長岡實 ながおか みのる

行政・司法

掲載時肩書元東証理事長
掲載期間2004/04/01〜2004/04/30
出身地東京都
生年月日1924/05/16
掲載回数
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社大蔵
配偶者医学部 教授娘
主な仕事主計局、公団住宅、日銀と人事交流(福 井)、経済企画庁、専売公社、東証、公安長
恩師・恩人
人脈豊田章一郎(一中)三重野康・大倉真隆 (一高)伊藤栄樹、三島由紀夫、石本美由紀
備考忠犬ハチ公
論評

1924年5月16日 – 2018年4月2日)は東京生まれ。日本の官僚。大蔵事務次官。大平内閣の不信任決議案可決と引き続いた“四十日抗争”のさなか、大平正芳急逝の五日後に大蔵事務次官を退任。1981年(昭和56年)7月、日本専売公社副総裁就任。まもなくして総裁に昇格し、専売公社が日本たばこ産業 (JT) として株式会社化した時には初代社長として立ち会う。その後大蔵次官経験者の指定席であった東京証券取引所理事長に就任する。

1.同期入省・三島由紀夫
昭和22年(1947)年末に大蔵省の同期生として知り合った三島由紀夫の役員生活は9か月間に過ぎない。あの衝撃的な自決を遂げるまでの間、私は同期生の間で彼との接触が最も多かった一人だと思う。父親同士が一高の同窓で共に官僚だったこと、彼の妹や弟が私の二人の弟と渋谷の大向小学校で同期生だったこと。お互いの家庭環境がかなり似通っていたことも、親しくなった理由の一つかもしれない。松濤のお宅にもよく遊びに行った。
 行政官兼作家の生活は無理なので大蔵省を辞めるよ、と私のところに来たのは昭和23年(1948)の夏も終わるころだった。もちろん慰留したが、9月に大蔵省を去った。そのまま残っていたら、三島文学は生れ出なかったかもしれない。44年、私は本省の秘書課長だった。秋に大蔵省百周年式典があった。記念公演はぜひ三島由紀夫を、という要望が多く寄せられていた。そのころ彼が講演依頼をほとんど断っていたのを承知の上で電話したら、快諾してくれた。大蔵省の講堂で1時間半近く面白い話をしてくれた。謝礼は1万円、手取り9千円だった。自決の1年ほど前のことである。

2.名神高速道路の建設
昭和30年(1950)、政府は「第一次道路整備5か年計画」を策定した。ときを同じくしてガソリン税という道路特定財源ができる。しかし、国は高速道路を建設するのに十分な金も人も持っていなかった。日本道路公団の新設はこうした状況の中で決まった。
 日本住宅公団のときと同様に、国の資金運用部資金を借りることにした。建設箇所は自動車で貨物輸送をする可能性が高いということで「名古屋―神戸」が最有力候補になった。名神高速道路である。当時は日本に高速道路はなく、公共事業の主役が治山治水から道路重視に移る時期だった。建設省道路局の定員は100人にも満たなかった。他局の定員を減らしてでも道路局の陣容を厚くする必要性を実感した。
 名神高速は世界銀行の借款の対象にすることも考慮して採択された。他の世銀借款事業を含めて立派に成し遂げ、借金をきちんと返していけば、日本は国際的な信用が得られ、国際通貨基金(IMF)八条国にもなれるだろうという考えが大蔵省にあった。IMF八条国になれば自由な為替取引が可能になる。39年4月、日本は八条国になった。

3.日銀と人事交流
秘書課長時代のある日、一高で同期だった三重野康君がやってきた。日本銀行の人事部次長だった彼は、大蔵省との人事交流をやりたいと相談を持ち掛けてきたのだ。「日銀は中央銀行として政府からの独立を旨としているが、円滑な金融行政には相互理解が大切だ。旧制高校や軍隊での共同生活を経験するなどして、気心が知れている者がお互いの組織にいる間はともかく、時代は推移している」という話だ。
 同感だった。早速、出向者を受け入れた。福井俊彦現総裁も初期の出向者だ。大蔵省から日銀への出向は数年遅れて実現した。

