下田武三 しもだ たけぞう

行政・司法

掲載時肩書外務省顧問・前最高裁判事
掲載期間1977/06/26〜1977/07/26
出身地東京都
生年月日1907/04/03
掲載回数30 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社外務省
配偶者見合い1回日本女子大
主な仕事仏国、条約局、中国、ソ連、ポツダム翻訳、日ソ 国交、ソ連大使、外務次官、米国大使、沖縄返還、最高裁判事
恩師・恩人
人脈今東光・日出海、福田赳夫、前尾繫三郎、大来佐武郎、戦後の外交史、首相の特徴
備考父・文学博士(お茶の水大学教授)
論評

外交官、外務省官僚としてポツダム宣言の翻訳を初め、日米安全保障条約、沖縄返還、日米繊維交渉など、戦後の日米交渉に深く関与した。プロ野球のコミッショナーとしては、時代の求めていたプロ野球と野球界の近代化に手腕を振るった。

1.外務省の人員削減
 第二次大戦後、政府は財政困難に対処するため、各省を通じ大規模な人員削減が行われたが、中でも外務省の整理は最大のものであった。すでに領事館警察は廃止されていたが、この警察職員を含め、1万人に近かった外務職員が1500人足らずに削減され、その整理率は85%と、今日ではとうてい考えられぬような大ナタが振るわれた。当時私は会計課長に任命されており、まことに辛い仕事であった。しかし、いつかは来る外交再開の日に備えて、外交官試験合格者のみならず、中国語、ロシア語の専門家など短期間には養成し得ないスタッフは、できるだけ温存するように努めた。

2.歴代首相の思い出
(1)池田首相:一番の勉強家であった。首相就任後、国際問題の勉強に力を入れられ、毎週末、外務省から届ける外交問題資料の束を抱えて仙石原の別荘に持ち帰られた。
(2)幣原首相:勉強家として定評があった。部下の提出する英語の外交文書などは真っ赤に直されたこともある。
(3)芦田首相は、池田首相を日本式努力型の勉強家とすれば、西欧式秀才型の勉強家であった。一を聞けば百を知る、目から鼻に抜けるような物わかりの良さだった。
(4)吉田首相:あまり勉強家ではなく、肚(はら)と勘の政治家であった。しかし、最もユーモアを解し、茶目っ気の多い方であった。

3.外交官と裁判官を経験して・・・どちらも「和の作業」だと
 裁判とは、原告と被告、検察官と弁護人、民事であれ刑事であれ、裁判では両当事者の主張・利害をはかりにかけ、慎重に両者間の衡平、調和を図ることによって、正義の実現を期するものである。私の経験を要約すれば、裁判とは畢竟、人間社会の大きな調和を図る「和の作業」の一部となっている。
 一方、外交とは、往時においては自国、自民族の利益の伸張・確保一点張りで良かったのであるが、現今においてはそのような利己的な主張はもはや世界に通用しなくなっている。大局的見地に立った公平な主張が、かえってその主張の属する国の利益にも通じ、その国を国際間に重からしめるゆえんともなっている。つまり、外交もまた、国際社会に大きな「和の作業」の一部となっているのである。

4.担当記者の思い出(経済人別巻・・取材記者覚え書)から
 取材が終わった後、下田さんは「ひとつ、歌を披露しましょう」と言い、原語によるロシア民謡の「ステンカラージン」。実に堂々として、オペラ歌手も裸足で逃げ出そうという歌いっぷりであった。

しもだ たけそう
下田武三
生誕 (1907-04-03) 1907年4月3日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1995-01-22) 1995年1月22日(87歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 外交官最高裁判所判事日本野球機構コミッショナー
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下田 武三(しもだ たけそう[1]1907年4月3日 - 1995年1月22日[1])は、日本外交官外務事務次官駐米大使最高裁判所判事日本野球機構コミッショナー東京府出身。

外交官外務省官僚としてポツダム宣言翻訳を初め、日米安全保障条約沖縄返還日米繊維交渉など、戦後の日米交渉に深く関与した[2][3]。プロ野球のコミッショナーとしては、時代の求めていたプロ野球と野球界の近代化に手腕を振るった。

  1. ^ a b 朝日新聞大阪版 1995年1月23日 1面
  2. ^ “「吉田書簡」に日本側が修正要求” (日本語). 日本経済新聞. (2014年1月25日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK13009_R20C14A1000000/ 2017年3月21日閲覧。  “日米で国会答弁擦り合わせ” (日本語). 日本経済新聞. (2013年7月27日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK16007_T20C13A7000000/ 2017年3月21日閲覧。  “重光のウソを基礎に核拒否を閣議決定” (日本語). 日本経済新聞. (2015年6月13日). http://www.nikkei.com/article/DGXMZO87592120S5A600C1I10000/ 2017年3月21日閲覧。  “大使たちの戦後日米関係 千々和泰明著” (日本語). 日本経済新聞. (2012年8月7日). http://www.nikkei.com/article/DGXDZO44564060U2A800C1MZC001/ 2017年3月21日閲覧。  “NPT署名の前年に慎重論 対ソ交渉にらむ” (日本語). 日本経済新聞. (2012年2月15日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1503L_V10C12A2PE8000/ 2017年3月21日閲覧。  “佐藤長期政権を要職で支える” (日本語). 日本経済新聞. (2011年10月23日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK17027_Y1A011C1000000/?df=3 2017年3月21日閲覧。  “核をめぐって日米すれ違い” (日本語). 日本経済新聞. (2016年1月2日). http://www.nikkei.com/article/DGXMZO95526090V21C15A2I10000/ 2017年3月21日閲覧。  “佐藤元首相、繊維でも密約 官僚知らず交渉頓挫” (日本語). 日本経済新聞. (2010年11月26日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS26027_W0A121C1PE8000/ 2017年3月21日閲覧。  “沖縄返還の財政密約、米要求は6.5億ドル 外交文書” (日本語). 日本経済新聞. (2011年2月18日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS17026_Y1A210C1000000/ 2017年3月21日閲覧。 
  3. ^ 沖縄の核Ⅱ - 原子力時代の死角 - 特別連載 - 47NEWS(よんななニュース)
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