神戸商業大学となり、彼の復帰すべき学校がなくなっていた。そこでこの有名校の名を引き継いだ県立高等商業学校の専門学校(現兵庫県立神戸高等商業学校)に当時の神戸高商の校長らが彼の才能を惜しみ推薦状を書き、転校することができたのだった。

野村證券に入社後、広島支店勤務から昭和13年(1938)大阪支店への転勤となり新設の株式係りに配属された。ここの上司に奥村綱雄瀬川美能留がいて、この黄金コンビで野村證券の基盤を築くことになる。時代の要請で、今までの公社債資金調達だけでなく、株式市場を通じての資金調達が重要視されるようになり、株式市場が活況を呈するようになっていた。このため、株式係りが株式部に昇格、本格的な株式業務への進出となったのだった。

問題は、昭和19年(1944)秋、彼が順調に業績をあげていたとき、二度目の大喀血に見舞われる。妻と子供を実家に預け、彼は和歌山の生家に身を寄せ、再び水と空気と光のなかで、半年におよぶ自炊と禁欲生活が始まった。何もすることがない。山の中腹に寝転んで、遠くの平野を眺め暮らす毎日だった。頼山陽の「日本外史」21巻、「里見八犬伝」など父の残した古書を読んだという。
そんなある日、はるか向こうの山の端に黒点が見え、だんだん近づいて来る。勘でこれを女だと定めて見ていると、近づくにつれ女である。男だと定めて見ていると男になる。この勘が百発百中当たるようになった。禅僧が深山にこもり、独坐して心魂を練るという理りも、ここにあると思った。この心境を次のように述べている。

人間、半年も禁欲、独坐すると、まず動物的な勘が鋭くなる。ついでこの勘は、社会的な勘に移っていく。昭和20年の春、鈴木内閣成立を見て、これで戦争は終わりだなと、ピーンときた。

戦後大阪支店に復帰し、彼は陣頭に立ち街頭に繰り出して民衆に新株の引受先を呼びかけた。そのときの反響がすばらしかったので、勘を働かせ「投資家大衆は街頭にあり」と確信した。これは、二度目の大喀血で失意の時、「古典の読書と坐禅」で得たものだった。これで得た自信から、この後いち早く百貨店内に投資相談所を設け、臨時資金調整法による丙種扱いの業種で、借り入れ、社債発行がほとんどできない百貨店に協力、わが国初の公募転換社債を取り扱ったのは、大阪支配人時代だった。また、東京オリンピック開催後の昭和40年不況以降、婦人証券貯蓄、従業員持ち株制度や財形貯蓄など、一連の累積投資業務で野村證券が業界トップの座を固めたのであった。

吃音症(どもり)

昔、私が子供のころ、吃音(どもる)の仲間が多くいました。私はそれを真似して吃音になった思い出もあります。
どもる癖のある子供はいじめの対象になりました。

その癖を持つ本人は、仲間に劣等感を持ちなんとかこれを克服するために努力をしていました。その克服法を2例紹介します。

 1918年、新潟県生まれ。高等小学校を卒業後、上京し中央工学校を卒業。1943年に田中土建工業を設立。1947年に衆議院議員。郵政相、蔵相、通産相などを歴任し、1972年に首相。日中国交正常化を実現。金脈問題が摘発されて1974年退陣。1976年、ロッキード事件で逮捕され、一審で懲役4年の実刑判決を受け、上告中に死去。

田中は自民党最大派閥を率い巧みな官僚操縦術を見せ、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。大正生まれとして初の内閣総理大臣となり、在任中には日中国交正常化や第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。また、高等教育を受けていない学歴でありながら、首相にまで上り詰めた当時は「今太閤」とも呼ばれた。明晰な頭脳とやるといったら徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた。
彼は体が大きく勉強も良く出来たので、小学校高学年でも級長をさせられていた。しかし、吃(ども)る癖を持っていたのでいつも引け目を感じていた。あるとき習字の時間に悪友が悪事を働き、責任を彼に被せたため、先生が一方的に彼を叱った。彼は立って弁明しようとしたが、吃るためうまく言えない。顔が真っ赤になるばかりで自分にいらだった。その無念さを晴らすため、すりおろした墨と硯を力いっぱい床に投げつけたのでした。そして次のように語っている。

