桂三枝 かつら さんし

映画演劇

掲載時肩書落語家
掲載期間2012/05/01〜2012/05/31
出身地大阪府
生年月日1943/07/16
掲載回数30 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
関西大学
学歴その他市岡商業
入社小文枝入門(のちの文枝)
配偶者ラジオ番組助手
主な仕事伊勢参り修行、ヤングタウン、吉本、新婚いら、創作落語(220、古典X)、司会、舞台、映画、歌手、
恩師・恩人桂文枝師匠
人脈桂米朝、笑福亭仁鶴、月亭可朝、桂枝雀、桂文珍、立川談志、長門裕之夫妻、南部靖之、安藤忠雄、河合隼雄
備考落語に絵コンテ活用
論評

1943年7月16日 – )は大阪生まれ。落語家、タレント、司会者。上方落語の名跡『桂文枝』の当代。
師匠は3代目桂小文枝→5代目桂文枝。現在、同一司会者によるトーク番組の最長放送世界記録保持者(「新婚さんいらっしゃい!」についてギネス世界記録認定)として、記録更新中。創作落語を自作自演する作家活動も長く続けており、作品数は2020年(令和2年)で300本になった。他の落語家によって演じられるようになった演目も多い。

1,漫才から落語志向へ
テレビに感化されてか、高校では放送部に入った。下校時や昼休みに音楽を流したり、マイクを通してしゃべったりと他愛もないものだった。2年生になると、生涯の友となる岩佐朋二と出会い、演劇部に誘われ転部した。二人は漫才コンビを組み、私は笑われるのに抵抗があったので、ツッコミ役、岩佐はボケ役だった。
 先輩のコンビの舞台を見に行った。打ちのめされた。笑いを取るタイミング。パワフルなスピード感。会場の目をわしづかみにして自在に沸かせるテンポの取り方。上には上がある。私は歯が立たないと思った。
 大学一年の秋、学内で開く落語会のポスターが目に留まった。出演は「桂米朝」の文字。入場無料とあり、たまたま時間が空いていたこともあり、興味本位で会場を訪ねた。米朝師匠の落語には知的な香りがした。当時、漫才に押されて低迷していた落語を古臭く感じていた私にとって、衝撃的な出会いだった。「これだ!よしやろう!」と会場を出ると、落研の「部員募集」の立て看板が目に飛び込んできた。

2.創作落語で勝負
落語家を続ける覚悟を固めたものの、テレビ出演でのテレビ口調と古典落語口調の落差が大きく、この悩みが付きまとっていた。さらに4歳年長の桂枝雀さんの存在も脅威だった。さほど受けるネタでない作品でも爆笑落語に変えてしまう古典の鬼で、同じ向きを走ったら到底追い越せない。落語会を見渡せば当然ほぼ同じ向きを走っている。自分なりのオリジナルな笑いを追求できないかと苦しんでいた。
 ある日、桂文紅さんの新作落語「テレビ葬式」をたまたま聞いてこれだと直感。さっそく文紅さんを訪ねてネタをもらい、葬儀屋さんから聞いていた舞台裏の話を盛り込んで改造してみると受けた。なにより手ごたえがあった。自分に向いているのは現代性のある落語かもしれない。こうして「借家怪談」を「幽霊アパート」にしたり、「御膳汁粉」を「ぜんざい公社」などを自分なりの味付けで手がけたたりした。古典の作法に縛られずともいいのではないか。そう励まされている気がして、無限の前途が広がったように思えた。

3.落語専門劇場の創設
定席、いわゆる落語専門劇場の開設は、上方落語会挙げての悲願だった。戦後18人の会員しかいなかったどん底の時代ならまだしも、10倍以上の規模に成長した上方落語協会にとって、そこに行けば落語をやっているという施設は、もはや必須だった。
 私自身、手作りで落語会を企画しては公共ホールや喫茶店、ライブハウスなどの会場を押さえるのに苦労した。定席があるのとないのとで、若手が育つ環境は大いに違う。また通える定席があると、お客様にも目利き、鑑賞巧者が増える。噺家と聴き手の双方が落語界の発展を支える。
 この願いが叶い、日本3大祭りの一つ天神祭が行われる大阪天満宮の敷地の一部を無償で貸していただけることとなった。奇しくもここは吉本興業の発祥の地でもあったので、話はとんとん拍子にすすみ、建設予算は大幅に超過したものの、2006年9月16日の「天満天神繁盛亭」を開設した。オープニングでは、赤い人力車に桂春団治師匠を乗せ、私が引いて繁盛亭まで案内した。

苦労雨が美しい虹に
劣等感 笑いものになるのも
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