永田雅一 ながた まさいち

映画演劇

掲載時肩書大映社長
掲載期間1957/05/24〜1957/06/10
出身地京都府中京
生年月日1906/01/21
掲載回数18 回
執筆時年齢51 歳
最終学歴
東京経済大学
学歴その他大倉商業
入社文房具卸商
配偶者記載なし
主な仕事日活、日本プロ→大映、日本映画配給、新興キネマ、大日本映画製作、永田プロ、羅生門グランプリ
恩師・恩人池永浩久、長瀬徳太郎
人脈徳岡神泉、 藤村義朗男爵、伊藤大輔、内田吐夢、川口松太郎、溝口健二、菊池寛、
備考日蓮、母 身延山100回
論評

1906年1月21日 – 1985年10月24日)は京都生まれ。実業家、映画プロデューサー、プロ野球オーナー、馬主。1925年、日本活動写真(現・日活)京都撮影所に入所し、映画人としての道を歩む。昭和初期から後期(1930年代後半 – 1980年代前半)に活動。大映社長として「羅生門」などを製作。プロ野球大映球団のオーナーとなり、パ・リーグの初代総裁。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られた。

1.新興キネマの事業継承
昭和11年(1936)の秋である。第一映画はジリ貧を続けていた。私はいよいよ決心して、150人からの従業員を集めて解散の意思表示をした。こういう状態のところへ、当時、倒産寸前にあった新興キネマの副社長をしていた白井信太郎氏から、あとを引受けてくれという話があった。提示条件を受け入れて引受けた。
 こうして昭和11年11月末で第一映画は赤飯を炊いて解散し、翌12月1日を期して、残る一党を引き連れて、新興キネマに乗り込んだわけである。私は所長として事務引継ぎを済ますと、掲示を出した。まず健康を保つために「日曜日は休み、午前9時から撮影開始、昼1時間休み、午後5時終了、夜間撮影禁止」と。そして私は所内の整頓には率先して当たり、ステージも2本新築した。こうして一応整備の目途をつけてから考えた。当時、松竹、日活、東宝が一流会社だった。そこで第一映画の面目を捨てて一流会社にできないものをやろう・・・「猫」と「狸」いわゆるゲテモノ映画を作ろうと決心した。そして新興キネマのスターだった鈴木澄子に猫の役を当て、この化け猫映画が大ヒットしたのだった。

2.戦時下の映画フィルム統制への対応
昭和16年(1941)8月16日に情報局から業者の代表機関だった「大日本映画協会」に呼び出しがあり、次の通達があった。「いまや臨戦体制化、軍需に必要な物資は民需に回さぬという方針になった。現状のままでは、民需に回せない。映画界もすみやかに臨戦体制に応じて機構を再編成されたい。さもなくは直ちに生フィルムの供給を停止する」というものだった。
 当時の映画界は劇映画製作会社として松竹、東宝、日活、新興、大都の5社があり、別にプロダクションとして東京発声、南旺映画、宝塚映画、興亜映画、大宝映画の5社、併せて10社があった。さらに文化映画の制作会社が2百数十社とニュース映画の製作には強力な各新聞社のニュース部があった。
 8月23日に各映画会社が協議した結果の「統制会設置案」を情報局に提示したところ、8月25日に当局から過酷な「映画新体制案」が出された。これによると概略、「劇映画製作と文化映画製作の2つの団体をつくり、劇映画の方は第一製作所と第二製作所に、文化映画の方は第三製作所にとして一本にする。そして別に各新聞社のニュース部門を一本のニュース会社にする。そして、劇映画は第一、第二製作所それぞれ月2本、文化映画は毎週一本ずつ、一巻か二巻ものをつくる。ニュースは合同させて毎週出す。これを受け入れるならフィルムを分けてやろう」だった。これを再交渉して、何とか「劇映画会社を3社にする」にこぎつけ、業者も世論も喜んだのであった。

3.「羅生門」でグラン・プリ獲得
1950年(昭和25)から51年にかけて、ちょうど黒澤明君などの優秀なスタッフが東宝争議のために、みんなやめて浪人していた。こういう優秀な人を遊ばせておいてはいけない。そこで黒沢君と打合せ、「ヒューマニズムの線を一本通すことで近代的な深みのあるものをつくろう」となった。それが「羅生門」だった。
羅生門がグラン・プリをとったというニュースが外電で入った時、私は従業員の賃上げ経営労働協議会を開いていたところだった。外国の記者団も押しかけてきて「おめでとう」という。それで私は「グラン・プリは一体何か」と聞いたところ、彼らはいっせいに笑い出した。「ミスター・ナガタ、あんたの作品が世界一になったんだよ」といわれてびっくりした。ふうっと胸が熱くなるような気がすると同時に、ハラハラと涙がこぼれた。「あぁ、これが世界一の感激なんだな」そう思いながら、私は泣けてきた。

永田ながた雅一まさいち
生誕 (1906-01-21) 1906年1月21日
日本の旗 日本京都府京都市中京区
死没 (1985-10-24) 1985年10月24日(79歳没)
墓地 池上本門寺
国籍 日本の旗 日本
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永田 雅一(ながた まさいち、1906年明治39年〉1月21日 - 1985年昭和60年〉10月24日)は、日本実業家映画プロデューサープロ野球オーナー馬主昭和初期から後期(1930年代後半 - 1980年代前半)に活動。大映社長として『羅生門』などを製作。プロ野球大映球団のオーナーとなり、パ・リーグの初代総裁。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られた。

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