片柳真吉 かたやなぎ しんきち

行政・司法

掲載時肩書農林中央金庫顧問
掲載期間1981/10/13〜1981/11/08
出身地東京都
生年月日1905/03/25
掲載回数27 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他水戸高
入社農林省
配偶者学友妹
主な仕事秋田、(米、漁業、林業、食糧)担当、米穀配給制度、食管法、45歳次官退官、参議員、全漁連会長、農林中央金庫
恩師・恩人
人脈川合玉堂、水戸高(赤城、江戸、法華津、舟橋、水田)、東畑四郎、小倉武一、伊藤正義
備考代々神官 、釣り、俳句
論評

1905年3月25日 – 1988年6月8日)は東京生まれ。農林官僚、政治家。貿易庁輸入局長、食糧管理局長官を務めたのちに、1948年、農林次官に就任。1950年に農林省を退官し、同年に実施された第2回参議院議員通常選挙で緑風会所属として立候補し、当選。1956年の第4回参議院議員通常選挙で落選し議席を失ってからは、全国漁業協同組合長、農林中央金庫理事長といった職を歴任した。

1.食糧管理制度の発足
昭和14年(1939)の内地のコメ生産量は、6896万石で、平年作は6300万石であったから、史上第2位の大豊作であった。ところが朝鮮の米が干ばつのため大減収となり、今まで阪神地帯に移入させていた1千万石内外のものが入ってこなくなり、内地は大豊作というのに、米の配給は大混乱という異常な事態に陥ったのである。調べてみると、大豊作直後の配給混乱の原因は、生産地と消費地との取引が全く自由になっていないこと、さらに産業組合(現在の農協組合)の共販体制がしっかり確立されていなかったことだった。
 そこで、昭和16年6月、まず、試行錯誤の意味も含め麦類配給統制規則が農林省単独の省令として公布され、続いて同年8月、臨時米穀配給統制規則が制定された。これが、食糧管理法制定の源である。

2.終戦前の食糧事情
昭和18年(1943)11月、農林省は農商省に、商工省は軍需省に改称され、私は食糧管理局長になった。同20年になり内田信也大臣から呼ばれ、食糧事情をつぶさに聞かれた。そうして、大臣はその窮迫さの極を知り、戦争終結の肚を固められたという。3,5月に東京は大空襲を受け、6月には沖縄が失陥するに至った。7月から、主食の配膳量は1割減、基準は一人一日当たり2合1勺になった。
 食糧管理局は、官庁分散の方針に従い、上野の精養軒に移り、公園の土手に防空壕を築いたりした。しかし、広島、長崎に原子爆弾が投下されるに及んで、ついに8月15日の終戦となったのである。太平洋戦争の初めから終わりまで、陸海軍の軍用米を調達するとともに、銃後の国民の食糧を守らなければならなかった立場、それを顧みれば、終戦の詔勅は感無量であった。供出面では、農家、各県知事に随分無理をかけた。消費者には、半搗米や代替食糧の配給、最後は配給基準量まで削減してご迷惑をかけた。それらへのお詫びの気持ちでいっぱいになった。

3.食糧不足・・・GHQを説得し輸入
終戦直後の昭和20年(1945)から、誠に惨憺たる食糧不足が続いた。配給制度はあるものの、遅配、欠配がほぼ全国的に起こり、しかも2合5勺の配給量(約千キロカロリー)では、カロリーの面で最低必要カロリーの65%に過ぎず、魚、野菜類不十分で、国民の食生活はまさに悲惨の一語に尽きるものであった。
 都市生活者は、いわゆる“売り食い”、自分の衣料家財を持ち出して農村への買い出しに殺到した。今日のような食生活が豊かで、米は余り、牛乳も生産過剰という時代に育った人には、想像もつかないだろう。戦後の、輸入食糧の計画的放出は、昭和21年5月からであるが、それより先、20年11月に初めて輸入食糧の放出があった。これは、米軍が太平洋の諸島で保有していた箱入りの詰め合わせ食糧で、数量的には大したものではなかったが、乾パン、ビスケット、缶詰め等のほか、タバコ、コーヒーなどが入っており、飲用水の缶詰まであったのには驚かされた。
 5月以降は、毎月輸入食糧の放出が行われ、21年米穀年度末の10月までの放出量は米穀換算59万トン余に及び、その配給は全国にわたった。放出は、トウモロコシ、マイロ、缶詰等で、小麦は少なかった。その頃は遅配が深刻だったため、太平洋の輸送途上にある分まで放出計画に計上し、配給指令をだしたものである。こんな具合で、輸入食糧の援助と21年産米の早期供出、甘藷の代替配給などで何とか乗り切った。

片柳 真吉(片柳 眞吉[1]、かたやなぎ しんきち、1905年3月25日 - 1988年6月8日)は、日本農林官僚政治家参議院議員(1期)、農林中央金庫理事長。

  1. ^ 『官報』第18401号10-11頁 昭和63年6月25日号
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