 ドモリとは奇妙なものだ。寝言や歌を歌うとき、妹や目下の人と話すときはドモらないが、目上の人と話すときは不思議とドモるのである。せきこむととますますひどい。いくら矯正法の本を読んでもだめなもので、自分はドモリでないと言いきかせ、自信を持つことが大切なのだ。大いに放歌高吟すべきだと悟ったので、山の奥へ行って大声を出す練習をした。

この習字事件がドモリを治す端緒となった。その年の学芸会で「弁慶安宅の関」の弁慶役を先生に強引に頼み込んで認めてもらう。そして「自分はドモリでないと言いきかせ」自ら課した特訓で成果を出し、みごと勧進帳のくだりも読み上げ満場の拍手喝采を浴びたのでした。この成功の裏には「自分はドモリでないと言いきかせ」、自分に自信を持たせた特訓でした。ここが彼のリーダーたるプライドと思えます。
このときの弁慶役の成功が、どれほど彼にドモリ克服に自信を与えてくれたか計り知れないという。彼の弁舌は爽やかで聴衆を湧かせ人気を得ていたが、これもこのときの自信が原点のように思える。

また余談ですが、田中は弁舌の他に文章もうかまった。(「私の履歴書」の執筆は本人が完全原稿を仕上げた数少ない一人と日経新聞の当時の刀根浩一郎文化部長が証言している。:「私の履歴書」経済人別巻“取材記者覚え書”)
彼は建築作業で初めての賃金を得る前に、懸賞小説に応募して5円の賞金を稼いだのが「自分で稼いだ第1号だ」と書いている。新潮社が雑誌『日の出』を創刊(1932年)するに当たって懸賞小説を募集していたおり、田中は「30年一日のごとし」という小説を応募したところ、入賞し賞金をもらったのだった。

 「私の履歴書」では、幼年期から青年期、戦後の再出発の日(昭和22年4月26日)の28歳で代議士当選までを書いているが、その中に女性が3人登場する。その1人は柏崎町役場の電話受付嬢、2人目は長岡の芸者、3人目は新妻となる間借りした事務所の娘さんである。それぞれに対し誠実で人情味のある対応を書いているが、その興味ある新妻への誓いは次のように表現している。

3月3日、桃の節句の日に二人は一緒になった。戦争が苛烈を加えてきたころなので、はでな結婚式も披露の宴もできず、二人がその事実を確かめ合うだけで良かった。ものもいわず、虫も殺さぬ顔の妻にその夜3つの誓いをさせられた。その一つは出ていけといわぬこと、その二は足げにしないこと、そしてその三は将来私が二重橋を渡る日があったら彼女を同伴すること、以上である。もちろんそれ以外については『どんなことにも耐えます』と結んだのである。私はこの三つの誓いを守って、今年で25年を迎えるのである。今考えてみると、そのときから彼女の方が私より一枚上であったようだ。

 これには後日談がある。中川順日経元編集局長が自著『秘史』(講談社)の中で紹介したものだ。小林秀雄が「政治家にあんな文章が書けるわけがない。しかし、あの文章は、本人ではないと書けない文章だ」と褒めていると田中に伝えた。文化勲章の受賞者であり、天下の評論家の小林秀雄から褒められた田中は喜び、後日単行本として出す彼の「私の履歴書」の序文をお願いしたところ、丁重に断られたそうだ。
 しかし、彼の文才を天下の評論家も認めたことになる。そして、上記の3つの誓約は、彼のその後の多くの女性関係の噂を考えると「新妻との約束は果たしている」とも思え、とても微笑ましく感じたのでした。

1935年米国、マサチューセッツ州で生まれる。マサチューセッツ州立大学卒業後、イリノイ大学院で博士号を取得、GE(ジェネラル・エレクトリック)入社。後年、21年に亘りCEO(最高責任者)として経営改革に取り組み、世界最優秀企業に育て上げた。1999年には『フォーチュン誌』で『20世紀最高の経営者』に選ばれた。

