私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

「道を究めた人物」しか語れない人生空間

「私の履歴書」を読んでいると、それぞれの職業の専門家でないと語れない技術やノウハウが書かれています。
それを読むことで自分とは違った未知の世界を知ることができ、驚き、深く感動し、人生の奥行きを広げることができます。

そんなエピソードのあれこれを、ここでは抽出してみました。

横綱は大酒豪 初代若乃花、大鵬

昔から力士は体が大きいだけに大酒、大食い、怪力にまつわる逸話が多いものです。
酒のことを「馬力」と呼ぶのもいかにも相撲界らしい用法です。
朝稽古の後、ご飯用と同じ大きさのどんぶりにビールをなみなみと注ぎ、飲みながらちゃんこを食べると聞き及んでいました。相撲部屋ならではの光景ですが、少し前までは、ビールでなく日本酒だったといわれます。

それを裏付ける言葉として、日本相撲協会元診療所長の林盈六医師が『文藝春秋』(1990年)の「巻頭随筆」の中で、「(力士は酒飲みが多いが)日本酒に換算して毎日5合ペースで飲み、10年以上続けて何ら異常のない人もいる。(中略)
親方衆に言わせると、酒の飲めない力士が一番困るという。理由は負け相撲の場合、気分転換がいち早く出来ないからだそうだ。そういえば強い力士は酒も強い。北の湖しかり、隆の里もそうだ」
と書いていることが上げられます。

この情報に興味を持ち、調べてみると、時事通信社のブログで、力士たちが残した逸話を元にした、戦後幕内力士の酒豪番付を次のように作ってくれていました。

西番付
大鵬横綱初代若乃花
南海龍大関北の湖
柏戸関脇若 浪
大豊小結佐田の山

現役での三賞は、
・殊勲賞:臥牙丸
・敢闘賞:栃ノ心
・技能賞:日馬富士
とありました。

「へぇー、初代若乃花と大鵬が酒豪の双璧なのか!」と大いに驚きました。

そこで「私の履歴書」の登場人物を調べてみると、これまで5人の力士が登場していることがわかりました。時津風(双葉山)、武蔵川(出羽ノ花)、春日野(栃錦)、二子山(初代若乃花)、そして大鵬です。
そのうち、初代若乃花と大鵬が酒量について書いているのでご紹介します。

初代若乃花は「土俵の鬼」と呼ばれ、荒稽古や豪快な取り口で知られる名横綱ですが、文字通り斗酒をも辞さずの大酒豪と巷間いわれていました。健啖家としても知られ、現役時代には若秩父と連れ立って博多の屋台を3軒はしごして、酒も肴もカラにしたという伝説が残っています。
親方になってからも、ウイスキーを1本空けてから「さて出かけるか」と飲みに出たという武勇伝もあります。
2010年に82歳で亡くなりましたが、70歳を過ぎても大酒を飲んでいたのですからすごいものです。

青森県生まれ。1958年第45代横綱に昇進。1962年、現役引退。幕内優勝10回。年寄「二子山」を襲名。「土俵の鬼」と呼ばれた。栃錦と共に「栃若」隆盛時代を築いた。

彼は23歳(昭和29年1月)で初めて関脇に昇進、殊勲賞を獲得しました。部屋の弟子は15、6人の少人数だったので、稽古は師匠に代わって彼が全部仕切っていました。
師匠の花籠親方(元幕内・大ノ海)は苦労人だけあって何事にもマメで、漬物も自分で漬けるし、つくだ煮も自分でつくる。そして、気軽によく「これから魚屋に出かけるから」とカゴを下げてチャンコの買い出しに行っていたとのこと。
そのような家族的雰囲気の中でよく飲んだといいます。「私の履歴書」の中で、その様子を次のように書いています。

「毎晩、師匠とドブロク、焼酎を飲んだ。花籠さんは秋田の人らしく酒はめっぽう強かった。昭和二十七年のこと、一緒に大森海岸の近くで飲んでいたが、大雪が降って交通が全部ストップして帰れなくなった。後援者の人も一緒だったが、当時ようやく出回りだした日本酒を銚子で260本あけてしまった」

 計算してみると、「260(本)/2(人)=130本(130合×80%=104合=10升4合?……若乃花ひとり分?)となりますが、ここには「後援者の人も一緒」と書いてあるので、後援者が10人いたとして全員あわせても5升は飲めないでしょう。そうすると若乃花1人で8升近くは飲んだことになります(お銚子:1合は8勺=0・8合と計算した)。
彼は「力士はウイスキーを飲むと腰が軽くなる」と言って、弟子には日本酒を勧めていたそうですが、自らはウイスキーが多かった。ある人が理由を尋ねると、野太い声で一言、
「日本酒はうま過ぎる!」

1940年樺太生まれ。二所ノ関部屋に入門し21歳8ケ月で第48代横綱に昇進。柏戸とともに「白鵬時代」を築く。1971年現役引退。一代年寄「大鵬」を襲名。2005年、相撲博物館長に就任。幕内優勝32回。

若い頃から大変な酒豪で、一日の酒量が一斗(18リットル・10升)に達し、ビールを大瓶633㏄で約57本(36リットル)飲んだこともあったといいます。
塩辛い物も好きで、酒のつまみに大ぶりの明太子を2腹も3腹も食べながら飲んだとか。
現役時代には同い年の親友(誕生日が9日違い)である王貞治と夜通し飲み明かしたこともあり、酔い潰れた王が一眠りして起きると、大鵬が変わらないペースで飲んでいたそうです。
しかしさすがに、その飲酒量が、後に健康を害した大きな原因とも言われています。
その彼は、酒量について次のように書いています。

「北海道巡業の帰り、秋田で栄太楼のおやじさんと飲んだ。その小国敬二郎さんは日本経済新聞の元秋田支局長。私は日本酒、おやじさんはビールでぐいぐいやったが、日本酒は帳場の黒板を見ると『正』の字が12以上あったという。意気投合してまぁ5升以上は飲んだろう」

 これもまた計算してみましょう。「5×12=60本(60合×80%=48合=約5升)……大鵬ひとり分」(お銚子:1合は8勺=0・8合と計算した)。
 この栄太楼のおやじさんは、のちに妻となる人の父親でした。このとき「正」の字が12以上「あったという」と書いていますが、この数字を彼に伝えたのはすなわち芳子夫人だったのだろうと思います。

さきの番付表には載っていませんが、大関小錦も半端ではありません。
大相撲解説者の舞の海は、彼が小錦と一緒に飲んだとき、3軒ハシゴしたそうですが、アルコール度数50%のウオッカをロックで、1軒につき1本空けて3軒まわったと証言しています。「ウイスキーは飲まないの?」と質問すると、「ウイスキーは水のようで酔わないから」と応えたそうです。さすがに舞の海も唖然としたとのこと。
やっぱり力士は並外れて酒が強い。

また、余談になりますが、前述の二子山勝治(初代若乃花)は昭和63年(約30年前)の「私の履歴書」掲載時に、将来の相撲界における日本人力士の弱体化を、次のように予言していました。

