第3章 家庭・家族問題の悩みに対処する

家庭はこころを休める憩いの場である。両親や兄弟姉妹がいてお互い愛し合い、励まし合って生活している。
ところが、父親は息子、特に家長の長男に対しては「獅子の子落とし」と言われるように、たくましく育てとばかり過酷に試練を与えます。息子は父親の気持ちを理解しているつもりでも、ときには理不尽な試練に反発・反抗してしまう。
そこに親子の相克が始まります。

ここに二代目社長の悩みと克服を3例紹介します。

二代目社長の悩み

武田は暖簾のある老舗製薬企業を創業家出身でしかできない大改革を成し遂げ、日本企業から世界企業に飛躍させた人物である。1940年兵庫県御影生まれ。甲南大学卒業、昭和37年 武田薬品工業入社、昭和62年 同社取締役就任、平成5年・社長、平成15年・会長 。

 彼は大阪の古い商家の3男として生まれた。生まれながらにして長男・彰郎が後継と決められていた。将来の家長とそれ以外の子供は明確に区別され、長男には早くから帝王学を施されていた。3男の彼から見れば長兄を育てるためにある家庭であった。
 だから小さいころからひがみ根性がしみつき、学校でもおよそ勉強しない劣等生で、家庭では「鼻つまみ者」とされ、生きてきたと述べている。
1980年、6歳年上の長兄で、翌年の創業200周年を機に社長に昇格し、7代目長兵衛を襲名する予定であった副社長の彰郎が、ジョギング中に倒れ46歳で急逝した。長男の社長就任を誰よりも願っていたのは会長であり、父であった六代目長兵衛だった。このショックで父は抜け殻のようになり半年余りで亡くなるが、その5日前に彼は父を見舞った。その時の父の顔を忘れることができないと次のよう書いている。

病室のベッドに弱々しく座り、じーっと私を見つめていた。ひと言も口をきかない。しかし、その目が語っていた。「なんでくだらんお前が生きとんのや。彰郎の代わりにこのアホが死んどってくれたらよかったんや」と。私は父の生きる力まで奪った兄の存在の大きさを改めて思った。そして私の存在の小ささを思った。

彼は兄の死から13年後に社長のお鉢がまわってきた。会長からは鼻つまみ者として扱われ、会社からは落ちこぼれとして海外や食品など傍流の事業部に預けられ、部屋住のように扱われてきた。しかし、この寄り道人生が彼には幸いしていた。それは長く窓際にいたので自社のダメなところが手に取るようにわかっていたからだった。
社長就任と同時にゴマスリはいらん、無駄な人員を減らせ、儲からん工場を閉めろ、医薬の稼ぎに寄りかかっている多角化を見直せ、と10年間同じことをわめき続けた。その結果、その成果が出て世界の土俵にあがることができたと述懐している。
 人生は予測不能である。与えられた仕事を忠実に誠実に取り組んでおれば。自分の順番に回ってきたとき、今まで培ってきた経験や知識が生きてきます。自分の出番を信じて実力を備えましょう。

梁瀬はヤナセを外国車輸入の最大手企業に育て上げ、日本テレビジョンも設立し、動画製作にも尽力した人物である。

彼は大正5年(1916)東京都生まれで、昭和14年(1939)に慶応大学を卒業し、父の経営する梁瀬自動車工業に入社する。梁瀬の父親は、先祖が甲州・武田信玄に仕えた士族出身だったのでこれを誇りとし、アイデア・マンでもあり強大な指導力をもち、家庭内でも帝王だった。
 彼は生まれつき病弱で吃音だったので、父親から「できそこない。おまえは武田勝頼以下だ」と決めつけられ、ことごとくつらく当たられた。そして、彼の社長就任に最後までためらい、経営戦略をめぐっては絶えず対立し、父親が息子の彼に対し何度も「社長解任」の辞令を出した。
このような環境のため、彼は武田勝頼に対する好奇心も強まり、勝頼に対する書物を読み漁り、さまざまな教訓を得ることができた。それは、勝頼は人並み以上の能力があり、素質は十分あったが、父のあまりの偉大さを常に大きな負担に感じ、信玄の死後、部下の信望を得ようとあせって無謀な戦を挑んだ。そのため、37歳の若さで天目山の露と消えてしまったという教訓である。
そこで彼は「父に負けまいとあせるのは危険」「コツコツ努力するのが2代目の道」と悟り、入社第一歩を修理工場のナッパ服勤務からスタートし、初めて自動車を売ったのは10年目という遠回りの道を選んだ。後年、彼は2代目への助言を次のように述べている。