一人息子だった彼は幼少のころ背丈が低くて吃(ども)る癖を持つのため内向的であったが、吃るのは、母親が「貴方は頭の回転が早いため言葉が追いつかないのよ。心配要らない」と自信を持たせたり、トランプゲームに付き合せ「勝負の面白さと闘争心」を植え付けた。この自信と誇りが成長後の彼の生き方に大きな影響を与えた。次の文章は連載3日目に掲載されたが、母親の教育方法が厳しくて優しいしつけぶりが好評で、特に女性読者から「子育ての参考になる」と大きな反響があったと聞いている。

母が私にくれた最高の贈り物をたったひとつだけ挙げるとすると、それは多分、自負心だろう。自分を信じ、やればできるという気概を持つことこそ、私が自分の人生で一貫して求め続けてきたことであり、私と一緒に働く経営幹部一人ひとりに育(はぐく)んでほしいと願ってきたことだ。自負心があれば、勇気が生まれ、遠くまで手が伸びる。自分に自信を持つことでより大きなリスクも負えるし、最初に自分で思っていたよりもはるかに多くのことを達成できるものだ。

 この、ゲームの競争心で「自分を信じ、やればできる」という自負心が背丈のハンディの克服と、その後の野球、ホッケー、ゴルフといったスポーツへの興味、そしてビジネスへの情熱へとつながっていった。ここで培われた自信と誇りが、成長後の彼の生き方に大きな影響を与えたのです。
 ウェルチが幾多の大胆な経営革新を行ない、GEを世界最強の優良企業に育て上げることができたのも、自分に対する絶対的な自負心をもてたからでした。
この「履歴書」には、ヤナセ会長の梁瀬次郎も吃りの癖があったことを告白していますが、3人に共通して言えることは、吃音を治すにはまず、第一は親からは「本人に自信を持たせる」、本人にとっては「自分は克服できる能力を持つ」の自信であると書いている。天風会(注1)では「自己暗示法で治す」ことを勧めています。これは夜寝る前に鏡で自分の顔を映し、その眉間に向かって自分が願っている姿を想像しながら、「お前はできる」と声を出して自己断定して眠る。そして翌朝、目が覚めた時点で自分が願っている姿を想像しながら「お前はできた」と自己暗示かける。この繰り返しをすることで自分に対して「何事も克服できる自信」をつけることができます。私もこれを実践することで自分の種々の弱点を克服することができました。

注1:天風会
人間が本来生まれながらにもっている「いのちの力」を発揮する具体的な理論と実践論である「心身統一法」を普及・啓発している公益法人。
本部(天風会館)  〒112-0012 東京都文京区大塚5−40−8

帰国子女

グローバル化が進むと生活する場所が日本だけではなく世界各地になります。
当然、外国で育った子供は母国語として日本語ではなく現地の言葉となります。両親が日本に帰国するときは、行動を共にするのが普通です。
問題は、両親は子供を日本社会に適応させるのにいろいろ苦労をすることです。同時に子供も同じく親にも仲間にも言えない悩みや苦労を持つことになります。

この苦労と解決策を紹介します。

柏木は大蔵省(現:財務省)きってのアメリカ通で、国際金融通として知られ、初代財務官の役職は彼の才能を活かすための役職ともいわれている。

彼は大正6年(1917)中国大連生まれで、昭和16年(1941)東京大学を卒業し、大蔵省に入省する。父親が横浜正金銀行(のち東京銀行)の大連支店次長(のち同行頭取)だったとき生まれ、その後、父親の転勤でアメリカに住む。満12歳のとき日本に帰国したが、読み書きできる日本語は、ひらがなに簡単な漢字を合わせても、わずか150字足らずだったという。
 彼は生まれてから12年のあいだ、二度ほど夏休みを利用して一時帰国したことはあるものの、アメリカ滞在中は日本語を学ぶ機会も、使う場面も乏しかった。日常では当然、両親と日本語で会話をしたが、それは耳で覚えた言葉にすぎなかった。
 彼にとっての母国語は、すでに英語になっていたのである。帰国することになり、両親は柏木の日本語の読み書き能力について案じてくれた。それゆえ帰国後の教育はすさまじかったと、柏木は次のように語っている。