「今の日本人は経済的に恵まれて、私たちが相撲界で育ったころとは全然違う魂の抜けた日本人になってしまってはいないか。時代が人間そのものを甘くしてしまった。これほど生活が豊かになると何も自分の体をいじめて強くなる必要がなくなってしまうからだ。今と昔の力士の一番の違いは、弱いということ。体も弱い。意志も弱い。今は兄弟も少ないし、ある程度の金は入るし、食べ物の心配がない。苦労して上がっていくものが少なくなった。それが相撲界には大切なことなのだが、このままなら、日本人はみんな骨抜きになってコンニャクのような人間になってしまうような気がしてならない」

 この予言が的中して、その後、ハワイ、モンゴル、欧州、ロシアなどを母国とする有能な力士が続々と台頭し、最近約20年間、日本人力士が横綱に昇進できませんでした。
昔の栃錦、若乃花時代に持っていた相撲に取り組む真剣さ、ハングリー精神が、外国出身力士にはあるが、日本人力士には少なくなったと嘆かれていたのでした。
しかし、2017年1月場所に大関稀勢の里が横綱白鵬を倒し、14勝1敗で優勝して横綱に昇進しました。実に日本出身力士としては1998年5月場所後に横綱に昇進した若乃花勝(第66代、藤島部屋→二子山部屋)以来の19年ぶりの横綱昇進でした。
これを契機に、高安や遠藤、宇良のような若手日本人力士がどんどん台頭してきてほしいものです。

マラソンランナーのスピードとペース配分

東京マラソンや正月の箱根駅伝を沿道で見ていると、ランナーは応援者の目の前をあっという間に走り去ってしまいます。
やっぱり速い。いったい、どの程度の速さなのでしょうか?

福岡県生まれ。高校卒業後、八幡製鉄(現新日鉄住金)に入社。1960年代から1970年代前半、戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーである。また、オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場した。メキシコ五輪のマラソンで銀メダル。

それを、君原は次のように具体的に解説してくれています。

「100mを20秒で走ると、1kmが3分20秒、5㎞が16分40秒となる。このスピードを最後まで維持すると、フルマラソンのタイムは2時間20分39秒になる。100mのタイムが1秒遅れると、42・195キロでは約7分余計にかかる。たった1秒の差が積もり積もって大きな差になるのだ。」

これをさらに計算すると、100メートル当たり1秒縮めると2時間13分台、2秒縮めると2時間06分台。
2008年の北京オリンピックでの優勝記録は2時間6分32秒ですから、100mを18秒でフルに走ったことになります。
筆者の高校生時代の100メートル走のタイムは18秒台でした。自分が全力疾走しているのと同じかと、マラソンランナーの速さを改めて認識しました。

君原はマラソン選手として走る上でのロスを限りなく少なくしたいため、ムダなエネルギー消費を避けようと考え、身に着ける物の軽量化も図りました。
まず、時計・眼鏡は外し、靴下は履かない。さらにウォームアップも短縮したといいます。
そして次のように語る。

「マラソンとはいかに速く自分の体を42・195km先にあるゴールまで運ぶかという競技である。体が蓄えているエネルギー源(糖質と脂肪)は決まっている。それをうまく使いながら、できるだけ速くゴールする。
当然、スタートする前にペースを決める。しかし、理想のペースとは、その日の体調や気象条件によって変わる。だから、走りながらずっと、理想のペースについて考え続けなければならない。(略)
5kmまで行ったら、このままのペースで進んでも大丈夫だろうかと考える。修正が必要なら、37・195kmをどういうペースで走ればいいのかと計算する。疲労の度合いをチエックし、気温や風向きの変化を感じとることが重要だ。そうしながら、10キロ時点では残り32・195キロの、15キロ地点では残り27・195キロの理想のペースをはじき出し、速度を微調整していく。(略)
そういう意味でマラソンとは人との戦いではなく、自分との戦いなのだと思う。自分を見失わず、自分の理想のペースを守れるかどうかで結果は変わる」

この説明で私は、ペース配分とは何かをよく理解できました。
しかも、これに雨の日、風の日、上り坂、下り坂に面した場合、そして高い気温のときなど、自分の体調や体力の消耗度を計算しながら、スピードを変えるのですから、マラソンとはメンタルだけでなく頭脳の勝負でもあるのだなとも納得できました。
まさに、幾多のレースを走り抜いた経験者でないと語れない言葉でしょう。

タクトを横に振れる指揮者とは

筆者は、指揮者はタクトを縦・横・斜めにしか振らないと思っていました。
しかし、タクトを横にも振るという、レベルの深い境地があることを知りました。

満州国奉天生まれ。桐朋学園短期大学で恩師・齋藤秀雄から指揮を学ぶ。卒業後、欧州に単身で武者修行に出かける。2002~2003年のシーズンと、2009~2010年のシーズンにウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。世界的指揮者として活躍中。

小澤は若いとき、指を大切にしなければならないピアニスト志望でしたが、怪我の多いラグビーにのめり込みました。結局、指の骨折でピアニストを諦めざるを得なくなったとき、「音楽が好きなら指揮者になれ」というピアノの先生の運命的な言葉を聞いたのです。
 桐朋学園で斎藤秀雄先生に「指揮」を教わったのですが、先生が最も教えたかった「ベートベン第9番交響曲」の指導を受ける前に、24歳で欧州に武者修行に出てしまいます。
 この無計画な行動を、水野成夫(フジサンケイ)、江戸英雄(三井不動産)、遠山元一(日興証券)などが資金を提供して支援しました。
 現地や帰国後の窮状の際も、井上靖(作家)、小林秀雄(評論家)、三島由紀夫(作家)、流政之(彫刻家)など多くの有名人が陰に陽に応援してくれています。これは、小澤のすぐれた才能と愛される素晴らしい人柄をあらわす証拠だと思います。
師匠と仰いだカラヤンの薫陶の下、指揮者としての実績と名声を上げていたとき、確執のあった斎藤秀雄先生から、「お前も横に振れるようになったな」と褒められました。
小澤は「横に振る」の意味を次のように説明しています。

「指揮で横に振るというのは、ニュアンスを出すとか、曖昧な部分を表現することだ。極端な話、縦に振っていてもアンサンブルは合う。それ以上の音楽が作れるようになった、という意味だった。やっとわだかまりが解け、僕は芯からホッとした」

クラシック音楽に縁の遠い筆者は、コンサートにもあまり行かないので、指揮者の挙動を見ることもありません。テレビでカラヤンが目を閉じてタクトを振っているのを見て、桃源郷の境地で一流の楽団員を指揮できるのだから、ラクな仕事のように思っていました。
ところが、練習段階で指揮者と楽団員はお互いの実力を品定めするのだそうですから、これは一種の格闘でしょう。楽団員が指揮者の音楽に対する理解や造詣が深いと納得すればその指揮に敬意を持つので、そのタクトの微妙な変化にも対応した優れた演奏が可能になるというわけです。
このような意味で斎藤先生は小澤の指揮を、「お前も横に振れるようになったな」と褒めたのでしょう。
筆者はこのエピソードに触れて初めて、音楽における指揮者の重要性が理解できました。