「二代目が責任を与えられた時、心がけるべきは何といっても、その立場に生まれたという感謝の気持ちを持つことだ。そして人にほめられたいと、力以上のよい格好を見せるのも慎むべきだ。これは、私が武田勝頼〝兄貴″から得た二代目経営者への教訓である。
 経営者が一番身につけなければならないのは、徳であり、徳のない人は経営者になることはできない。徳とは思いやりの気持ちと、自分自身の感謝の気持ちが生み出すものだ」

 彼ほど父親の経営方針に反発し、それを正直に「私の履歴書」で告白しているのも珍しい。2代目経営者の苦労や難しさをよくわかっている彼が、「私の履歴書」掲載の最終日に2代目に贈った、心すべき留意事項がこの引用箇所「父に負けまいとあせるのは危険」でした。

湯浅は、GSユアサバッテリーの前身となる湯浅電池製造を設立した人物である。
彼は明治39年(1906)京都府に生まれ、昭和5年(1916)に京都大学に入学するが、実家の危機に際し中退し、家業の湯浅七左衛門商店(湯浅金物、現:ユアサ商事)に月給20円の見習い生として就職する。

 まず、学卒で理想を求めていたため、青年店員を集め「啓発会」を作り、「○○どん」という呼称をやめさせ、日曜、祝祭日の休日を実施するなど、社内改革を推し進めた。
 旧家のしきたりを重んずる両親とは対立するが、その反対を押し切って結婚もし、妻と一緒にキリスト教の洗礼も受ける。また、世田谷に会社の独身寮を造り、人材を育てるため、自らは舎監となり、妻を寮母として青年たちと話し合いを続けた。昼は副社長、夜は舎監として、24時間体制で青年たちと話し合いを行なったことなどで過労がたたり、ついに入院することになった。そのとき、父親の怒りが爆発した。
昭和16年(1941)3月16日、入院中の彼に内容証明付きの速達書留が届く。その内容は「湯浅金物副社長罷免、株主権剥奪」とともに「湯浅寮閉鎖及び売却処分と寮生47名の解雇」を告げる、驚くべきものだった。
 さらに、社長・副社長制を廃して専務制とし、父親は相談役として実権をふるう、また別に湯浅総事務所を創設して父親が家長として君臨する体制にした。それは彼にとって、今までの言動に対する父親からの強烈なしっぺ返しであった。
しかし彼は、健康を回復したあと、湯浅電池で再び専務兼舎監として日夜努力を続けた結果、生産量4倍半の実績を上げて会社に多大の貢献を果たし、病床の父親からもようやくその実力が認められた。後年、その苦しかった当時を振り返って、次のように助言している。

「家業の近代化に大きい貢献をした父だが、私の理想主義と相いれなかったのは前に述べた通りである。四人の子供のうち、ただ一人生き残った長男の私を入院中に罷免するほどのことをした父は、私が相変わらず主張を貫いて世に認められていくのを、どんな思いでみていただろうか。恐らく病床の父の胸には、無量の感慨が去来したに違いない。
 親を見返してやろうと、精一杯がんばってきた私も、父の死で心の張りを失い、あらためて父子のきずなの強さに思い至ったのである」

 38歳の彼が健康回復後に気を取り直し、勤労部長・青年学校長など経験から労使関係の困難な仕事にも人一倍誠意をもって取り組んだため、人心の掌握と社内融和に成功したのでした。
これも「父親に負けまい」という、親子の絆の強さゆえのガンバリと思えます。
しかし、父親が晩年の病床にあったとき、一度谷底に突き落とした息子が逞しく這い上がって成長するのを見て、口には出せないが「悪かったな。でもよく辛抱した」と思っていたに違いない。

貧乏からの脱出

人間だれしも経済的に安定した生活を送りたいと願っています。しかし、生まれつき裕福な家庭に育った人は少ない。大多数が貧乏な家庭から出発しています。
その貧乏時代から出発して、いろいろ世間の荒波に揉まれながら、金銭感覚を身につけていきます。