わが子の教育に関し、母は必死だった。教育勅語がなかなか暗記できないとみると、私の入浴中、脱衣所に入ってきて、ガラス戸一枚隔てた向こう側で大きな声で読んで聞かせた。こちらはそれを復唱して頭の中にたたき込んでいくわけである。
 日本語の読み書きは、帰国後ほどなくして人並みになったとはいえ、筆の方はまるでだめだった。習字の宿題となると、母の書いてくれた手本を敷き、その上に新しい半紙をのせて、母の字をなぞってつじつまを合わせたものだった。

 このエピソードは、母親の子供に対する教育の一途さが痛いほど感じられます。
 母国の日本社会に息子を適合させるため、母はあらゆる機会をとらえて日本の教育に全エネルギーを傾けたのでしょう。その甲斐あって、思春期に彼が書いたラブレターは、小学校の生徒のような字であっても、相手の心を動かすものだったと本人が自慢しています。
しかし、中には帰国子女は日本語の単語や熟語などが思うように話せず、また漢字も書くことができないため、日本人社会に馴染めず疎外感を感じ、外地に戻ってしまう子女も見受けられます。帰国した両親も一緒に日本で生活することを望みますが、子供たちの将来を考えるとグローバル化が進んでいる現在、子供たちの希望どおりにさせる方が良いと考え、外地に送り出す親も多くなりました。どちらが良いかは、それぞれの家庭の事情により異なってくるでしょう。
それでも成功事例では、子女の教育を両親が役割分担で協力しあっていました。特に家庭おける学校の宿題は母親が、そのチエック機能を父親という形です。それでも、日本の風俗・習慣のほか国語や歴史など文化系科目など大部分は母親が、理科や数学などの理系科目は父親が、得意分野で協力しないと負担の重い母親に一層の負担がかかってしまいます。父親が仕事中心で子どもの教育を妻に丸投げしていては、とても子供を立派な社会人に育てられません。「両親が本気で子供教育に取り組まなければ子供は勉強をしない」といいます。
それでも帰国子女は外国での生活経験があるため、国際感覚があり異文化への理解を持っていることは、日本人の子供たちよりこの点が優れているのですから、もっと自信を持たせたいものです。

いじめ

現在はイジメが深刻な問題になっているが、いじめられている子供は自分からはなかなか親にも先生にも言えない。
周りが気づいて声をかけ、対話ができれば道は開ける。

この「履歴書」でも多くの人が幼い時にイジメに遭っている。それを両親の助言や本人の努力で克服していた。これを2例紹介する。

1944年、樺太生まれ、終戦後は札幌市で育つ。北海学園大学経済学部卒業後、広告会社に勤めるが仕事がとれず半年で解雇となり、23歳で似鳥家具店を創業した。現在のニトリは1972年に100店・売上高1000億円の30年計画を作って公表し、2003年に1年遅れで達成した。2013年には300店、現在は次の30年に3000店・売上高3兆円という遠大な計画に向けて邁進している。

似鳥の少年時代は、戦後の混乱期のため、家庭では両親の闇米販売の手伝いをしながら手厳しい叱責・指導うけた。また、小学校では勉強のできない貧乏人の子供としていじめられた。ヤミ米屋だったから、仲間から「ヤミ屋」としょっちゅうののしられた。クラスでも有数の貧乏一家で、着ている衣服はツギハギだらけ。体も小さく、トイレに呼びつけられては殴られていた。いじめられてもいつもニタニタしているので「ニタリくん」とも呼ばれていたそうだ。中学校に行っても境遇は変わらない。力仕事の米の配達もして腕力もあったので、1対1なら負けなかったが、いじめられやすい体質なのか、いつも集団で暴行を受けていた。
あるときは同級生たちに自転車もろとも川に突き落とされたこともある。そのときこのままではダメだと思い、アルバイトで稼ぎ、ケンカに強くなるためボクシングジムに通ったりもした。しかし、境遇を変えるきっかけをついにここで掴んだ。

