ポール・ボルカー ぼるかー ぽーる

行政・司法

掲載時肩書元FRB議長
掲載期間2004/10/01〜2004/10/31
出身地アメリカ合衆国
生年月日1927/09/05
掲載回数30 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
米国ハーバード大学
学歴その他プリン ストン、英国留学
入社NY連銀
配偶者医師娘
主な仕事JPモルガン・チェース、財務省、FRB,ニクソン/ドル交換、プレトン、プラザ合意、NY投資銀行、長銀、世界銀行
恩師・恩人ロバート・ローザ次官
人脈R・ルービン・ジョージ・ソロス(英国で)、柏木雄介、ロックフェラー、前川春雄、行天豊雄、(ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーター、レーガン)経済顧問
備考身長193、父母:ドイツ系
論評

1927年9月5日 – 2019年12月8日)はアメリカ合衆国ニュージャージー州生まれ。経済学者。カーター、レーガン政権下(1979年 – 1987年)で第12代連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた。ロンドン大学スクール・オブ・エコノミクスフェロー。FRB議長として、アメリカを襲っていた高インフレに対処するため、政策金利を大幅に引き上げ、インフレを封じ込めた功績で知られる。ボルカー指導下のFRBは、1970年代の米国におけるスタグフレーションを巧拙は抜きにして、とにかく終わらせた業績で知られている。連邦準備制度理事会議長に就任した1979年8月より「新金融調節方式」、いわゆるボルカー・ショックと呼ばれる金融引き締め政策を断行した。

1.ケネディ政権への手伝い
ニューヨーク連銀時代の指導者だったロバート・ローザが、私を再び財務省に呼んでくれた。ダグラス・ディロン長官の下、ローザは金融担当次官を務めていた。1962年のことだ。「ニュー・フロンティア」を唱えるケネディ大統領(1961年1月)の登場で、米国と世界が変わりつつあるように見えた。実は、私は、ニュージャージー州でケネディを大統領にするためのクラブの委員長を務めていた。30歳代前半の私にとって、期待を寄せる政権で働くのは素晴らしい経験だった。若くして財務省高官に抜擢され、長官の下で活躍の機会を与えられた。
 60年代の初め、西欧や日本は戦後復興を終え、次第に国際競争力を高めつつあった。第二次世界大戦後の国際通貨制度は、金とドルの交換可能性に裏打ちされた固定相場制を基本にしていたが、ドル防衛を必要とする時代に入りつつあった。米国の国際収支が赤字になり、米国からのドル流出が問題になり出していたからだ。
 問題の根っこは、「米国からの資本流出」にある。こう考えたローザは、資本の流出に課税することを考え出した。・・「利子平衡税」である。米国外の借り手が米国内に支払う利子と配当に1%の課税を実施する内容だった。私はデービット・ティリンガ―とともに利子平衡税の草案をつくるよう命じられた。

2.金・ドル交換停止(ニクソン・ショック)
1971年に入ると、国際金融市場は風雲急を告げた。5月にかけてドイツマルクに対してドルが売り込まれた。ドイツは5月初めにマルクを変動相場制に移行させた。7月には、4~6月の我が国の貿易収支が3か月連続で赤字になったことが判明した。外貨準備高は落ち込んだ。なかでも、金準備は心理的な節目とされてきた100億ドルすれすれまで減少していた。ロンドン市場では金価格が1トロイオンス40ドル台まで上昇していた。ニューヨーク連銀の為替デスクは「英国が外貨準備として保有する30億ドルのドルを金に換えたいと通知してきた」と伝えてきた。米国と共にブレトンウッズ体制を築き上げて来た英国の行動は、金・ドル交換のゲームセットを告げる笛の音であった。 
 私はコナリー財務長官に電話し、ニクソン大統領に訴えてもらった。「このままでは、月曜日に市場で大混乱が起きる」と。ニクソン大統領は8月13日の金曜日に、キャンプデービットの大統領山荘で緊急会議を招集した。コナリー、ジョージ・シュルツ行政管理予算局長官、ポール・マクラッケン経済諮問委員会委員長、アーサー・バーンズFRB議長ら、経財運営のトップが集まった。そこには私もいた。
 金・ドル交換停止を軸にしたドル防衛策は、コナリーと共に数か月にわたって練り上げた政策で、政権内でも事前にはほとんど漏れていなかった。会議の席上、コナリーがこの内容を報告した。
 1971年8月15日(日曜)の午後9時、ニクソン大統領はホワイトハウスの執務室から、テレビで新経済政策に関する特別声明を発表した。金とドルを切り離すことは抜本的な変革だった。多大なリスクを伴う措置だったが、何とかやり遂げた。私はその激動の真っただ中にいたのである。

