長谷川一夫 はせがわ かずお

映画演劇

掲載時肩書俳優
掲載期間1972/07/28〜1972/08/22
出身地京都府
生年月日1908/02/27
掲載回数26 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社6歳子役
配偶者鴈治郎 二女たみ、飯島繁
主な仕事衣笠貞之助(スカウト)、映画、松竹(林長二郎)→東宝(長谷川一夫)→大映(地獄門)、東宝歌舞伎
恩師・恩人初代鴈治郎、長三郎
人脈大森痴雪、白井信太郎、市川右太衛門、阪東妻三郎、大河内伝次郎、笠置シズ子、田中絹代、藤本真澄
備考再婚:二女長谷川稀世
論評

1908年2月27日 – 1984年4月6日)は京都生まれ。俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。戦前から戦後の長きにかけて、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。

1.映画界入り
歌舞伎の世界では、名門の役者の家に生まれた者以外は、どんなに努力してもワキ役以外の役はやれないしきたりでした。そのため、芝居から映画に移っていった人は阪東妻三郎、大谷友三郎、尾上紋十郎等々と続き、市川右太衛門さんもマキノ映画「黒髪地獄」で華々しくデビューしていきました。
 そんな大正15年(1926)、私は18歳になっていて、顔にニキビの花を咲かせていました。10月のある日、中座の公演をやっておりましたとき、大師匠の鴈次郎さんに呼ばれて部屋に行きますと、長三郎師、松竹の白井信太郎さんと、もう一人小柄な、ロイド眼鏡をかけたもの柔らかそうな方が座っており、それが衣笠貞之助先生で、その時が初対面です。そして「映画界入り」を誘われたのです。
 女形の修業をこれからも一心に続けて一人前の女形として出世したい気持ちと、家柄のない私がどうあがいてみても、しょせん看板にはなれないじゃないかというあきらめに似た気持ち、反面どうせやるんなら若いうちにやらなければ・・・。そして新しい発展期にある映画への大きな魅力、これらの思いが錯綜していました。いろいろ思案の結果、新天地を求めて「映画へのお誘いをお受けします」とお願いしました。

2.カメラ目線の勉強
昭和2年(1927)の正月3日から撮影が始まり、私はエキストラで出演させてもらいました。芝居と違って、レンズを通して被写体になるためのライト、カメラの範囲、裏の人たちの仕事、何でも覚えようと、仕出しの役のない時は、カメラの後ろに立って仕事を見ていたのです。手のクローズアップがあれば私の手を出して撮ってもらい、走る足だけ必要な時も頼んで私の足を撮ってもらいました。それはカメラのフレームの中で、どういう動きをしたら一番自然に効果が上がるかを覚えるためでした。
 主役の時は監督の衣笠貞之助先生から「誰かと一緒にカメラに向かう時は必ず一歩前へ出るんだよ。そうしないと大きく見えない」と言われ、撮影の円谷英二さんからは「映画の俳優はライト一つで生きもし、死にもする。そのライトをどう生かすかはレンズを通してだから、レンズを早く覚えろ」と言われ、こうした教えを守りながら私は映画の地歩を固めてゆきました。

3.暴漢に顔を切られる
松竹から東宝に入社することは極秘でしたが、突如某新聞にすっぱ抜かれ公になってしまいました。その翌月、昭和12年(1937)11月12日、撮影が終わり東宝の大沢重役の別邸に向かいました。その門前で暴漢に襲われ、「あっ、何をする」と大声を張り上げ相手を突き飛ばしました。私は左の顔を押さえてうずくまりますと、左の頬から、ねっとりとした生温かい液体が流れだし、マフラーや着物を濡らしました。思わず左の頬に手をやると、中指と人差し指が2,3センチもぬめりこみ、頭のてっぺんから爪先にいたるまで激痛を感じました。
 診断によりますと、傷は二筋あり、一筋は左目の下から上唇にかけて12センチ、もう一筋は左耳下から頬にかけて10センチ、深さ約2センチのことでした。犯人は柄をつけた二枚のカミソリで狙い撃ちをしたわけです。しかし、名医の吉岡先生や他の医療スタッフ様のお蔭で俳優として復活することができました。

はせがわ かずお
長谷川 一夫
長谷川 一夫
1939年6月9日
本名 長谷川 一夫
別名義 林 長丸
林 長二郎
生年月日 (1908-02-27) 1908年2月27日
没年月日 (1984-04-06) 1984年4月6日(76歳没)
出生地 日本の旗 日本 京都府紀伊郡堀内村字六地蔵[1](現・京都市伏見区桃山)
死没地 日本の旗 日本 東京都港区西新橋東京慈恵会医科大学附属病院[2]
身長 162 cm
職業 俳優
ジャンル 映画舞台テレビドラマ
活動期間 1927年 - 1983年
活動内容 1916年中村鴈治郎門下に入る
1927年松竹入社、映画デビュー
1937年東宝へ移籍
1947年:「十人の旗の会」を結成して新東宝を創立
1950年大映に入社
1955年東宝歌舞伎初演
著名な家族 長男:林成年
長女:長谷川季子
次女:長谷川稀世
主な作品
映画
雪之丞変化
藤十郎の恋
銭形平次捕物控』シリーズ
地獄門
近松物語
テレビ
赤穂浪士
 
受賞
ブルーリボン賞
大衆賞
1953年
その他の賞
国民栄誉賞
1984年(没後)
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長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年明治41年)2月27日 - 1984年昭和59年)4月6日)は、日本俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。愛称は長さん。身長162cm[3]

戦前から戦後の長きにかけて、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎大河内傳次郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[4]歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台テレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。

最初の妻は初代中村鴈治郎の次女・林たみ。のちに離婚し、新橋の名妓・飯島繁と再婚。俳優の林成年は長男、女優の長谷川季子長谷川稀世は長女・次女、また稀世の娘に女優の長谷川かずきがいる。

  1. ^ KINENOTE「長谷川一夫」の項
  2. ^ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
  3. ^ 1955年増刊「日本映画大鑑・映画人篇」
  4. ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
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