手先が器用なせいか、そろばんだけは得意だった。珠算部に入り、一心不乱に腕を磨いた。すると約500人が参加する学内の大会で1位に選ばれた。表彰式で校長先生から賞状をもらいに行ったが、校長は私のことを覚えていない。賞状を手渡されるとき、「先生、私は入学前に米を届けた似鳥です」と話すと、「おー、あのときの君か。よく頑張ったな」と喜んでくれた。

自分の得意分野で他人より優れた成績をあげると仲間たちも一目置くようになり、いじめはなくなった。「得意分野を持つ」ことにより、その後の彼は自分の不勉強を持ち前のバイタリティと知恵で克服していく。そして、ヤミ米時代の両親から「仕事も愛嬌と執念が必要」と教えてくれたので、「失敗したらやりなしたら良い」と割り切り、新しい事業に挑戦していった。
家具店から出発してチエーンストアに傾倒する。そして北海道から全国に多店舗展開していく。また、商品も家具だけでなくインテリア全般となり、仕入れも国内から海外にも伸ばし最適調達先を求めた。そして現在は、ユニクロと同じように価格と品質をコントロールできるSPA(製造小売り)に大きく発展させている。リスクを怖れず常に挑戦する姿勢は、自分への自信からだった。

ダイキン工業会長。「人を基軸に置いた経営」を提唱している経営者。
1935年、京都府生まれ。同志社大学経済学部卒業後、大阪金属工業(のちのダイキン工業)に入社。人事部長、常務、専務などを経て社長・会長。そのほか、関西電力、オムロン、コニカミノルタホールディングス、阪急阪神ホールディングスなどの取締役を務めた。

井上は太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941)、国民学校(小学校)に入学したが、待っていたのはイジメだった。彼の父親はアメリカ帰りの京大教授であり、しかも本人は髪が柔らかく、茶色でおまけに色白だった。太平洋戦争の影響で学校ではすっかり敵役にまわり、ガキ大将を中心に10人ぐらいが「異人さん」「外国のスパイ」などとののしられた。みんなでよってたかってイジメられ、よく小競り合いになった。これが高じて、一時は夜も眠れないくらい学校に行くのが嫌になる。が、弱り果てていたある晩、ふと「あいつは何を望んでいるのだろう」と思いつき、犬を連れてガキ大将の家を訪ねてみた。他愛ない話だったが、一対一で話してみると意外なほど気弱な男で、翌日から彼への態度がコロッと変わったという。この時の教訓を彼は次のように述べている。

 わたしにとって小学生のときに受けたいじめほどつらい経験はない。でも、それに耐え、乗り越えたら、どんな苦難にも立ち向かえる自信が芽生えた。自分の欠点にも気づかされ、友達の悩みにも耳を傾けるようになった。人を恐れ、避けるのではなく、人と人との間でたくましく生きる精神を培ったと思う。

 彼はこのイジメの試練を克服する「人を恐れ、避けるのではなく、人と人との間でたくましく生きる精神を培った」自信が大きな財産となって社会に出ている。昭和32年(1957)に同志社大学を卒業すると、不況で就職難の中、父親の勧めもあり大阪金属工業(現ダイキン工業)に1957年に入社する。だが、入社当時のこの会社は戦後まもなく3度も人員整理をし、「ボロキン」と冷やかされていた。しかし今は、彼がこの会社を総合空調・冷凍事業で世界中に快適な空気環境を提供し続ける連結子会社210以上、従業員6700名のグローバル・ナンバーワン企業に成長させている。