その苦労と貧乏脱出を取り上げました。

相撲界を経て大正4年(1915)東京ロール製作所を創業するが、昭和15年(1940)企業統合し、大谷重工業とする。同39年(1964)の東京オリンピックに合わせて、ホテル・ニューオータニを開業し、日本のトップクラスのホテルに育て上げた。また、晩年は相撲界発展のため、蔵前国技館の建設にも貢献した人物である。
 
大谷は明治14年(1881)に富山の寒村に生まれ、一家を養うため農業の小作として生活したが、31歳で上京する。上京の際、母親の作った握り飯と20銭だけ持って上野に出た。深川の木賃宿で15銭払って泊まる。朝飯は3銭の焼き芋だった。相部屋になった顔利きに頼み込み、荷揚げの仕事にありついた。それは、船から陸地に渡された1枚の板を伝って砂糖袋を陸揚げする苦役の仕事だった。
 普通の人夫は肩に1俵乗せるのが精一杯だが、彼は23貫(86kg)もする2俵を軽々と担いだから、みんなはびっくりした。「まるで弁慶だ」と。1日働いて1円28銭を手にし、人夫姿を整えたという。
 その後、ふろ屋、米屋、相撲取り、酒屋などの地道な商売を始めて、コツコツとタネ銭を貯めた。彼はこの「タネ銭の大切さ」を「私の履歴書」掲載時の冒頭で読者に訴え、最後の稿でも、もう一度次のごとく「タネ銭哲学」を強調している。

「自分に力をつけるのも、信用を得るにも金である。私がタネ銭をつくれというのは、いたずらに金を残すのを楽しめというのではない。苦しみながら、タネ銭をためていくと、そこにいろんな知恵、知識が生まれてくるということだ。血のにじんだ金である以上、そう簡単には使えない。それは道理であろう。一本のえんぴつ、一枚の紙を買うにも、よく吟味して買うことになる。万事このようにタネ銭をつくるというのは、ただ“もとがね”を積み上げていくことだけでなく、その金があらゆる知恵と知識を与えてくれることになるのだ。“タネ銭をつくれ”というのは、そうした意である。その結果、もしタネ銭が十万円できたとしたなら、ものの考え方は一万円しかタネ銭がないときより、はるかに豊かに、大きな知恵と計画が出てくるものだ。これが“タネ銭哲学”の効用である」

彼は、「自分で苦労してつくったタネ銭もなく、親の財産や他人の財産をアテにしているような人間に、ロクな人間はいない。また、そうした人間の事業がうまくいこうはずもない。自分の腕を磨くにはともかく、このタネ銭を持たなくてはできない」ともいう。
 この哲学は、私も父親から「親の財産や他人の財産をアテにしているような人間に、ロクな人間はいない」と教えられましたが、多くの読者もこれに同感されると思います。これをどの程度まで実行するかは、各人に問われています。
 それを確認すれば、あとは自分の人生観に照らして「どの程度までタネ銭を蓄えるか」を決め、実践するのみです。

戦後歌謡界を代表する作曲家の一人である。国民栄誉賞の受賞は、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者でもあった。

遠藤は1932年、東京生まれ。父は廃品業者だったため、生活が苦しく高等小学校しか出られず、すぐに紡績工場の見習い工となり働き始めた。
歌が好きだったので工場の若い女子工員を相手に歌い人気を博していた。あるとき地方回りの楽団がきた祭、飛び入りで歌うと、この楽団から声がかかり、歌手として楽団員になる。初舞台は母親が半ズボンを2つ継ぎ合わせて作ってくれた衣装だった。歌い終わったあと、楽屋に帰ると祝儀袋が8つも届いていた。町長、後援会長、町会議員そして父の名前もあったが、開いてみると全て空っぽだった。怒りがこみ上げ叩きつけようと思ったが、筆跡をよく見ると全て父親であった。「息子の晴れの門出を祝ってやりたいが金がない。せめて祝儀袋でも」と思ってくれたのが分かり、目頭をぬぐった手で、封筒の束を上着のポケットに押し込んだという。
入団して3月目に楽団が解散することになり、両親のもとに戻ったが、すぐ生活の糧を求めて働いた。日雇い仕事に出かけ、ガラス工場の手伝い、水飴の行商、牛乳や新聞も配達する生活だった。しかし、歌が好きだから、家々の前に立ち楽器を演奏し歌う門付け芸人になる。これも相方と衝突し長続きはしなかった。もう新潟には居られず、上京し、ギター流しで酒場めぐりをしながら客たちに接すると、客の哀感を身近に知ることができた。
戦後復興期の駅前には小さな飲み屋が無秩序にひしめき、夜になれば男たちが焼き鳥、おでんを片手に焼酎や合成酒で一日の疲れを癒していた。戦争で夫や親を亡くした女たちは、心の影を化粧の下に隠して男たちの酒の相手をした。ある男性は「長崎の鐘」を、ある女性は「星の流れに」を何度もリクエストするのだった。そこには歌があった。喜びや悲しみを旋律にのせて、人の心に染みていく歌があった。このとき彼は大きな気づきを得たのだった。

