掲載時肩書 | 元通産次官 |
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掲載期間 | 2020/12/01〜2020/12/31 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1932/03/08 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 88 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 慶応大学工学部転校 |
入社 | 通産省 |
配偶者 | 見合:聖心女学院 |
主な仕事 | アラビア石油、和蘭駐在、大臣秘書、新日鉄設立、石油ショック、首相秘書、日米貿易摩擦、事務次官、愛知万博 |
恩師・恩人 | 大平正芳 |
人脈 | 佐橋滋、両角良彦、稲山・永野、朱鎔基、小宮隆太郎、平岩外四、大来佐武郎、牛尾治朗 |
備考 | 父:運輸省官僚 |
通産省出身で「私の履歴書」に登場したのは、両角良彦氏に次いで2番目である。省庁別登場では大蔵9(河野一之、渡辺武、柏木雄介、谷村裕、澄田智、高木文雄、長岡實、金森久雄、近藤道生)、外務6(下田武三、牛場信彦、朝海浩一郎、松永信雄、行天豊雄、松浦晃一郎)、国鉄4(十河信二、島秀雄、片柳真吉、磯崎叡)、農林2(荷見安、小倉武一)に比べて、人気官庁TOP3として、2名は少なく感じる。
1.USA国家戦略の凄さ・・・産業政策局長(日米貿易摩擦時代)
85年3月、日本の巨額の貿易黒字への米国不満が高まり、レーガン大統領は強い圧力を日本にかけてきた。同時に、米国は国家戦略を「ヤング・リポート」として世界に向けて発表した。
その内容は、情報技術の革新、情報ハイウエ―の展開、特許権の保護、人材育成の強化が柱だった。米国は同盟国日本の巨額の黒字を一方で非難しながら、同時並行で自国産業を強くする戦略を練っていた。その後も官民から国家戦略への優れたリポートが次々に出た。
日本人はそういう動きを見逃し、90年代以降、情報産業の発展に立ち遅れた。アングロサクソンは非常に戦略的な民族だ。米国はいま国を挙げて、中国に対する高いレベルの中長期戦略を練っているに違いない。
2.大平正芳氏の人柄 (大臣および首相秘書官として毎日仕える)
(1)大平大臣は人事に関してはすべて熊谷典文次官、大慈弥嘉久次官に任せ、一切介入しなかった。「役人はやる気にさせれば何でもやるからな」と信頼しておられた。
(2)大臣は大変な読書家で「半ドン」の土曜午後にはよく虎ノ門や六本木の書店に立ち寄った。「どういう本が並んでいるかで世相がわかる」といい、買い求めた本を車中で読み聞かせてくれた。
(3)文章も推敲を重ねるのが常で、丹念に赤字を入れた。「政治は文学である」という言葉を引用していた。それでいて、会合の帰りに興が乗ると車中でフランク永井の「夜霧の第二国道」を口ずさむ気さくさもあった。
(4)大臣はかねて田中角栄氏と信頼し合っていた。割烹旅館「栄家」でよく会い、二人ともすき焼きが好物。「おい角」「おい大平」と言いながら鍋をつつく。香川出身の大平さんは甘い味が好き。新潟出身の角さんは辛い味が好みだ。大平さんが砂糖をバァーと入れると、角さんが醤油をド―と足す。だんだんと濃い味になり、おかみは「あの二人のすき焼きは後を食べられたものではないわ」とあきれていた。言いたいことを本音で語り合い、無邪気に付き合う政治家の姿を初めて見た。
(5)首相はどっしりとした風貌で「鈍牛」と言われていた。発言時に「あ~う~」とよく言うと指摘されていたが、「あ~う~」を取ると、優れた文章になると評価を受けていた。国会で本会議や予算委員会の質疑のある時は、各省が用意する答弁資料が届くのは当日朝になるので、質問項目を前日に取り寄せて私邸で我々秘書官と答弁の要点を箇条書きにする。官僚の作った答弁書を棒読みするようなことはほとんどなかった。
3.新日鉄誕生の舞台裏
大平通産大臣が努力した案件が、大型合併による新日本製鉄(現・日本製鉄)の誕生である。八幡製鉄の稲山嘉寛社長、富士製鉄の永野重雄社長のこの計画に、内田忠夫氏ら当時の著名な経済学者が大反対のキャンペーンを展開した。
事務当局は「国際競争力の観点から合併を急ぐべきだ」との立場だった。大平大臣は説明を聞いて「これは是非推進すべきだ」と考え、公正取引委員会の山田精一委員長と直接交渉に臨むことになった。
69年7月、両者を仲立ちした日本興業銀行の丸の内オフィスで秘密の会談が実現した。公用車で行けばすぐ新聞記者に見つかるので、まず議員会館に入り裏でハイヤーに乗り換えた。
2回ほど会談したが、どうにかマスコミには漏れずに済んだ。公取が懸念する市場占有率が高くなる一部の品目を合併対象から外し、合意が成立した。