 イジメはどの時代、どの民族にも存在する。金持ちか貧乏か、体のハンディか、社会的な身分か、民族かなど自分の優位性を誇り、相手をさげすむ習性は人間のサガ(性)とも言うべきだろう。この「履歴書」でも多くの人が幼い時にイジメに遭っている。それを両親の助言や本人の努力で克服しているが、その克服の一番良い方法は、本人の得意分野で優秀性を他人に認めさせることである。外国とくに米国では、スポーツであれ勉強であれ、何か一つ優れているモノを持つとそれを高く評価する風習がある。これは日本でも言えることで「何か一つ得意分野を持とう」となる。
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うつ病の対処:
 この「履歴書」に登場する人物で「うつ病」経験の記述者はないが、最近ではセクハラ、パワハラ、長時間労働などストレスの多い生活で、心身の健康を損ないうつ病になる人が増えている。IT導入による人員減や多様化する業務など職場環境が大きく変化する中、心身に不調の兆しがあれば早い段階で医療や労務問題の専門家に相談して欲しいものです。

劣等感

謙虚で自意識の強い子供は、他人に比べて少しでも劣る箇所があると「自分はダメな子」と劣等感を持ち萎縮してしまう。

この劣等感を早い時代に打ち破った2例を紹介する。

日本を代表するコメディアンである。タレント、司会者、ラジオパーソナリティー、演出家。日本野球連盟、茨城ゴールデンゴールズの初代監督でもある。
彼は1941年東京で生まれる。高校卒業後にコメディアンを志した。浅草の演芸場からストリップ劇場に移り、裸の踊り子が交代する空き時間を埋める存在だった。紆余曲折を経て、1966年に以前から面識があった坂上二郎と「コント55号」を結成し、舞台上を所狭しと縦横無尽に駆け巡るコントで一気に人気者になる。


彼は小学校では級長をしていたが、強い生徒の後ろに隠れたり、女の子と遊ぶような少年だった。引っ込み思案の性格であったが、あるとき、授業で勢いよく手を挙げたのはいいが、答えを思い出せず、「え~、わかりません」と行ったところ、どっと笑いが起きた。それがなんだかうれしくて、何度もやった。そのうちに「笑われる」から「笑わせる」性格に進化していったという。


しかし、コメディアン修行を始めて3カ月ほどたったとき、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込み諦めようとした際、親切な仲介者が演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」と彼を引き止めてくれた。その後、先述の演出家から「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいるはずだ。お前は成功するから頑張れ」と激励された。そのとき、彼の芸の水準に、はっと気づく。

僕はだめな男なんだ、才能がないんだ。優れた人はもちろん、普通の人より一歩、いや二歩下がったところから人一倍、努力しなけりゃいけないんだ。光るものがないなら、誰もやらないことを地道にやって先を走る人たちをじわじわと追いかける。それしか方法がないんだと覚悟を決めた。

この「誰もやらないことを地道にやる」気づきの以後、誰も居ない劇場で早朝8時から大声を出す練習をし、先輩芸人の芝居を一人で演じるなど毎朝休まず何度も必死で繰り返した。そうしているうちに思いのほかチャンスが訪れた。主役の先輩が体調を崩して休演、その代役を彼が抜擢されて彼の躍進が始まることとなった。


以後、70年代後半以降は坂上二郎とのコンビを解消し、それぞれの活動に専念した。そして80年代に一般人の出演者や欽ちゃんファミリーへの「素人イジリ」を武器に『欽ドン!良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんの週刊欽曜日』などヒット番組を多く手がけ、出演する番組3つの合計で「視聴率100%男」との異名をとる人気者となった。
いじめられても諦めず真面目に努力・精進をしているとどこかで誰かが見てくれている。このチャンスを生かすことで自分に自信がつき、次の飛躍へと結びついたのでした。彼の控えめな性格と恩人への感謝と行動は周りの人たちの多くの応援を貰らって成功となった。

落語家、タレント、司会者。西川きよし、笑福亭仁鶴と並び、吉本興業の三巨頭と称されている。現在、『新婚さんいらっしゃい!』が同一司会者によるトーク番組の最長放送世界記録保持者として、記録更新中である。
彼は1943年大阪生まれ。商業高校時代は演劇部に入り漫才コンビを組んだり、大学時代は落研(落語研究会)に入り、「浪漫亭ちっく」の芸名で活躍する。