3曲百円の流しの仕事は不安定ではあったが、男と女の、いや人間の機微を教えてくれた。

このときの貧乏暮らしが人間の哀感や機微を教えてくれた。この蓄積が歌に作曲に大いに貢献したことになる。
この後、彼は自分の風貌が歌手向きではないと気づき、作曲家になるためギター演奏を独学でマスターする。そしてふるさとや高校へ行けなかった羨望を思い出しながら、「お月さんこんばんわ」「高校3年生」「北国の春」など大ヒットを飛ばす大作曲家になったのだった。世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てたのでした。
余談になりますが、千昌夫が「高校3年生」を歌いたくて遠藤に懇請したところ「お前の歌ではダメだ。民謡調になるから」と言われたそうです。「舟木一夫の高校生のように素直に歌わなくっちゃ」と思われたのでしょう。

 市村は一時「経営の神様」と評され、多くの経営者を集めた「市村学校」は有名である。
1900年、佐賀県生まれ。昭和4年、理研感光紙代理店を経て11年、理研感光紙(リコー)代表取締役。20年、三愛創立、三愛をモットーに明治記念館、日本リースなどリコーを中心とする「三愛グループ」を率いた。43年、新技術開発財団設立した。

 彼はアイデアマンとして多くの事業に成功し、会社を経営するようになる。そして「経営の神様」として一時マスコミの寵児となり、若手経営者や著名文化人が市村を取り巻いて彼に教えを乞うた。世間はこれを「市村学校」と呼んだが、彼は佐賀県の一貧農の子に生まれ、学校へもろくにやってもらえない境遇に育った。
 市村が9歳の頃、貧しいためとても上の学校になぞ行く望みはなかったが、ある日、彼の祖父が「お前は学校の成績がいいけれども、とても上の学校に出してやれそうもない。しかし学校へ行ける一つの方法を教えてやる」と言い、メスの子牛を一頭買ってくれた。
「その牛は次々に子を産んで、お前が中学や大学へ行くころには何頭かに増えるだろう。それを売れば学校に行けるから」ということだった。
 市村はすっかりうれしくなり、それからというものは、夢中になって子牛の世話をした。一銭、二銭のこづかいをもらうと、それをためる。正月やお祭りのときでも遊び道具や見世物も我慢し、こづかいをためた。牛にやるオカラや飼料を買うためである。自分でも草を刈ったりさつま芋のつるを集めて食べさせたりした。
 幼いながらもあらゆる忍耐を自分に課して牛をかわいがった。しかし、思いもよらない事情から、この愛牛とのつらい別れがやってきた。家の借金が払えなかったからだ。それを次のように語っている。

「一、二年すると子牛は実にりっぱな雌牛に成長した。そろそろ子も産めるようになったある日のこと、私の家に『シッタリ』という人がきて、私の牛を持っていくという。私はびっくりした。『この牛はおじいさんから僕がもらって、おこづかいをためて育てたんだ』と、くやしさのあまり執達吏にかみついたのを覚えている。とうとう祖父に『しかたがないのだよ。お国で決められたことなのだから、我慢せい』といわれてあきらめたが、心中ではどうしても納得がいかなかった。
秋の夕暮れ時の道を、たんせいこめた牛が長い影をひいて引かれてゆくのを、涙をこらえながら、村はずれまでついて行き、牛の姿が見えなくなるまで見送っていたが、この出来事のために、なんとなく世の中のことに深い疑問をいだくようになったような気がする」