芸能人から文句の出ないギャラとは

芸能人(タレント)のギャラは、その業界に通じている人でないとわかりません。有名な映画俳優や歌手は豪邸を建て、高価な外車やヨットを所有するのだから、相応のギャラをもらっているのだろうと想像はできます。
しかし、どのような基準でランク付けされ、ギャラが決まるのでしょうか。

それを中邨が、次のように当時の業界事情を説明しつつ紹介してくれていました。

大阪府生まれ。関西学院大学卒。吉本興業に入社し、人気番組「ヤングおー! おー!」(制作・毎日放送:1969~1982年まで放映)などをプロデュース。 1991年に社長就任。東京進出の旗振り役となり、関西ローカルだった吉本興業を全国区に押し上げた。

中邨は演芸部門の再興に取り組み、うめだ花月(大阪市)などの劇場開設に携わり、吉本新喜劇をスタートさせました。また、1969年に始まった若者向け人気番組「ヤングおー! おー!」を企画するなど、テレビ局と組んでタレントを売り出す手法も確立しました。
東京では、人気が出ると思うと先物買いでギャラを高くしますが、大阪はあくまでも芸人の格でギャラを決めていました。この東西の垣根を、彼は壊したのです。明石家さんまがブレイクしたのをきっかけに、それが可能になったとのこと。

彼は、2001年当時の芸人のギャラについて、次のように説明しています。

「当社に属している芸人は六百人以上。その中で最高が八億円強で、一億円超の高額所得者十一人を合わせると、百人ちょっとが一千万円以上取っている。(略)年収百万円以下も三百人以上がいる。収入については格差の激しい社会だ。芸人はいったん人気が出ると倍々ゲームで収入が増える。歩合給のテレビ出演本数が急増するせいだ。(略)一番危ないのが年収一千万円前後。新幹線を普通車からグリーン車にしろとか、地下鉄に乗っていたのをタクシーに替えろと言い出す。ギャラはお客さんが払ってくれているという本質を忘れてしまい、自分の腕で稼いだと錯覚するのだ。芸人にはだれしもが一回はかかる『はしか』である」

ギャラは芸人を評価(ランクづけ)するバロメータ-です。ギャラが上がることが、すなわち芸人としての評価が高くなるということです。まさにそれは芸人の生きがいでもありますから、芸を高める努力を日夜、切磋琢磨で行なうことに結びつくのでしょう。
「へぇー、ギャラはこんな基準に基づくのか」と教えていただきました。

また、広告業界には、いわゆる「ギャラリスト」というものが存在しているそうです。広告代理店や芸能人などを派遣企画する「キャスティング会社」が制作するもので、CMや広告、WEBなどの出演契約をするにあたり、基準となる金額が明記されたものです。
これはまさに寿司屋の「時価」のようなもので、その時々の人気度により変わっていくものです。サラリーマンにも出世競争はありますが、同じぐらいの年齢で、給料に天と地の差がつくということは、よほどでないとありません。
芸人さんたちの不安と焦燥が感じられる話ですね。

なぜ役者は花柳界にモテなければならないのか

政治家、財界人、高級官僚などが東京や関西の花柳界(花街)によく出入りするのは、仕事の関係、人間関係をよくするなどの理由であると素直に思っていました。
ところが、歌舞伎俳優や古典芸能の文楽(大夫、人形遣い、三味線)や能楽(能、狂言)などの役者さんも頻繁に通っています。

歌舞伎の中村鴈治郎(二代目)、文楽・人形遣いの桐竹紋十郎、新派の花柳章太郎などは、その様子を、「私の履歴書」にとり上げています。皆、共通に、「持ちつ持たれつ」だと書いています。
ナゼだろうかと考えてみると、単純には芸妓さんは踊りや三味線などの芸に通じているので、この芸をお互いが学ぶ関係かもしれないと思い浮かびます。それが高じて結婚にいたった役者さんもたくさんいるようです。

でも、最も大事な理由はまた別にあることを、よく理解できるように書いてくれていたのが、桐竹紋十郎でした。

 大阪府生まれ。子供の頃、知人に誘われて千日前常磐座に文楽を見に行ったのがきっかけで興味を持つ。1909年(明治42)、四代目吉田文五郎に弟子入り。女形から立役まで幅広くこなした。地方や小劇場、海外のカナダ、アメリカ、ヨーロッパまで公演に参加。世界に文楽を広めた。

 桐竹はその芸能人と花柳界の関係を次のように説明しています。

「ねんごろにしていた女性が8人ありました。大阪の南、北、堀江、新町、伊丹、京都、神戸、和歌山あたりの芸妓さんで、いずれもわりない仲でしたので、典侍の局の大役をやるについて、私はその8人をひとりひとりたずねて組(くみ)見(けん)の応援をたのんで歩いたのです。『師匠から無理やり譲ってもろた初めての大役や、これで評判が悪かったらやめんならん、のるかそるかのドタン場や、切符売ってこの蓑助を男にしてんか』(中略)ごひいき筋を売り歩いてくれ、8人で500枚もさばいてくれました。
襲名披露で連日300名の芸者連が客席に陣取って、黄色い声援を送ってくれました。この興行での私ひとりの観客動員数は2400人に達したのです」

 ああ、そうだったのか……。役者は人気商売。お客の来場数で芸の価値も評価される。それを考えると政界や官界、経済界の贔屓の客を多く持つ芸妓さんとは日頃から親しくしておいて損はありません。いざという時のため、日頃から各地の花街に通い、売れっ子芸妓と親しくなるのに必要な散財をしておくのは、仕事のように当たり前のことだったのです。
 役者は「若い時にお金を貯めてはダメだ、芸の修行のため散財しろ」と、彼は師匠や先輩からいわれたといいます。名人と呼ばれる人の舞台や映画を見て、至芸を盗んだという逸話もたくさんありますが、花柳界との付き合いも大いに「将来への投資」になるのでしょう。

なぜ近江商人の教育システムは優れているのか

昔から、日本では甲州商人、近江商人が代表的な商人のイメージがあります。
甲州商人は、「ずるがしこく商売し、カネにうるさく負けず嫌いで執念深い気質」と言われ、他県人から警戒される傾向がありました。
近江商人は、関西で「近江泥棒、伊勢乞食」とよく比較されました。近江商人は他藩に強引に侵入し、せっかくの貨幣蓄積をさらってしまう。伊勢商人は参宮街道道筋に並んで座り、一生に一度の三宮参拝者からお金を捲きあげるという意味で、面白い比喩だと思いました。

近江商人の特色はその数が多いことで、全国いたるところに進出しています。その郷党意識は一味違っており、徒弟を同郷人に求めただけでなく、成功すると同郷人を導いて同じ出先地で商売するのを助けたのです。
近江商人相互間での情報交換が密接に行われ信用もあったので、物資の流通という職能が高く評価され、流通機構を確立することができたといわれます。これは、近江商人の、日本社会に対する大きな功績です。近江商人のモットーは「節約と勤勉」「地味で持久」であり、これが気質となっています。