3.スミソニアン合意
為替調整に向け大きな進展が得られたのは、1971年11月30日と12月1日の両日、ローマで開かれた10か国蔵相会議である。会議ではコナリー財務長官が議長を務めたので、財務次官の私が米国代表として発言した。その内容は、先進国通貨の対ドル相場を、貿易加重平均ベースで、平均11%切りあげるよう求めるもので、各国別の切り上げ幅は日本が約20%、ドイツは約15%となっていた。
 焦点は、ドルに対する金価格の引き上げ問題だった。金・ドル交換停止を発表してからも、コナリーは1トロイオンス35ドルという金価格の変更を拒否し続けた。欧州勢は為替調整の前提として金価格の引き上げを求めていた。ドイツのカール・シラー経済相が「ドルが10%切り下がるなら、ドイツは12%の調整を受け入れる」と発言されたので、会議は具体的な数字を挙げた討議に入った。
そして12月17日と18日の両日、ワシントンのスミソニアン博物館でG10蔵相会議が再度開かれた。そこで生まれたスミソニアン合意では、1トロイオンス35ドルだった金価格を38ドルとし、ドルを金に対して7・89%切り下げた。その上で、円を1ドル=360円から308円に16・88%切り上げ、ドイツマルクを13%切り上げるなど、ドルと主要国通貨の多角的調整を実施した。
日本の水田三喜男蔵相は18日昼過ぎのコナリー長官との個別会談で、「円の切り上げ幅が17%未満であるならばいくらでもよい」と最も大幅な切り上げ幅を呑んだ。同行の行天豊雄(後に財務官)によれば、水田はこう語ったという。「17%は不吉な数字だ。1930年に日本が金解禁(金本位制に復帰)した際も円は17%切り下げられた。不況に陥り、金解禁を決めた蔵相は暗殺された」と。

追悼

氏は2019年12月8日に92歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2004年10月で77歳の時であった。国際金融マンとして外国からの登場は氏に続き、アラン・グリーンスパン(元FRB総裁、2008年:82歳)であり、ジャンクロード・トリシェ(前欧州銀行総裁、2014年:72歳)の3人でした。

氏はプリンストン大学の卒業論文に「物価の安定と中銀の独立が経済成長に欠かせない」と書いた実績を持つ。そしてハーバード大の大学院を卒業後に20代でニューヨーク連銀のエコノミストに起用された。その後、40歳の若さで米財務次官として国際舞台に立った。ニクソン・ショック後のスミソニアン合意の米国主役はコナリー財務長官であったが、財務次官として裏方として支えた。この舞台裏を柏木雄介(元大蔵財務官、1986年9月:69歳)がこの「履歴書」に詳細に書いてくれている。氏が格闘したのはドルという怪物だった。71年8月、ニクソン大統領は金とドルの交換を停止した。ドル相場を切り下げて貿易赤字を是正するためだ。結果として米国はドルを自在に操るフリーハンドを確保したが、この時、氏は財務次官として政策立案に直接携わったのだった。

氏は1980年代に「インフレファイター」として剛腕を発揮したが、経済成長には「物価の安定」「健全な金融」「良き政府」の3つの条件が必要と主張した。そして、米経済が10%を超える高インフレに悩んでいたとき、政策金利を20%に引き上げて「インフレ退治」を徹底し鎮圧した。しかし、現在のトランプ大統領が「物価は上がらない。ドル高是正には追加利下げが必要だ」繰り返し現FRB議長に圧力をかけている。これに対して、氏とグリーンスパンらは米紙に「政策当局がわずかなインフレを許容すれば、真のインフレを招くことなる」警告を発する寄稿を行った。この強力な中立・独立論でパウエル現FRB議長は、トランプ大統領の外圧に抗する力を得ていると思う。

ポール・ボルカー
Paul Volcker
生誕 (1927-09-05) 1927年9月5日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニュージャージー州ケープ・メイ
死没 (2019-12-08) 2019年12月8日(92歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
母校 プリンストン大学
ハーバード大学
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
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ポール・アドルフ・ボルカー・ジュニア英語: Paul Adolph Volcker、Jr.1927年9月5日 - 2019年12月8日)は、アメリカ合衆国経済学者カーターレーガン政権下(1979年 - 1987年)で第12代連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた。ロンドン大学スクール・オブ・エコノミクスフェロー。FRB議長として、アメリカを襲っていた高インフレに対処するため、政策金利を大幅に引き上げインフレを封じ込めた功績で知られる[1]

  1. ^ “ボルカー元FRB議長死去 92歳、80年代に「インフレ退治」”. 日本経済新聞. (2019年12月9日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53149960Z01C19A2MM8000/?n_cid=BMSR2P001_201912092332 2019年12月10日閲覧。 
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