 後年、成人して地方銀行の給仕を振り出しに、大陸(中国)を渡ったり、保険のセールスをしたり、共産主義にかぶれたり、理化学研究所の大河内正敏に見込まれて理研へ入ったのも、一見順風に見えながら、波の下では常に貧乏のつらさとそれを克服しなければ生きていけない自戒があった。そこには山と谷の交錯した複雑な人生であったという。
 最後は、リコーコンツェルンの総帥となり、「市村学校」の校長として、多くの有名経営者と子弟を抱えたが、市村が納得のいかないかぎり、権力や金力に対して徹底的な反抗を試みて譲らないようになったのは、この事件が大きく影響していると思えるのだった。

グリコの創業者。「一粒三百メートル」のキャッチフレーズで成功し、戦後アーモンドチョコ、ワンタッチカレーで成長する。

江崎はオマケ商法の先駆者で、大正4年(一九一五)にはぶどう酒の樽買いを始めて小分け販売で成功し、同7年(一九一八)には大阪に出張所を出すまでになった。
 その後、有明海で採れる大量の牡蠣の煮汁廃液には多量のグリコーゲンが含まれるとして、これをお菓子として事業化したのが濃厚栄養剤の「グリコ」だった。この商品とオマケ商法などのアイデアで大躍進を遂げる。
昭和9年(1934)、グリコの事業からようやく年間50万円の純益を得る見通しがついたので、彼はその一部を社会還元に役立てたいと考えた。これが財団法人「母子健康協会」だったが、この設立の背景には、少年時代に父親の訓戒がつぎのようにあったという。

「私の生家は貧しく、その貧しさの中で父は次のように私をさとした。
『金を借りている人の前では、正論も正論として通らぬ。正しい意見を通すためにも、まず貧乏であってはならない。浪費をつつしみ、倹約につとめ商売に精を出して、ひとかどの資産を積んでもらいたい。しかし、くれぐれも注意したいことは、金を作るために金の奴隷になってはならない。世の人から吝嗇といやしめられてまで金を作ろうとしてはならない。そして金ができたら、交際や寄付金は身分相応より少し程度を上げてつとめていけ。それで金をこしらえていくのでなければ、立派な人間とはいえない』」

 一般的に「息子は父親に、娘は母親に反抗する」と言われます。
 特に男性の場合、独立心が強く、よく父親と衝突します。しかし、「親父の小言と冷酒はあとで効く」と言われるように、あとあと考えると「父親の訓戒を守っておればよかった」と後悔することも多々あります。
 彼の場合は、父親の「浪費をつつしみ、倹約につとめ商売に精を出す」「金の奴隷にはなるな」の訓戒を守って商人の王道を歩んだことになります。

ぐうたらと決別

遠藤周作の作品に「ぐうたら人間」がありますが、彼の場合は敬虔なカソリックのクリスチャンとしての反動行為、彼に言わせれば「息抜きのあくび」のようなぐうたら行為に思えます。

しかし、人間だれしも責任ある立場になると、一大決心をして人生に立ち向かうことになります。

俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。昭和の芸能界を代表する国民的名優であり、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌手・エッセイストなど幅広い分野で活躍した。1991年(平成3年)に大衆芸能分野で初の文化勲章を受章。