嶋田が「私の履歴書」で紹介している近江商人の教育システムは、長年にわたって培われたすぐれた制度だと思います。

京都府生まれ。丁稚を手始めに職業を転々する。パインミシン(蛇の目)の拡販に協力後、入社。戦後、リッカーミシン創業に参加。昭和28年、蛇の目ミシン工業に復帰。36年社長。

「私の履歴書」にはそれまで、近江商人以外の教育システムは書かれていなかった。嶋田は、この教育システムをわかりやすく説明しています。

「伝統として主人は直接経営に携わらず、丁稚からたたき上げた有能な番頭に、各地の店を任せるというしきたりであった。またそのために新しく入ってきた丁稚小僧を、将来の幹部――近江商人の伝統を継ぐ人間にするための人づくりを行なったものだ。給料も最初の二年間は五十銭、次の二年間は一円、さらに次の二年間は一円五十銭というケタはずれの低賃金。むろん最低の人件費に押さえるという考えもあったろうが、極度に質素な生活に耐え抜く意志の強固な人間をつくるという意図も加味されている。
たとえば、夜は習字、ソロバン、閑散期には礼儀作法から謡曲のけいこをさせるなど――要するに将来、りっぱな商人として幹部を育成するという考えがその底には流れていた。
丁稚どんは、みんな一年ぐらい、この京都のご本邸で使われながら日常生活の規範をしつけられる。ついで一~二年、京都の仕入れ店に回されて、職方、西陣の織屋や友禅加工などの下職関係の仕事に使って生産加工機構と商品知識をつける-そのうえで中央店である大阪店に出して、はじめて地方の得意先関係のことにタッチさせる――という仕組みである。
もっともどこへ回されても新参の丁稚は、早朝、まず表通りの清掃と三、四十もある大きなタバコ盆の掃除を道路わきのみぞぶたの上でやり、ついでぞうきんがけ――これはどんな寒中でも水でなくてはいけない――という。実際湯で絞ったそうきんを使ったのでは、ひのきやけやきの板の間はあまり美しいツヤは出ないものだ。のちに越前永平寺の禅僧の修業を見たが、全くあれと同じだ」

へぇー、入社の1~6年は丁稚小僧として低賃金で長時間労働だが、夜は習字、ソロバン、閑散期には礼儀作法から謡曲のけいこまで習得させてもらえるとなると、確かに将来の幹部候補として教育してもらっているといっていいでしょう。この期間が知識と忍耐と教養の人材づくりなのでしょう。
しかし、現在の会社は高校卒以上が就職して来ますから、礼儀作法と自社の技術や知識は会社で教えるものの、パソコンや語学、音楽などの教養部門は各々自己責任で習得しなければなりません。
IOT(モノのインターネット化)やAI(人工知能)、IT(情報技術)など科学の著しい進歩に追いつくのに精いっぱいで、とても教養を高める時間的余裕がないと現役社員はボヤいているように聞きます。でも、やはり教養は自己責任で習得するしかないでしょう。
この近江商人の教育システムの恩恵を受けた優れた経営者が現在の日本中に散らばって、現代人を指導してくれているのはありがたいことです。

固定相場制から変動相場制へのソフトランディング

日本政府は、外国生まれで自由に外国語をしゃべり、多くの外国著名人を友人に持つ、大蔵省国際派ナンバーワンの人たちに国際通貨の危機回避交渉を任せました。

その緊迫した交渉現場を、大きな使命を課せられていた柏木が再現してくれています。

中国大連生まれ。昭和16年東大卒。大蔵省入省。26年主計官。在米大使館一等書記官。財務参事官。交際金融局長。43年、大蔵省財務官。46年に退官。48年、東京銀行副頭取。52~57年頭取、のち会長。

柏木は大蔵省(現:財務省)きってのアメリカ通、国際金融通として知られ、初代財務官の役職は彼の才能を活かすための役職ともいわれています。早くから国際金融会議には日本側の交渉役代表として、敏腕を振るいました。

彼が財務官を退官した直後にニクソンショックが起こり、株式市場は未曾有の暴落となり、為替市場もドル売り一色。その背景には、1960年代から続いていた米国の国際収支の赤字や日本の黒字があり、世界的な国際収支の不均衡が徐々に問題化していました。ドル暴落論、世界の金融市場の大混乱が多くの経済人にいわれていました。

それまで為替は固定相場制でしたが、変動相場制に移行せざるを得なくなっていました。柏木はすでに退官しているので顧問となり、政府代表代理の資格で、米国のコナリー財務長官、ボルカー次官、IMFのシュバイツアー専務理事らともたて続けに接触し、事態収拾のための円上昇の落としどころを探っていきました。そして各国の妥協を図る最後のG10の国際金融会議が開かれたのです。

「一九七一年(昭和46年)ローマでのG10をふまえ、最終合意の場として米国が用意したのは、ワシントンにあるスミソニアン博物館。会議は十二月十七日、十八日に開かれた。通常の会議と違って、由緒ある古い建物を選んだことにも、米国の決意のほどがうかがえた。米国は盛んに二カ国交渉を展開してきており、そのため来日したコナリーは大活躍だった。米国はローマですでに、金価格の改定と、ドル切り下げの可能性も示唆していたのである。その米国にとって最大の標的は当然、円とマルクであった。
水田蔵相が腹痛で退席されたあと、米国との最終交渉は、私とコナリーの膝詰め談判となった。米国の要求は一九%の切り上げ。それに対してこちらは一五%がギリギリの線と切り返した。東京からの最終訓令は『三百十円、一六%』。私にはまだ一%の余裕があった。
コナリーが二度目に示したのは一七%。一九と一五のちょうど中間だが、東京の指令よりは超えることになる。が、コナリーの口調から、米国もかなり追い詰められていることを感じ、この辺が妥当なところであり、時機を失してはいけないと思った。最終的な合意は一六・八八%切り上げの三百八円だった。これはキリのいい数字でと蔵相が主張したためだ。
円が決まると一時間後にマルクも決着がつき、さらに三十分後にはイタリア・リラが決まって、会談はヤマを越えた」

これがうまく決着できたのも、彼がIMF(国際通貨基金)やIMC(国際通貨会議)の米国はじめ各国代表と顔見知りである以上の交友を持っており、人柄や金融知識が信用されていたからです。
日本政府は、このような人材は国家財産として常日頃から養成して置かなくてはなりません。そのため、現在は財務省の次官と同じクラスとして財務官制度を設け養成しています。この財務官が、国際金融のプロとして日本側交渉代表で国際会議では活躍しているのです。

独房体験の告白 河田重(日本鋼管社長)、石原廣一郎(石原産業会長)

一昔前、疑獄事件や戦争犯罪人の容疑者として独房に入れられた人たちが、その印象を「私の履歴書」で語っています。
これらの記述から筆者が独房を想像すると、「部屋の居室面積は狭く、冷たくて古い部屋。トイレは臭いも残る。畳もボロボロで虫が動き回り、洗面台の排水溝は汚い」というイメージです。この二人の経験を読んで、こんな場所に長く居るとやはり頭がおかしくなりそうな所だと怖い印象を持ちました。