1966年、卒業して桂小文枝に弟子入りする。その時、落語家入門を許さない母には面接者を「建設会社の人事課長」と偽って師匠を紹介するなど、入門までには笑えないほどの紆余曲折があった。
しかし、内弟子時代にはユニークな企画をたてて実行する。それは上方の古典落語「東の旅」の実感をつかむため、大阪の玉造を出て伊勢神宮までの珍道中を、手甲脚半に編笠・わらじ履きという姿で弟弟子とコンビで行ったユーモラスな実績を持つ。

彼は幼くして父を亡くし、戦後の混乱のなか、母一人、子一人の所帯で育った。彼にとっては母子家庭のつつましい暮らしでは「笑われる」のも「笑いものになる」のも似たようなもので、同じ価値観だった。
しかし、むやみに目立たないように母からはしつけられたが、一人っ子だった彼は内気でよくいじめられた。そんな泣き虫が、芝居の物まねをするときばかりは人気者になった。「笑われたらあかん」という母親にいいつけに背くようで、負い目を感じつつも、喝采を浴びる心地よさを覚えていた。そこで、友達との時間が少しでも長くあって欲しいと願い、歓心をつなぎ止める答えをここで見つけた。

手探りで探すうちに、どうやら面白いことに人は引かれることがわかった。何をすればどうすれば面白くなるか。あれこれ工夫するうちに「笑い」の奥深さに開眼した。

友達が来たら、できるだけ長く一緒にいたい。人の顔色を読み、歓心をつなぎ止めようと工夫する癖は、ここから芽生えた。そのために、拾ってきた木ぎれ、針金、クギを使って遊びを生み出した。あれこれ考える癖は番組作り、創作落語に生きていると述べている。

この小学校時代、漫談師・西条凡児のラジオ番組「凡児のお脈拝見」で話し方のツボを学ぶ。初めは「家を出るときこんなことがあった」「この電車に乗ってこんな情景に巡りあった」と言った日常的な話題から入り、誇張を織り交ぜては笑わせ、飛躍し、やがて事実に戻って教訓めいたオチがつく。こうやって構成すれば小学生にも聞きやすい。笑いを作るには着眼点、構成、間、口調が大事な隠し味になっている。彼は聞かせどころや笑いのツボなどを子どもながらに分析をしては独り悦に入っていた。この分かりやすくなじみ易い話し方が若い人たちの人気を獲得することになった。

そして1967年、MBSラジオの深夜放送『歌え! MBSヤングタウン』に出演。一躍大人気となる。その後は、テレビのバラエティ番組『ヤングおー!おー!』、『パンチDEデート』、『新婚さんいらっしゃい!』などの司会を務め、全国区の人気者となった。21世紀になってからはテレビ出演を抑え、古典落語ではなく彼が現代世相をもとにして書いた創作落語は寄席や独演会「桂三枝の創作落語125撰」でも好評を博したのだった。

方言コンプレックス

地方から都会に移住してきた人は、みんな自分の地方の方言にコンプレックスを抱き恥ずかしい思いをする。それを克服しようとするが、すぐには直せない。この方言が原因で子供のときにはイジメにあう場合が多い。
また、職場においてもイジメやはずかしめの対象となり、疎外感を味わうことにもなる。

これに対処した2例を紹介すます。

板画家。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
棟方は1903年(明治36年)、青森生まれ。家業の鍛冶職手伝いから1920年青森地方裁判所の給仕になる。ゴッホの絵画に出会い感動し、画家を志し上京する。そして1928年油絵が帝展に初入選する。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続け「世界の棟方」と評価されるようになった。

彼が鍛冶屋の仕事をやめ、裁判所の給仕になっても好きな絵を描くことをやめなかった。朝4時半に起きて出所し、小使い部屋から火種をもらい、火をおこして大きなヤカンをかけ、麦茶がチンチンと沸き立つまでに掃除をすませ、火を小さくして絵の具箱を提げて出かけた。4kmほど離れた公園で、1枚か2枚描いても、帰るとまだ7時ころで、先生や事務員たちの出所には十分間に合ったという。彼は写生をするとき、描き出す前に必ず景色に向かって一礼をした。そして終わったあとも、ありがとうございましたと礼をすることを習慣にしていた。
ある日、友人からゴッホの「ひまわり」を見せてもらい驚愕する。絵は、赤の線の入った黄色でギラギラと光るような「ひまわり」が6輪、バックは目の覚めるようなエメラルドだった。彼は驚き、打ちのめされ、喜び、騒ぎ叫んだ。「いいなぁ、いいなぁ」を連発して畳をばん、ばんと力いっぱいに叩き続けたほどの感動だった。