 森繁は1913年、大阪府で生まれ、名門の裕福な家庭で育ったが、家系は複雑だった。父・菅沼達吉は日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈(現関西電力)常務を歴任した有名実業家であり、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。彼は小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となった。
 彼は旧制北野中学から早稲田第一高等学院に進み、1934年(昭和10年)に早稲田大学商学部へ進学するが、裕福であったので学業などどこ吹く風で遊びに耽る。ちょうど新宿にムーランルージュができた頃で、彼は頻繁に通い、神楽坂、渋谷、池袋にも出入りするようになる。その時の池袋の芸者の花代はいくら、渋谷はいくら、神楽坂はいくらと1泊朝食・朝風呂付き代金まで細かく「履歴書」に書いてくれている。この代金はツケがきくのを幸いに花柳界の芸にも明るくなり、三味線でザレ唄をうたったり、流しの新内につつみ銭を投げて人気どりなども質屋通いでしたという。
部活では拳闘部に無理やり入れさせられ、毎日顔といわず腹も胸もメッタ打ちされて鼻血を出し、最後に「ありがとうございました」と言わされるバカらしさに退部する。そこで演劇研究部(略称:劇研)に入部しこの劇研の誘致ポスターを東京女子大に貼ると、後に妻となる女性が入会してくれる。彼も彼女も学生だったので、結婚しても世間体を気にして妹ということで、大久保の自宅に引き取って兄弟3人と一緒に暮らすことになる。
 しかし、彼は大学3年に必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退する。東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積み生活を過した。そして、1938年(昭和13年)軍隊に召集されるが、耳の大手術をした後だったため即日免除となった。
そこで26歳の時、NHKアナウンサーに応募・合格し満州国へ赴任となったが、朝鮮をすぎ、鴨緑江を渡ると大地の広さに日本社会との違いをはっきりと認識した。知人もいない、助けを求める人もいない。自分以外に妻も子供も頼るものがいないのだとハッキリ解り、彼はいままでの「ぐうたら」と決別する一大決意する。その3つを次のように書いている。

1.何でもいいから文句をいわず人の2倍から3倍働いてやろう。
2.今からでも遅くない、出来るだけ勉強して、無為に流れた青春の日々を取り戻そう。
3.一切の過去を、良かれ悪しかれひっくるめて忘却の淵に捨て去ろう。
親がえらかろうが、先祖がどうだろうが、俺の血の中にこそ遺産はあっても、俺が良くなるものもわるくなるのも、この地ではこの自分の力しかない。

大悟一番、この気づきが彼の転機となる。この満州で努力した結果、次第に周囲から実力を認められていく。そして彼が得た教訓は、

人生には、二度や三度はチャンスがくるのだ。意味なく生きている筈はない、人間が人間の為に造った社会なのだから、いたずらにあせっても、運は向こうから来るもので、ただ眼をふさいでいては見そこなうことがあるということだ。

彼は帰国後、舞台やラジオ番組の出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中で喜劇性を光らせることができるユニークな存在として、後進の俳優たちにも大きな影響を与えた。
また、『夫婦善哉』『警察日記』等の作品での演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたて、演劇界のあこがれの存在となったのだった。

妻の死

人生で肉親の死ほどつらいものはありません。なかでも長年いっしょに苦楽を共にしてきた伴侶の死はもっともつらいものです。
夫婦となり家庭を持つとそれぞれが役割分担をして生活を始めます。その期間が長ければ長いほど、その分担の依存度が高くなります。その一方の存在が自分の体の一部になっているため、その伴侶の死となると暗澹たる気持ちとなり、茫然自失となります。

そんなつらい気持ちをつぎのように語ってくれています。

中村歌右衛門(6代目・歌舞伎役者1917-2001) 掲載:1981年3月2日-3月31日
戦後を代表する歌舞伎役者。生涯を通じて歌舞伎に専念し、戦後の女形の最高峰と呼ばれた。1917年東京生まれ。五代目中村歌右衛門の次男として生まれる。幼少時に母親の実家、河村家に養子入りしたため、本名は河村藤雄となる。父・五代目歌右衛門は歌舞伎座幹部技芸委員長として当時の劇界を牽引する大役者であり、御曹司として何不自由ない幼年時代を過ごした。この頃、先天性の左足脱臼が悪化して数年寝込み、大手術を行ってやっと歩けるようになったといわれる。そのため、歌右衛門の左足の動きは終世ぎこちなかった。

中村は昭和14年(1939)、父親の舞踊中村流の名取で市会議員の娘・平野つる子と結婚する。当時、彼はその輝くような美貌が有名で、若手のなかでは三代目尾上菊之助(後の七代目尾上梅幸)と並び称されたが、それだけではなかった。吉右衛門が得意とする義太夫狂言に多く出ることで、演目に対する解釈を深め、役柄をしっかりと把握、古典的な様式美に近代的な心理描写を加えた表現手法を着々と身につけていった。そして1951年(昭和26年)に名優父の名跡・六代目中村歌右衛門を襲名したのでした。
彼が順調に名声を上げて始めた4年後、昭和30年(1955)頃から妻・つる子の体力が衰え、徐々に衰退して昭和32年(1957)7月に亡くなった。18年間の短い結婚生活だった。彼は「私がいうのもおかしいことですが」とことわって、次のように追悼している。