その一方、毎日新聞に掲載された元国会議員の独房生活を読むと今昔の感があり、思わず苦笑してしまいました。

茨木県生まれ。大正4年東大卒。昭和7年、日本鋼管入社。終戦後は常務で鶴見造船所長から社長となる。38~41年社長。

河田は、川崎疑獄という川崎市が失業救済事業を行う際、日本鋼管が川崎市に賄賂をおくったという嫌疑を受け、横浜の刑務所に収監されました。そのときの心境を次のように語っています。

「独房生活はいまもって身ぶるいがでる。私はそこで百十日をすごした。よく病気にもならず発病もしないで出られたものだとおもう。(中略) 朝起きて掃除がすめば、検事の呼び出しがないかぎり、坐ったきりの毎日である。一人ぽっちで、口をききたくとも相手がいない。看守さえ口をきかない。ものを言いたくともいえない苦しみを、私ははじめて味わった。
 むかしから“懊悩”ということばがあるが、私は音もなくしのび寄ってくるその懊悩に、へとへとになるほど苦しんだ。語る相手もなにもない独房のなかでぽつんと坐っていると、ぼんやりとなにかを考える。するとその考えにそれからそれへと枝葉ができては果てしなくひろがり、ついにはどうにも収拾がつかなくなってしまう。たとえば、いまごろ家で子供たちはどうしているだろうなんて考えると、それが次から次へと発展していって解決がつかなくなってしまう。
 独房にはいって、私はインテリの弱さをいやというほど知らされた。あんな環境におかれると、インテリほど懊悩にとりつかれやすくなるようにおもう」

河田は未決のままおかれ、7月から12月までの110日間のうち、取り調べのあったのはたったの10日間。取り調べのときはまったくの罪人扱いで、編み笠を被せられた情けない姿で検事の前に連れていかれたそうです。もちろん、当時の訊問は、拷問も平気で行われほどの厳しいものでした。執拗に、調書を見せながら「これを事実として認めれば出してやる」と強要するのですから、上述のような暗澹たる気持ちにもなったでしょう。いやぁー、筆者なら気が狂ったかもしれない。

京都生まれ。立命館大学卒。大正5年、南洋に渡る。9年南洋鉱業公司(石原産業)設立。二・二六事件では叛乱軍に資金を提供して逮捕された。戦後、A級戦犯に指定されたが不起訴。社長に復帰し再建に成功したが、公害紛争に巻き込まれた。

 石原は、昭和二十年十二月十日、GHQから戦犯容疑者として、岡部長景(子爵)、真崎甚三郎(大将)と一緒に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に収容されました。

「MPにつきそわれて玄関わきの待合室にはいった。そこで長時間待たされたあげく、呼び出されて三回もすっ裸にされ、所持品の検査やら身体検査を受けた。最後には頭の上から足の先までDDTをふりかけられた。それがすむと私たちは全身粉だらけの姿で、片手にトランク、片手に夜具のはいった大きな袋をぶら下げ、MP二人につきそわれて長い廊下を歩かされた。人には見せられない姿だった。階段を上がると、そこに監房が並んでいて、その廊下の奥の二十七号が、私の“へや”だった。
『ガチャン』と、かぎがかかった。その音を聞くと、覚悟は決めていたものの、さすがに不安になって、私はその場にすわり込んだ。が、よく見ると三畳の独房だが水洗便所、洗面所、物入れまでついていて、二・二六事件で拘置されたあの憲兵隊の拘置所とはだいぶようすが違う。そう思うと初めて落ち着きが出てきた。
 当然のことだが、ここでの生活には大将も子爵もなかった。朝、食事を受けとるため、みんな房を出て一列行進をする。(中略)東条英機元首相、板垣征四郎元大将らの姿も行列の中に見えた」

調べると、巣鴨プリズンでは、A級戦犯と60歳以上の高齢者・病人以外は、全て就労を命じられていました。
プリズン周辺の道路整備や運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に1回ずつある5分の休憩と昼食の休憩時にしか休めない。私物(自分の持ち物)は一切禁止で、全員制服着用で行わなければならない規則でした。
長い拘禁生活と裁判の疲労で、体力の落ちた戦犯たちには重労働であったといいます。未決囚とはいえ、すでに犯罪者として扱われている感じです。
しかし、前述の河田のように独房の中で「一人ぽっちで、口をききたくても、看守も応えない」苦痛よりも、作業をする方が精神衛生上、良いのかもわからないとも思いました。

最近、栃木の刑務所から仮釈放された千葉選出の元製薬会社会長・元衆議院議員Aは、ほぼ同時に仮出所した北海道選出の元衆議院議員Bと同じ刑務所での服役だったそうです。

その本人の報告によると、受刑者が着るのは昔のような囚人服ではなく、ユニクロ製の現代的な運動着だったとのこと。

作業日は午前7時10分に起床、食事をして8時に工場前に整列、点呼。

 作業は多彩で、Aは主として千羽鶴を作り、病院や施設に贈る。Aは緑の帽子、Bは赤帽子の衛生係で身体障碍者の面倒を見たり、洗濯物を配ったりする仕事。Bは有名人なので、他の服役者と握手をせっせとしていたといいますから驚きです。

作業は午後4時終了、休憩、運動時間を除くと、実質4時間労働で週休3日だから、重労働とはいえません。1日の賃金は110円70銭、独房では本や手紙の差し入れは許され、テレビを見たり、新聞も読めるので、暇で困ったことはなかったそうです。

筆者はこの内容をある新聞で読んだが、独房も昔と今とはずいぶん違ったものだと感じました。問題を起こさずに過ごしていれば、ほとんど満期の前に仮釈放になります。Bの場合、500日満期を365日で出所したので消化率73%、KSD事件のC元労相も73%、Aは74%でしたが、一般の服役者は平均80%だということです。

 独房生活がこんな調子ならば、娑婆に出て、3Kで低賃金の職場で働くより、「ムショのほうがラクだ」という不埒な輩が出るかもしれません。現在社会的に急増している生活困窮者はどう考えるでしょうか。 2012年12月に広島の刑務所から脱走した犯人も、逃げ回った挙句、こんなに辛いなら「刑務所に戻る」と言って警察に自首してきたそうですが、困ったものだと個人的には思います。

ハドソン川河口で送った涙の手旗信号

鈴木は広島の大竹海兵団所属で、特攻隊員として九死に一生を得た経験の持ち主です。戦後まもない頃、駐在していたアメリカで、海上自衛艦の見送りに単独参加したのも強い郷愁からでした。それを感動の文章で伝えてくれています。
また、彼はユーモアに溢れた文章も書いており、興味深いものなので紹介いたします。

静岡県生まれ。1940年東京商大予科、学徒出陣、大竹海兵団に入隊。特攻隊員となるが出撃直前に敗戦。46年東京商大卒、兼松入社。80年に社長、会長。絵画、短歌などの趣味人。

