大谷竹次郎 おおたに たけじろう

映画演劇

掲載時肩書松竹会長
掲載期間1957/01/27〜1957/02/05
出身地京都府
生年月日1877/12/13
掲載回数10 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社家事で売り子
配偶者記載なし
主な仕事坂井座・祇園館→歌舞伎座、常盤座→明治座、松竹合同会社(兄弟で)、歌舞伎興行の合理化、新富座、
恩師・恩人
人脈大浦新太郎、中村鴈治郎、曾我廼家五郎、静間、守田勘弥、十五世市村羽左衛門、
備考双子(兄・松、弟・竹)
論評

1877年12月13日 – 1969年12月27日)は京都生まれ。兄の白井松次郎とともに松竹を創業した日本の実業家。実父栄吉は相撲の興行師で、妻に水場(売店)の経営をさせていた。女婿が後の松竹社長城戸四郎。劇場の売店経営から劇場経営へ進出。1895年(明治28年)に大谷竹次郎が京都阪井座を買収し、その興行主となる。1902年(明治35年)、京都新京極通に明治座(後の京都松竹座)を開設した。松竹キネマは1931年(昭和6年)に日本初の本格的トーキー『マダムと女房』を上映、小林一三の東宝と勢力を二分した。

1.芝居小屋の興行主
明治28年(1895)私が18歳のとき、父は祇園館の縁から「阪井座」の売店の経営をはじめ、やがてその歩を持った。興行に歩を持つというのは、共同出資の金主の一人になることで、阪井座、大黒座、その他京極の劇場は金主が3人、5人で金を出し合って経営し、いずれも他に本業がある人たちが片手間や道楽で興行しているのだった。父もその仲間で、やはり本業は売店であった。
 芝居の歩を持つ金主であれば、興行師と呼ばれ、また「旦那」とも敬称もされたが、父は遠慮した。
官許の江戸芝居の経営者を「座元」と言い「太夫元」とも呼ばれた。大阪ではこの太夫元を「仕打」と呼ぶ。京都の太夫元も大阪と同じく「仕打」といった。江戸時代の太夫元は興行に必要な資金を他から得ることに努めたが、その資金を出す人間を「金主」と言い、また「金方」とも呼んだ。これが太夫元に金を貸して後援する立場から、やがて自身でその座を経営しはじめ、太夫元は単なる名義人にすぎなくなっていった。

2.芝居小屋の悪習打破
明治25年(1892)ごろの日本の劇場には極めて悪習慣が残っていて、京都の劇場も木戸(入場口)に大木戸と称して、ごろつきの親方が、ごろつき押さえに頑張り、観客が札を買って入る時には木戸札を箱に投げ込んで、通り1枚、通り2枚と呼んでいた。劇場の中にはクリカラ紋々の入れ墨男が働いている。そしてどこの桟敷がおれの余得、水場は誰の縄張り、番付は誰々の所得、火鉢は何某の利益というふうに分割され、興行主の収入は木戸銭(入場料)だけに限られていた。株式会社の常盤座さえこういう悪習があった。
 興行主は見物に面白い芝居を見せるために狂言を選び、良い俳優を集め、劇場設備の改装をして興行する座主に利益がなくて、損をしたときだけ独りで全部を背負わなければならない。それに引き換えて、座主が誰であろうと、芝居の内容がどんなにくだらないものであろうが、お客さえ来れば俺たちの儲けになるという人たちの不合理さでは芝居の発展はありえないと思い、断固としてこの悪習を断ち切ったのだった。

3.ひとり息子の死を乗り越えて
倅の栄次郎はすでに15歳で、当時京都の中学に入っていた。夏休みを利用して東京見物し、日光見物に書生と一緒に出かけた。そして8月7日、京都の自宅で倅の死の悲報を電話で受けた。私には全くの寝耳に水の驚きで、京都から東京、上野から日光へと何が何やらわからず駆けつけて行った。死の原因は中禅寺湖で書生とボートを漕いで、ボートに帆を張ろうとしたとき強い風で転覆したという。
 私は重い足を引きずって日光山を下りながら、強いショックでもうこれきりで芝居は止めよう、大事な一人息子まで亡くした今となって、何を楽しみに複雑な厄介な仕事を続ける必要があろうかとさえ思った。
 ところがこの私の一大決心も周囲の温情で覆された。日光の駅長は遺骸を出迎えてくれたばかりでなく、わざわざ特別列車をつけてくれる温情であった。8月の暑い盛りだというのに上野には東京在住の俳優連が倅を迎えてくれた。東京駅には、特に体の不自由な歌右衛門、石井蓉峰、河合武雄、その他俳優以外にも多数の見送りを受けた。これだけ多くの人たちが倅の遺骸を見送ってくれ、また出迎えてくれるのは、私のやっている仕事、つまり演劇を通じての私への支持に他ならないと思った。

1955年
竹次郎と松次郎(1932年
文化勲章授与式、前列右側が大谷竹次郎[1]

大谷 竹次郎(おおたに たけじろう、1877年12月13日 - 1969年12月27日)は、兄の白井松次郎とともに松竹を創業した日本実業家

  1. ^ 「秋晴れ 文化の日 文化勲章授与式」「天皇陛下から励ましのお言葉」。前列左から平沼亮三二木謙三、大谷竹次郎、後列左から増本量前田青邨和辻哲郎。『毎日新聞』1955年11月3日。
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