つる子は性質は温和で、家庭のことや芝居のことなど何もわきまえていながら出しゃばらず、素直で誠実なところがあり、人に好かれるタイプでした。その誠実さがわざわいしたと申しましょうか。戦争中の食糧難、疎開、終戦後の混乱の時代を通じて何の不服もいわず無理をして家事を切り回していました。そういう心身ともに重なる苦労がつもりつもって衰えて行ったわけです。それを思うと不憫でなりません。

当時、彼は新宿第一劇場で夜の部「四谷怪談」に出ていたが、夕刻、妻の容態が急変したことを知らされ、急遽自宅に駆けつけたが、すでにこと切れていた。涙ながらに妻の死に顔に化粧をしてやり、劇場にとって返したという。その時のつらい心情を次のように吐露している。

役者は、舞台は戦場だから出演中は肉親の死に目にも会えないことはよく承知していたものの、家の要であるつる子に死なれてみると、片腕をもがれたような気がいたしました。

松竹の永山武臣会長がこの「履歴書」で、「役者の奥様方は、主人の舞台を気遣い、客やひいき筋の応対をし、時にはせりふの手伝いまでする。歌舞伎は奥様方の力で支えられている」と書いているが彼女の場合は家事の他、子どもの教育や弟子たちの心配りも日常必要でしたから、彼が「片腕をもがれたような気」がしたというこの箇所を、私(吉田)は深く理解し同情することができた。
この夜、松竹の大谷社長が弔問に来られ、自分も長男を中禅寺湖で亡くし、仕事も何も捨ててしまいたいと思ったが、彼の父(5代目歌右衛門)の説得で仕事に立ち戻ることができたと慰められた。この慰めと激励が彼に「嘆き悲しむばかりは妻は望まない。立派な役者になることが妻への償い」と悟らせた。そしていっそう彼を舞台一途に努めさせこととなった。それは妻の死後の寂しさを紛らわすためでもありました。そしてこれが戦後女形の最高峰といわれる存在になったのでした。

事実婚の苦悩

事実婚とは、お互いに結婚という社会的制約に縛られないで、お互いの家庭生活を尊重しながら同棲生活をおくることと私は理解しています。この同棲生活は本人同士が納得していても、世間的には冷たい目で見られます。
それを乗り越えて新たな文化や芸術を創造しようという強い意志がなければこの関係は続きません。

いろいろな障害を乗り越えて芸術を高めたお二人を紹介します。

映画監督、脚本家。日本の独立プロ映画の先駆者であった。近代映画協会会長。
新藤は1912年、広島生まれで、1934年(昭和9年)22歳の時に新興キネマに入る。彼の志望していた映画助監督への道は狭く、体が小さいため照明からも敬遠され、現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートする。撮影所の便所で落とし紙にされていたシナリオを発見し、初めて映画がシナリオから全て出来ているものと知り、シナリオの勉強を始めた。
1951年(昭和26年)、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。このシナリオはスクリプターで内妻の久慈孝子のレクイエムで書いたものだった。彼はこれを「自分で監督をやらなければ、自分の戦後が始まらない」と思っていた。主演は宝塚出身の大映人気スター“百萬弗のゑくぼ”の乙羽信子で、乙羽がこの脚本を読んでどうしても妻の役をやりたいと願い出てきたこと、彼としては愛妻物語のモデルである内妻・孝子と乙羽がよく似ているから、との理由で決めたという。
 
乙羽さんとは「愛妻物語」で出会い、「原爆の子」で同志となり、男女の関係を結んだ。この時私には妻子があり、乙羽さんは一生日陰の人でいいから、と全身を投げ出してきた。私は善良な妻を裏切ることに苦しみながら、これを受けた。乙羽さんが最初の妻、久慈孝子にそっくりだったからだ。
(中略)
乙羽信子とは27年間男女の関係を続け、妻と離婚して、4年後その妻が亡くなり、その翌年結婚した。結婚生活は17年続いた。(中略)
仕事というものは一人ではできない。とくに集団創造である映画はそうだ。そして深く人間関係を結ばなければ思いは達せられない。そうしてふたりは仕事をした。そのために周囲の人を傷つけたことは確かである。わたしは言い訳はしない。自分を正当化したくない。