 鈴木が2度目のニューヨークに駐在中、日本経済の復興と共に国威も回復してきた昭和46年9月、海上自衛隊の練習艦2隻がニューヨークを訪れました。
当時、彼が日本人クラブの教育委員長をしていたことから、日本人学校の子供たちとともにその歓送会に出席したのです。
 頼もしげな士官候補生たちと歓談のあと、いよいよ出港となり、「蛍の光」とともに艦は岸壁を離れてハドソン川を下っていきます。彼は何か未練が残り、「よし、もう一度見送ろう」と河口まで行くことにして車で先回りしました。しばらくの後、2艦がやってきた時の行動は・・

「とっさに私は、手にした歓送の小旗2本で手旗信号を送った。『ガンバレ、ガンバレ』。すると先頭艦の艦橋から突如探照灯がまばゆく点灯、私と家内を照らした。と同時に発行信号が始まった。パッパッパ……、目を凝らすと『ミ・オ・ク・リ・シ・ヤ・ス』(見送り謝す)。
 艦橋には一列に並んだ白い制服の登舷礼。私は夢中で旗を振り続ける。涙が頬を伝わる。横を見ると家内のほおも涙で光っている。土浦での通信訓練がようやく役立った感激の一瞬であった」

 戦後まもない異国での海上自衛艦の見送りに郷愁もあり、ひときわ感慨深いものがあったと思われます。
筆者も2009年11月に、オーストラリアのパースに近いフリーマントル港から南極に向けて出航する、南極観測船「しらせ」を見送ったことがあります。たまたま旅行でその地にいたのですが、船のご厚意により、艦内を特別見学させていただいたことから名残が惜しく、翌日の出航を見送ることにしました。その場所には、地元のゆかりの人たちや隊員の家族・親戚たち200人ぐらいが来ていました。
 3段ある甲板すべてに白い制服の自衛隊員と紺制服の南極隊員や報道関係者および日立、東芝など観測機器納入技師などが勢揃いしてくれていました。見送る人たちが「お元気で」「頼むぞ」「また会おう」と大声で叫び、小旗を振ると、大きく帽子を振り答礼。
 船が岸壁を離れ、ボーォと汽笛を鳴らせば、速度が上がってたちまち大型船の姿も小さくなっていきます。でも、岸壁の人は日の丸を、隊員は帽子を振り続けていました。
パース駅やロッドネスト島で会った隊員たちは礼儀正しく、好感の持てる人たちばかりだったため、「その人たちの無事や成功を祈る気持ち」で一杯になり、みんな目を真っ赤にして見送ったという経験があります。
 異国における日の丸と同邦人との別れには、特別の感慨が湧くものだと思い知ったのでした。

話は変わりますが、「私の履歴書」にはご当人の結婚の話もつきもので、多くの人が照れくさそうに披露しています。プロポーズを28回行った某新聞社の実力者の武勇伝も有名ですが、鈴木も見合い7回のツワモノでした。そんな彼が、ついに白旗をあげるシーンがなかなかいい。

「おばさん」と親しく呼んでいた友人の母君から「どう?」と尋ねられた。当時は八等身という言葉が流行っていたので、それを頭において「少し太めでは……」と言った。ところが「よくお聞きなさい。女には三張りと言って、目の張り、胸の張り、腰の張りです。これが一番大事なのよ、あの方はそれがそろっているのよ」とすごい剣幕で怒られた。
 私が口をモグモグさせながら「でもちょっと張りすぎでは……」と言った途端、おばさんの雷が落ちた。「お黙りなさい。あなたの顔を鏡に映して、見てきなさい」

彼はギャフンとなり結婚を承諾したと告白しています。のちのち「女の三張り論」の真偽を多くの人に確かめたそうですが、誰もご存知なかったとのこと。
ともあれ、彼の奥様はこの箇所が新聞に載ったとき、どのように反応されたのでしょう。何もなかったとは考えにくい、と思うのは筆者だけでしょうか。しかし、筆者もこの珍説を拝借して、酒宴をよく盛り上げていたものでした。
「女の三張り論」、今日この頃は、時と場をわきまえないと、ちょっと危険な話材ですね。

魚・小鳥などの捕り方

私は昭和17年(1942)に瀬戸内海の香川県高松市に生まれ育ちました。気候温暖で自然環境に恵まれたところで育ちましたので、海の幸、川の幸、山の幸に恵まれ、私も魚や鳥を良く捕まえ、食料や愛玩用に飼ったものです。
明治時代とあまり違わない捕り方でした。

1889年長崎県生まれ。台湾製糖から中越水力電気支配人、昭和3年不二越鋼材工業を設立して取締役社長となり、精密工具の生産を始めた。17年衆議院議員に当選。戦後、経団連、日経連各理事、日本機械工業会副会長、日平産業取締役を兼任。晩年は不二越の関係会社ナチベアリング販売会長、富山テレビ放送社長、呉羽観光取締役などを歴任した。

(1)メジロ捕り:
井村によると、よく山に遊んだ。山といってもすぐ家のうしろが山だった。そこには椿の花が咲いていて、メジロとりをやって遊んだ。1.5mぐらいの椿の枝を切って、それに囮(おとり)の籠をつるす。切った椿の枝には赤いいくつかの花がついている。椿の花がメジロを誘うのだという。「梅に鶯」なら「椿にメジロ」で、椿は早春の花だから、メジロの鳴く声を聞くと、春が来たと思い、春を告げる鳥だとも思った。

山には椿の花が多かったが、めじろもたくさんいた。とっためじろは飼いならす。めじろの中にはどうしても餌を食わぬやつがいる。ハンストなどというとすこぶる不快を感ずるが、餌を食わないめじろは偉い。これは放してやった。めじろは飼いならして啼きくらべをやった。

井村はやんちゃ坊主でもあったが、捕まえたメジロを放してやる心の優しい少年でもあった。私の場合の捕獲は、2mほどの竿の先に鳥モチをつけ捕まえたが、メジロの羽が鳥モチで傷んでしまい、長生きはしてくれなかった。可哀そうでそれ以後は止めた。

(2)ひばり捕り
四、五月になると今度は、ひばり捕りのシーズンとなる。ひばりもたくさんいたようだ。麦畑はもとより、藪にもよく巣をかけたという。そして次のように書いている。

麦の穂が出かかるころになると、ひばりの卵がかえる。ひばりが餌をくわえておりるから、ヒナがかえったことがすぐにわかる。ひばりは侵略者を警戒して自分の巣にはすぐおりぬ。手前で降りて、地べたをはって巣にゆきつく。カンでその見当をつけるのだが、うまいものだった。(中略)ひばりはどういうものか不思議に一番子がオスだ。二番子は大抵メスだからいけない。二番子と知らずにメスを育てるなどということは、村の悪童連にとってこれ以上の不見識はなかった。
ひばりの子を育てるのは、卵からかえったばかりの、目の開かぬうちに連れてこなければならぬ。ひばりの子はすり餌をやるとすぐ食う。ひばりはめじろと違って、きっと餌につく。目が開くと、餌の皿にくちばしを持っていく。かわいいものだ。ひばりほど飼いやすいものはない。めじろはしょっちゅう水浴びをする。ひばりはどういうものか水浴びはしない。砂をおいてやるとひばりは砂を浴びる。