これをきっかけに、彼はどうしても「東京に行きたい、画家になりたい」という気持ちを抑えきれなくなり、応援してくれる弁護士や仲間たち相談すると、彼らは「東京サ行くには、東京弁コ知らねばマイネド」と言って、ワを「君」、ガを「僕」と東京弁を教えてくれ、練習を始めた。
東京に出てもすぐには青森弁が直るわけではなかった。納豆売りのアルバイトを二人組んでやっても、相棒は如才ない東京弁がうまい男に交渉事を頼み、彼は青森弁丸出しなので、声が大きいのをさいわい「ナットウやナットウ、ナットウ」の掛け声専門だった。5年後に第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し入選するが、その後、版画の良さに気づき取り組み始めてその絵の力量が認められていく。彼の朴訥さと人柄が濱田庄司や柳宗悦など多くの実力者に愛され、評価されたのだった。この評価は、絵や板画に現れた彼の人柄・朴訥さだと思われる。これも青森の弁護士の次の言葉が代弁しているように思われます。

お前は目が弱いから掃除をさせてもあまりうまくないし、お茶を入れさせても、顔に愛きょうがあるわけではない。ただ心だけは神様だ。釈迦の弟子に陀羅という何もできないが心だけはいいのがいた、お前はダラのように心はいい。

この言葉どおり「心だけは神様」だったのだろう。そして、彼は自分の性分を次のように語っている。

私は子供の時から、喧嘩は一度もしたことがありません。今もしません。子供のことだから、信念という立派なものではなかったでしょうけれども、人と争いごとをするのは嫌いな性分です。

彼には方言のコンプレックスはあったものの、朴訥とまごころで人に接したので、誰からも愛され好感を持ってもらえた。「正直、親切、まごころ」、これも一つの生き方と思えます。

新劇の女優。築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残し、多くの演劇人の目標になった人である。

1906年、広島生まれ。山中高等女学校(現・広島大学付属福山高)卒業後、声楽家を目指し上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗する。広島に戻り広島女学院で音楽の代用教員をしていた。
しかし、もっと音楽の勉強がしたいという気持ちがあり、築地小劇場(俳優座の前身)の旅芝居を見て感動し、1927年に再び上京して、築地小劇場のテストを受けた。そのときの審査員が土方与志だった。テスト内容は、脚本の一節をいろいろ読まされたり、歩かされたりした。そして次のように審査員から宣告された。

ひどい広島なまりで、使いものになるかどうかわからないけれど、まぁ3年間ぐらい、セリフはいえないつもりで、なまりを直す決心があるなら、それにせっかく女学校の先生を棒に振って広島から出てきたのだし、音楽の素養もあることだから、まぁいてごらんなさい。

彼女はこの言葉に感激し、3年間セリフをしゃべらせてもらえないということが役者にとってどんなにつらいことなのか、皆目わからなかったので、勢いづいて「そんなこと何ともありません」と有頂天になって感謝したと述懐している。

その後、セリフのないオルガンで賛美歌をひく女の役や「その他大ぜい」の役をやりながら広島なまりを直すことに専念する。そこには寂しさ、悲しさ、貧乏がついてまわったという。
しかし、標準語を話せるようになった1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作「女の一生」の「布引けい」は当たり役となり、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた。
作中の台詞 “だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの-” は、生涯”女優の一生”を貫いた杉村の代名詞として有名である。
そのほか『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)、などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作となり、日本演劇界の中心的存在として活躍した。
彼女の演技力は多くの演劇人の目標であり、共演者のステイタスでもあるため共演を熱望された。この「履歴書」に登場する芸能人は、俳優では長谷川一夫、女優では彼女が共演で一番多く名前を挙げられていた。