4.日本たばこ産業
かっての日本専売公社はいま、日本たばこ産業(JT)として東証一部上場の大きな企業に育っている。だが、民営化に至る道は平坦ではなかった。まず、葉たばこ耕作農業の問題があった。いまでこそ耕作面積も農家の戸数も減っているが、副総裁に就任した当時は耕作面積約5万9千ヘクタール、耕作農家約10万4千戸。専売制度の下で葉たばこは全量買い上げだった。公社は民営化すれば安い外国産葉の流入で日本の葉たばこ農業は壊滅すると、約10万の組合員を擁する全国たばこ耕作組合中央会の黒木重男会長をはじめ関係者は猛反対だった。政治勢力も農家を強く支持していた。
 公社の職員数は約3万9千人、たばこ工場は全国に37か所を数えた。合理化を推し進めていたが、労働組合にしてみれば今後の不安は大きかった。私たちは耕作団体や労働幹部らと懸命に話し合い、自民党専売特別委員会の議員との会合も頻繁に開いて検討を重ねた。土光臨調の部会からも説明を求められた。
 いろいろ紆余曲折はあったが、昭和59年(1984)3月に、①葉たばこは全量を買い上げとする、②耕作面積や買上げ価格を決めるための審議会を設置する、③専売納付金はたばこ消費税にする、④新会社は全額を政府出資の株式会社とし将来も株式の一定割合を政府が保有する、などの方針が決まった。
 60年4月1日に「日本たばこ産業株式会社」が誕生した。初代社長に私が、副社長には石井忠順君が就いた。

追悼

氏は’18年4月2日、93歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2004年4月の80歳のときでした。昭和22年(1947)東大卒、大蔵省入省。同54年(1979)大蔵事務次官。同57年(1982)日本専売公社総裁。同60年(1985)日本たばこ初代社長。同63年(1988)東証理事長など。
氏は三島由紀夫と大蔵省同期だった。父親同士が一高の同窓で、三島の妹や弟が長岡の二人の弟と渋谷の大向小学校の同期生というお互いの家庭環境が似通っていたから、晩年まで親しく付き合ったと書いている。

氏は、昭和19年(1944)9月、築地の海軍経理学校の現役主計科士官に合格。半年間で即席の海軍士官に養成されたから、訓練は相当に厳しかった。学業のほかカッター、相撲、駆け足などもあった。雪の日のカッター訓練は苦しかったが、食事の内容も日に日に悪くなっていった。そして昭和20年(1945)4月1日に愛知県明治村にある海軍航空基地に配属され、管理部門の中枢である文書課長兼秘書課長の仕事に就いた。当時のやるせない気持ちを次のように記している。

六月一日、少尉に任官した。沖縄方面への特別攻撃隊がわが隊から出撃するようになっていた。私は帽子を目いっぱい振って見送った。帰還する飛行機は皆無だった。
特攻隊。出陣前夜は酒保からお酒の特配をした。副官部の私の部屋がある隊舎の隣の隊舎で、最後の宴が開かれている。初めは勇ましい軍歌、続いて酒席でよく歌うような流行歌が聞こえてくる。そして最後に、どの隊員も「雨々降れ降れ母さんが・・・」などと童謡を歌って灯が消えるのだった。(日本経済新聞2004.4.8)

最初は勇ましい軍歌、しかし最後の歌は、どの隊員も「雨々降れ降れ母さんが・・・」を歌ったという。特に「母さん・・」の言葉に心を込めて歌ったはずだ。幼き日の思い出と感謝とお詫びが交錯して、きっと涙声になったことでしょう。このシーンを思い出すだけで胸にジーンときます。

長岡 実(ながおか みのる、1924年大正13年〉5月16日 - 2018年平成30年〉4月2日[1])は、日本官僚大蔵事務次官東京証券取引所理事長。

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