生まれた一番子はオスで二番子がメスとか、ひばりの子はすり餌をやるとすぐ食うとか、メジロは水浴びでひばりは砂浴びするとの言葉は、よほど自然に親しみ、小鳥たちに愛情を注いだ人だと想像できます。私の場合は、麦畑にひばりが良く巣をつくっていたので、そのヒナを良く捕まえることができた。しかし、うまく育てられなかったので以後は捕獲を止めました。

(3)うなぎ釣り
めじろ、ひばりに続いて、うなぎ釣りの季節が来るそうだ。彼の生まれた家の近くには小さな川が流れていた。小さな川だがそこには、うなぎがたくさんいた。その川が海に注ぐころ、右岸の高地が島原城跡であったという。彼のうなぎ釣りは竿の先に釣針をつけて、餌にかえるやみみずをつける。そして、

うなぎのいそうな石垣の穴や石の下ねらって竿の先を突き出す。そっと手元にたぐり寄せると、うなぎが頭を出してくる。それをうなぎ鋏で、さっとはさむ。うなぎ鋏は刃部が鋸刃のようになっている。うなぎは夜でも昼でもとった。うなぎ鋏は店で売っていた。

それほどうなぎは多かったのでしょう。私の場合は、石垣の穴や石の下に、竿の先の釣針に大きなミミズをつけて、そっと入れる。その穴にうなぎがいるとアタリが来る。すると竿の先の餌が離れるようになっている。うなぎが咥えている餌を飲み込むまでじっと待つ。5~10分経つと飲み込む動きが鈍る。そのときを逃さず一気に、釣り糸を引き出す。うまくいくと多少の抵抗があってもうなぎは巣穴から容易に引き揚げられる。しかし、タイミングを逸すると餌を吐き出したり、巣穴の奥に潜り込んで引き揚げることができなくなる。引き揚げる瞬間がドキドキハラハラの緊張となりだいご味でもある。

(4)カニ捕り
秋は秋で、カニとりを楽しんだという。その方法は、

川のまん中をすこし残してV字形に石を積む。水がせばまって急に落ちるところに籠をしかける。籠はねずみ捕り器のように、逆さに出られぬようにしてある。かにはきょうは雨だという日に川を下るものだ。その習性を利用した。しかけておいて翌朝未明に出かける。二十匹や三十匹は入っていた。毛の生えている川かにで、小さいがとてもうまい。

アハハハです。こんなに簡単に捕れるなんて羨ましい。私の瀬戸内の河口の浅瀬では、潮が引くと直径2cmほどの穴が点在している。一つの穴を見つけると、その周囲1mほどを見渡すと必ず同じ大きさの穴が見つかる。捕獲網を一方の穴に被せ、もう一方の穴を足で強く踏み壊すと、クルマエビが慌てて他の穴から飛び出してくる。飛び出せば、仕掛けておいた網に飛び込むことになる。こうして1日に20匹ぐらいは捕れた。
また、少し深い岩場では水中眼鏡をかけて潜る。イセエビを捕るのにタコの足を棒の先に括り付け、岩の隙間に差し入れヒラヒラさせると、エビはタコが侵入と勘違いし、慌てて別の出口から飛び出してくる。これに網を仕掛けて簡単に捕獲できたものです。これはタコがエビの天敵だからこの習性を利用した漁法です。もう一度、こんな漁をしたいなぁ。

ニシン豊漁の風景

2015年のNHK朝ドラ「マッサン」はこの「履歴書」にも登場した竹鶴政孝ですが、彼は自分の人生を賭けて北海道に理想の水を求めて行きます。そのとき余市のニシン漁網元の親方の協力を得ることができますが、その御殿がニシン御殿と言われた豪華な屋敷でした。
これは最盛期には春先の産卵期に回遊するニシン漁で財を成した網元による「鰊御殿」が建ち並んだ一つでした。
へぇー、ニシン御殿はニシン漁で財を成した網元達が、競って造った木造建築物だとすれば、どれほど多くのニシンが春先の産卵で回遊してくるのだろうと疑問を持ったのです。
朝ドラでもそのニシン漁シーンは出てきませんでした。

しかし、それをはっきりとイメージできるシーンを木下が書いてくれていました。

本州製紙社長(現王子製紙)のち会長。包装界に対する多年の功績を記念して「木下賞」(3部門)が創設されている。明治22年(1889)、愛知県に生まれ、大正5年(1916)東大を卒業し、王子製紙に入社する。そして9年(1920)、樺太に赴任して終戦まで一貫してパルプ生産に従事する。そして戦後シベリアに4年半抑留された経験を持つ。

 木下が社長として樺太(現・サハリン)に赴任していた時、春を知らせるのはニシンの群れでした。五月の末にから六月にかけて、土地の人が“にしん日和”というどんよりした日に、にしんはやって来たという。彼が大泊で最初にそれを見たときは、そのすさまじさに一驚した。その驚きを次のように表現している。

樺太の人はそれを「にしんが群来(くき)てきた」と言ったが群れが押し寄せると、海面が見渡すかぎりぶくぶくとあわ立ち、雄が卵にかける精液で海が真っ白になる。漁師が網を入れて引くと、網の目に卵がびっしりとくっついて、水がもれないほど。子供たちは波打ちぎわでにしんを手づかみにする。要するに海岸一帯がにしんで埋まってしまうのである。
 そういうときには網越しといって、網を引いているところへ大きな箱を積んだ馬車がジャブジャブはいってきて、とれたにしんを箱の中にほうり込み、いっぱいになると干し場に運ぶ。干し場にはほうかむりして目だけ出した女たちがいる。出かせぎの“かずのこ抜き”だ。山のように積まれたにしんは、片端から腹をさかれ、黄色いかずのこは次から次へと袋に詰められていく。一袋いくらで働いているのだが、一シーズンの彼女たちのかせぎは、かなりの額に上ったそうだ。その季節になると、町は道といいわず軒下といわずどこへ行ってもにしんだらけ。町中にしんのにおいで充満した。

いやぁー、凄い風景ですね。子供たちは波打ち際でニシンをわしづかみにする。大きな箱を積んだ馬車がジャブジャブ海に中に乗り入れて、獲れたニシンを箱に放り込むのですから。まるで戦場のようです。人の大声や馬のイナナキが行き交っている風景です。
町中の人たちが総出でニシン漁に関わっている。これがひと月ほども続くのでしょうか?これは楽しみでもあり、家計の足しにもなるのですから大きな年中行事の一つでしょうね。
 私が昭和25年(1950)ごろの子供のとき、数の子はどんぶりに入れて出してもらっていました。ニシンが獲れすぎて、ニシンも数の子も肥料にすると聞かされ驚いていたものでした。遠い北海道のにしん豊漁のシーンはどのようなものかこれでわかりました。

魚の習性

私は瀬戸内に育ちましたから遠洋航海の漁業は知りません。
せいぜい浅瀬の海や川、池のどの場所に魚が巣を作っているか?水の流れのどこに釣り糸を垂れると魚が釣れるかなどは分かっていました。

