掲載時肩書 | 吉本興業会長 |
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掲載期間 | 2002/06/01〜2002/06/30 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1932/10/20 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 関西学院大学 |
学歴その他 | 生野高 |
入社 | 吉本興業 |
配偶者 | 料亭娘 |
主な仕事 | 何でも屋、新喜劇(演劇)、懲戒解雇命令、ヤング・オーオー、ヤスシ・キヨシ、月亭可朝、 |
恩師・恩人 | 八田竹男(上司) |
人脈 | 花菱アチャコ、エンタツ、花登筐、三枝、 東京進出、さんまギャラ見直し |
備考 | 笑いと病気 |
1932年10月20日[1] – 2015年7月3日)は、日本の財界人、フリープロデューサー、芸能プロモーター。吉本興業の代表取締役社長、会長、名誉会長を務めた。1955年5月、吉本興業に入社し、駆け出し時代は人気漫才師の花菱アチャコ、大村崑などのマネージャーを務めた。うめだ花月劇場の開館、吉本新喜劇の立ち上げに尽力し、人気テレビ番組「ヤングおー!おー!」をプロデュース。所属タレントを積極的にテレビに出演させる戦略が実を結び、「お笑いの吉本」の地位を不動にした。1991年4月、会長だった林正之助の死去に伴い、代表取締役社長に就任、東京進出の旗振り役となり、関西ローカルだった吉本を「全国区」に押し上げた。
1.花菱アチャコのマネジャー
1959年ごろはアチャコが頼みの綱だった。梅田花月のこけら落としのトリがそうなら、初のテレビ映画の主役もアチャコ。戦前にあった、松竹の引き抜きにも応じなかった義理堅さは、お金に弱い芸人にあって並ではない。海千山千の林正之助もアチャコには一目置いていた。
マネジャーとして僕は公私にわたる活躍を目の当たりにした。粋筋には特に持てた。それを承知の本妻さんは毎月のギャラを持って行くたびに5千円くれる。1万4,5千円の安月給の身にはとてもありがたい。見返りにギャラの中身を細かく説明する。もちろんアチャコには内証。申し訳ない気がしたが、5千円という大金には代えられない。
かくして兵糧攻めにあったアチャコは粋筋との掛かりに、得意の芸を駆使して祝儀を稼がざるを得ない。どんなお客でも満足させる、アチャコならではの芸はハングリー精神の表れでもあった。そんな場面に何度も遭遇して芸人の生態というものを知ることができたのはマネジャーを兼ねていたからこそだった。
2.やすし・きよし
1986年冬の夜遅く西川きよしが訪ねて来た。芸人が家に来るのはロクな話じゃない。ところが、思い詰めた様子で「7月の参院選に出たいんです」と切り出す。意外な話に居住まいを正して聞いた。「年老いた両親を世話していて福祉の遅れを実感したので、議員として福祉問題に取り組みたい」。誰にも相談していないという。「相手のことも考えてやれよ。売名行為と違うんやな。収入はがた減りになるぞ」。何度も確かめたが、1時間半ほどたつうちに本気なのが伝わってきた。
やすし・きよしは「ヤングおー!おー!」から、漫才ブームを経て常に先頭を走ってきた。出馬となるとコンビは解消。吉本にとって大打撃になる。「わかった。後のことはすべて僕に任せろ」。ホッとした表情に、西川の生真面目な一面が見て取れた。
一方、自由奔放で天才肌の横山やすしはハチャメチャ。長寿番組「素人名人会」の収録で20年ほど前、ロサンゼルスを訪れたときだった。若い社員が全員のパスポートからギャラ、中継料までごっそり置き引きにあった。責任者の僕は収録そっちのけで領事館に日参、つてを頼って御金の工面に走り回った。やっとメドがついて収録を始めようとしたら、こんどはやすしが遅刻。「えらい済んまへん。飛行機に乗ってましてん」。ファンのすし屋に借金して買ったばかりの軽飛行機を試乗していたとのこと。開いた口が塞がらなかった。
3.林正之助
1991年4月24日92歳で亡くなった。社葬は5月13日に「なんばグランド花月」で、僕が葬儀委員長として執り行った。林正之助は当社の創業者である実姉の吉本せいを助けて10代後半から興業の世界に身を置いてきた。昭和13年(1938)には漫才師、落語家など所属芸人が300人を超える「演芸王国」を築き上げた、たたき上げのオーナー経営者だった。
当時は落語より格下とされた漫才という新興の笑いを、エンタツ・アチャコなどの起用で寄席には不可欠の芸に格上げした最大の功労者だ。エピソードに欠かないが、根っからの興行師だけあって統計の数字や市場調査のデータより自分のカンを頼りにしていた。
劇場で気になる芸人の舞台を見るとき、我々なら舞台のそでに居て客席の笑い声の大きさで受けているか、否かを判断するが、正之助は全く違った。客席に回って後ろの席で舞台を見る。笑い声をあげるのは素人のお客だ。プロのお客はなかなか笑い声などあげない。そんなお客は肩を見ているとわかる。本当に面白かったら肩が揺れる。そんな見方をする人だった。
氏は’15年7月3日82歳で亡くなった。「履歴書」に登場は02年6月である。映画・演芸業界では、堀久作(日活)、大谷竹次郎・永山武臣(松竹)、永田雅一(大映)、大川博・岡田茂(東映)、川喜多長政(東宝東和)、松岡功(東宝)、植田紳爾(宝塚)と氏で10人である。花菱アチャコの担当マネジャーを担当し、芸人(アチャコ)のプライドを目のあたりにして芸人の心意気を学んだ。
1.演芸部門の再興
その後、演芸部門の再興に取組み、うめだ花月(大阪市)などの劇場開設に携わり、吉本新喜劇をスタートさせた。また、69年に始まった若者向け人気番組「ヤングおー!おー!」を企画するなど、テレビ局と組んでタレントを売り出す手法を確立した。東京は人気が出ると思うと先物買いでギャラを高くするが、大阪は芸人の格でギャラを決める。この垣根を彼が壊した。その突破口は明石家さんまだった。彼は桂三枝(現・文枝)や笑福亭仁鶴、やすし・きよし、月亭可朝らを人気者へと押し上げた。
2.芸人のギャラ(100万円から8億円まで)
当時、ギャラ決めは、一般的に時価の東京、格の大阪だった。「吉本興業に属している芸人は600人以上。その中で最高が8億円強で、一億円超の高額所得者11人を合わせると、百人ちょっとが一千万円以上取っている。年収百万円以下も300人以上がいる。収入については格差の激しい社会だ。芸人はいったん人気が出ると倍々ゲームで収入が増える。歩合給のテレビ出演本数が急増するせいだ」という。このギャラは02年当時の相場なのだ。普通の芸人はプライド上、ギャラにうるさいが、唯一の例外は笑福亭仁鶴で「一度たりともギャラについて文句を言ったことがなかった」そうだ。