この「同志」という言葉の内容は、一本の映画は三千万円から五千万円で作られる。しかし、彼の独立プロの映画会社はそんな資金はない。やっと300万円を捻出して撮影に取り組む。この金額でやり遂げる基本原則は、「宿に泊まらない。民家を一軒借りて合宿をする。自動車は使わない、自転車で行動する、炊事・洗濯もスタッフ交代で取り組む。主演俳優、主演女優もギャラはこの予算の中だから出演料は少ない」であった。新しい映画創造に対する熱意と使命感がなければ長続きはしない。周りの多くの協力もあったが、この二人のコンビで、「原爆の子」「裸の島」「鬼婆」「午後の遺言状」など独立プロで海外でも高く評価された名作品を作り出した。お互い強い信頼関係がある同志の絆がないとできないものだった。二人の間は、晩年も「センセイ」「乙羽さん」と呼ぶ信頼する師弟であり夫婦の間柄だった。

俳優、演出家、歌舞伎役者。「猿翁」は隠居名で、49年間にわたって使い続けた三代目 市川猿之助としても広く知られる。

彼は1939年、東京で生まれ、三代目猿之助を襲名後ほどなくして祖父・初代市川猿翁(二代目市川猿之助)と父・三代目市川段四郎を相次いで亡くすという悲運に見舞われる。祖父譲りの革新的な芸術志向と上方歌舞伎伝統にあった早替わり・宙乗り・仕掛け物などを採り入れることによって歌舞伎界に新風を吹き込んだ。そして、スピード、スペクタクル、ストーリーの3Sを備えたスーパー歌舞伎を定着させた。

また、復活狂言の演出にも工夫を凝らした。欧米の演劇からヒントを得て、時間的には圧縮して、原作の倍以上の内容、量感、面白さを増幅させる趣向のひとつとして早替わりや宙乗りを用いた。そこには、映画の「E・T」や「インディ・ジョーンズ」、オペラの舞台、京劇との共演などからヒントを得て演出や役作りに生かしていた。スーパー歌舞伎の「新・三国志」では、スぺクタクルシーンの赤壁の戦いで巨船が折れて燃えながら沈むシーンは「タイタニック」から着想した。火事場の屋台崩し、本水使用の大立ち回り、京劇陣の超アクロバット技工の見せ場を盛り込み、歌舞伎史上初めてとなるオーケストラ演奏も取り入れた。スーパー歌舞伎が喜ばれるのは、①現代人にもわかる現代語採用、②ファッションショーのようなビジュアルなもの、③最先端の技術を使う、④主演と演出を兼ねる、などの要素で構成されている。

しかし、彼がこのような革新的な歌舞伎を創造し続けて行くには、これを支えてくれる同志であり、戦友が必要であった。それは、彼が12歳のころ六代目藤間勘十郎師に入門したときの家元夫人であり、彼より16歳年上の名舞踊家・藤間紫だった。彼は27歳の時、宝塚出身の女優・浜木綿子と結婚したが、1児をもうけて2年後に離婚している。その後、彼と藤間紫との同棲生活が始まり、それは35年にも及んだ。1985年に彼女が藤間勘十郎との離婚が成立したので、2000年、正式に結婚した。2003年に彼が脳梗塞を発症したとき彼女が献身的に介護をおこない、彼の舞台復帰を支えたが、2009年に彼女が肝不全のため85歳で死去している。彼は自分を支えてくれた藤間紫を次のように追悼している。

紫さんは踊りの師であり、猿之助歌舞伎の同志であり、公私ともに最高のマネジャーであり、頼もしい戦友であった。人生で最も大切なのは愛で、愛は犠牲だと教えてくれた。表に出ず「どんな悪者といわれてもかまわない。それよりも猿之助さんの信頼をなくしたくない」と口にしていた。(中略)
互の意思(遺志)を貫くため入籍は大切と考え、奮闘公演30回、猿之助130年の節目にあたった2000年に承諾してもらった。

それにしても、世間体もある16歳の年齢差を越えた二人の強固な結びつきは、新しい歌舞伎を創造するという共通使命に共鳴し合った形なのだろう。「愛は犠牲だ」は二人の強い同志愛の共通認識だった。