ところが中部は、日本近海から太平洋などの遠洋漁業に出かけて、その風景や魚の習性などを詳しく書いてくれています。釣りが好きであった私にはワクワクする情報でした。

実業家。大洋漁業(現・マルハニチロ)元社長。プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。幾徳工業高等専門学校(後の神奈川工科大学)を設立するなど、教育界にも大きな功績を残した。父は林兼商店(大洋漁業の前身)創業者の中部幾次郎。

 中部は明治45年(1912)の16歳のとき、父親から朝鮮半島沿岸部全域を担当する部隊の采配を任されることになった。そのとき定置網業の最優秀の漁場は既存業者に占領されており、残った漁場は収支が合うのが三分の一しかなかったが、3~5年と改良、改良でねばった。その結果、5~10年経つといい漁場は移動するもので、かっての良漁場は衰退し彼の購入した人里離れた所や潮の速すぎた漁場が残ることとなった。そして最後には朝鮮の定置網漁場でいちばんいい所はほとんど林兼の支配下になったという。
 そして次に狙ったのがブリであった。ブリという魚は寒ブリで冬が旬でいちばんうまく、需要も多かった。定置網漁業には成功したけれど、彼の漁場には、冬にとれる所は少なかった。そのブリの最優秀の漁場は巨済島(韓国・釜山市の南西に位置し、韓国では済州島に次いで2番目に大きな島)の湾内で、十二月十日から下旬までブリの最盛期にドカドカとれていた。
 ところが、林兼の北朝鮮の漁場では夏にいちばんとれ、せいぜい秋の初めまでだった。そういうのは一尾一円程度、同じくらいの大きさでも巨済島のブリは十倍くらいの値であった。自社品を冷凍にして冬に出しても痩せていて良い商売にはならなかったという。
 そこで彼は次のように考え実行した。

夏にとったブリを十二月まで生かしておけぬものかと考えた。清津の少し北の梨津でとれたブリを洛山湾という人里離れた静かな湾まで運び、そこを網で囲って最初に一万尾ほどを放した。イワシなどの餌をやって育てていると、二貫五百ほどの夏ブリはめきめき太ってりっぱなブリになった。しめしめ、十二月の半ば過ぎにとれば大成功だと、あとを託して下関へ帰った。ところが十一月の初めに急電が飛び込んで、ブリは皆網を飛び越えて逃げてしまったと知らせてきた。残ったのは死んだやつを入れて数百尾くらいだという。おどろいてすぐ咸北の漁場の人を呼び事情をよく調べてみると、ブリには適温の限度があることがわかった。北鮮では十一月ごろになると、ブリには低すぎる水温になるのだ。逃げる一週間ほど前から元気がなくなり、餌を食べなくなったという。南の適温の海に下る習性を無視されたわけなのだ。残ったやつは網を飛び越せない弱いのばかりだったわけである。そこで次の年からは、ブリが餌を食べずおとなしくなったときに引き揚げることにした。そして年々ブリの飼育をふやしてゆき、夏にとったブリが数倍になり、業績を大いに貢献した。

 へぇー、水温と密接に関係があるのかとこの時初めて知ったのでした。そしてネットで調べてみると、「海は日変わり、時変わり」と書いてある。その真意を、魚は海水温度や塩分濃度の変化の他、餌とする甲殻類や小魚群に附けて広範囲を頻繁に移動する。又、イルカやブリなど自分を襲う天敵魚に追われて常に居場所を替える。極端な時には、日単位、時間単位のこともあると。そして長期間釣れていた魚の姿が、数日のうちに消え失せることもよくある。海水温の変化や天敵魚に追われるのも一因だが、近隣海域で甲殻類や小魚群が濃密となり、これらを狙って移動したに他ならないという。なお、その移動距離は数㌔、数十㌔先になるので漁場が変化するのは当たり前だと書いてある。

酒がおいしくなる盃

へぇー、そんな盃があるの?という思いで読みました。この盃で飲むと古来正当な酒の飲み方だと教わりました。

これは有名な若山牧水の「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけり」の、秋の夜長、ひとり静かに酒を飲み、来し方を思い人生を考える風流な飲み方でした。

熊本生まれ、東京帝大法科大学〔明治38年〕卒、大蔵省を経て、明治39年三菱合資会社に入社。諸規則の明文化、社史編纂などによる資料の整備、定年制の確立などに力を尽した。大同燐寸社長。10年日本カーバイト工業を創立、以後30年間、86歳まで社長を務めた。

 奥村は酒に関して一家言の持ち主でした。彼によると酒飲みの種類を3つに分けている。①どんな酒でも飲んで酔い、言いたいことを言い、やりたいことをやる。そうした明るい気分になるために飲む人。②酒がのどをこすって通過するとき、感触を味わうために飲む人。③最後は酒の味わいを味わう人である。そのどれがいいかは人の趣向によるもので是非はつけられないが、彼自身はこの三番目に属していた。つまり酒の味はよく味わいながら飲む酒なのであった。
 彼によると、酒の味わいというものは千差万別で、銘柄の固有の味を失わないように、また好みに合うように飲むにはおカンを何度にすればいいか、盃をどんな材料で造ったどんな形のものがいいかということなどを重要視しなければいけないという。これらが一定の条件にあれば、酒もまた一定の味を出すし、条件が変われば味も違ってくるからだ。しかし「今日、瀬戸物を作る人、料亭の人、いずれも皆さかずきについては美術的感覚のみとらわれていて、この酒にはこの形の盃がいちばんいい味を出すというようなことを考える者はまずいない」と嘆いている。そして彼の真骨頂を次のように述べている。

 私の長年のさかずき研究の結果では酒の味と最も関係があるのはさかずきの唇のあたる縁のところである。この形がくせもので、縁が外側にカーブしているものと、そうでないものでは味が違ってくるのである。しかし、一般の人はさかずきの上部がひらいていようがいまいが、そんなことお構いなしで、あいつがお酌してくれた方がうまい、といったことしか考えない人が多い。ということで、私はいろいろな種類のさかずきを集めた。戦前は五百個ほどもあったが、戦後住居を進駐軍に接収されたりして多数散逸した。

有田焼の陶芸家・酒井田柿右衛門も同じように、縁が外側にカーブしているこの盃を「私の履歴書」の担当記者に推奨していますから間違いがないのでしょう。
私も早速、縁が外側にカーブしている平らな盃を買い求め、ぬる燗で飲んでみました。確かに口に酒を含んだとき、ふわぁーと酒の香りと味が口中いっぱいに拡がります。そうかこのように酒の味をあじわいながらチビリちびりと飲むのが正統派なのだなぁと納得はできた。しかし、私は親しい仲間と好きな色や形のぐい吞みで、ワイワイと楽しみながら飲むのが好きである。仲間に全国で20人程度しかいないシニア利き酒師が居て、彼が主宰して全国各地の名酒を取り寄せ飲ませてくれる。大吟醸や吟醸酒、純米酒、本醸造酒などその種類によって、冷やしたり、吟醸酒は40度などその適温で飲ましてくれるので、酒好きの仲間たちはそれだけで幸福感を感じる。そして悪酔いしないように水も勧めてくれるだから健康にもよく楽しい会になっている。