両角良彦 もろずみ よしひこ

行政・司法

掲載時肩書総合エネルギー調査会長
掲載期間1996/03/01〜1996/03/31
出身地新潟県
生年月日1919/10/04
掲載回数30 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社商工省
配偶者酒造娘(家政学院)
主な仕事独占禁止法、結核3度入院、パリ赴任、繊維通商問題、石油開発公団、電源開発、石油探索会社、日銀政策員
恩師・恩人佐橋滋
人脈中村真一郎(一高)金森久雄、松下幸之助、竹内道雄、来栖弘臣(パリ)、田中角栄、相沢英之
備考ナポレオン研究、母・歌人
論評

1919年10月4日 – 2017年8月11日)は新潟県生まれ。官僚。1971年、第3次佐藤内閣時代に通産事務次官に就任。日米繊維交渉の輸出自主規制の是非にあたる。田中角栄通産大臣時代から、部下であった豊島格(資源エネルギー庁長官)らと共に、田中角栄、田中清玄らと日本独自の資源獲得の意味合いからインドネシアの石油利権獲得に動いたことでも知られる。1975年、電源開発総裁。ナポレオン研究家。

1.仏国駐在大使館に赴任
1957年(昭和32)11月末、パリの大使館に赴任した。ここは住宅街の奥まった一区画で、午後になるとどこかの窓からピアノの音が漏れてきたりした。大使は古垣鉄郎氏で、公使、参事官を含め大使館の陣容は20人ほどだったろうか。書記官では本職の外交官の他に、私のような他省出向者がいて、大蔵省の稲村光一(元財務官)、後に竹内道雄(元次官)、警察庁の山本鎮彦(元長官)、防衛庁の来栖弘臣(元統幕長)といった俊秀諸兄が揃っており、貴重な交遊の機会に恵まれた。
 私が担当した商務官の仕事は、先方の対外経済省との交渉、商談の斡旋、各種会議への出席などである。当時の日仏貿易は、仏国からは主に工作機械、絹織物、香水原料などを輸入し、こちらからはカメラ、ショウガ、ショウノウ、蚕種などを輸出するという、まことに古風、低調な内容だった。

2.国際競争力を高める構想を
1962年(昭和37)、パリから本省に戻ると、企業局第一課長に就任した。企業局は各産業に共通の問題、例えば、金融、税制、立地といった仕事を担当し、第一課というのはその総括の部署である。
 当時の企業局長は佐橋滋氏(元次官)で、後に「異色官僚」として鳴らした、愛すべき野人とでも表したい御仁であった。その頃、企業第一課は重要な宿題を突き付けられていた。簡単に言えば、貿易や資本の自由化を進める前提として、いかにしてわが国企業の国際競争力を遜色ないまでに高めるかであって、しかもこれにはタイムリミットが付いていた。
 我々が日本産業の弱点として自認したのは過当競争と過小規模であり、まずその実態を見極めねばならない。例えば耐久消費財の頻繁なモデルチエンジは、一見すると営業の繁栄に見えるかも知れないが、本当は消費者利益とは結び付かない無意味な重複投資が多い。企業規模にしても、欧米並みの規模の利益を享受しているものは極めてわずかであった。ここから導かれる常識的な命題は、経営者に過当競争を回避し、規模の利益を追求するように仕向けるにはどうすればよいかということである。
 私は一つのヒントを思い出した。滞仏中にル・モンド紙で見た「協調経済」と題する小論である。それによると、今日の国民経済の主体は政府、企業、銀行、組合、消費者など多様となっている。経済全体の賢明な運営のためには、企業間に競争さえあれば良いというのではなく、これら異種の主体の間で相互に透明な協力関係を意識することが望ましいという。いわば音楽のコンサートと一緒で、巧みな合奏が求められる。それには楽譜と同じような役目を果たす共通の情報が提供されなければならない。
 我々は企業の周辺環境、即ち産業体制をこのような構想に即して考えてみてはどうかという提案を産業体制部会に諮ってみた。部会長は有澤廣巳東大名誉教授であり、中山素平氏ら会員も活発に討論した。そして10か月余りの作業を経て、「新産業秩序構想」と題する一つの結論に達した。この中には方法論としての協調経済の考え方も一部採用されるようになった。

3.ニクソン大統領から晩餐会に招かれる
1973年、第四次中東戦争を機に、オイルショックが発生した。このオイルショックに対処するため、キッシンジャー国務長官は翌年の2月、ワシントンで石油消費国会議を開催した。わが国の首席代表は大平正芳外相であり、私も政府代表として随行した。結果として消費国側の緊密な結束を示し対処するとなった。
 会議を終えた夜、各国代表はニクソン大統領からホワイトハウスでの晩餐会に招かれた。私はいささか硬くなって車を降り、邸内に入ると、制服に身を固めたウェストポイントの学生たちが階上へと案内してくれた。いずれも容姿端麗、礼儀正しく、実に好感の持てる青年士官ばかりだった。
 案内された広間で列席者一同が談笑しているところへ衛士が現れ、杖でコツコツと床を叩く。「アメリカ合州国大統領閣下」と声高に告げると、その後ろの廊下からニクソン氏が無造作に入ってきた。そしてにこやかに列席者に握手して回る。その掌の感触が思いのほかに柔らかかったのを思い出す。
 宴半ばで20人ばかりの兵士たちが入ってきて、壁を背に整列する。やおら無伴奏の低音ハーモニーで唄い始め、「庭の千草」やら「オールド・ケンタッキー・ホーム」などお馴染みの民謡を数曲聞かせてくれた。石油消費国会議と称する生真面目な会合には、このような演出がふさわしいかもしれないと私は妙に得心して、引き揚げた。

追悼

氏は’17年8月11日に97歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は1996年3月77歳の時であった。氏が有名なのは、上司の佐橋滋企業局長と取り組んだ、特定産業振興臨時措置法案(特振法案)を作りその成立に奔走したことだ。これは日本の資本自由化に備え国際競争力を政府主導で確保することを目的として、1962年(昭和37年)に「新産業秩序の形成」を謳い文句に各界の反対(特に自動車メーカーの反対が強かったとされる)に遭い、審議未了で廃案となった。しかし、その精神は、官民協調方式と体制金融というかたちで、その後長い間、日本の経済政策の根幹となっている。(これが城山三郎の小説「官僚の夏」の主要モデルとなった)

氏は、ナポレオンの研究家として文筆活動も行い、81年に「1812年の雪―モスクワからの敗走」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。この「履歴書」の執筆も洒脱で明快であり、本人が書いているように思われる。そのひとつ、田中角栄について次のように書いている。
通産省事務次官に就任して半月足らずで、田中角栄大臣の登場となった。大臣は幹部職員を前にして、自分は若くして郵政大臣を務め、その後建設、大蔵など大臣経験を重ねてきたが、今日ほど満足なことはない。というのは、これまで事務次官は自分より年長だったのに、このたび初めて年下の次官を得たからである。これで名実ともに大臣になったと実感を味わっている。当時私は52歳、田中大臣はまさしく私より1歳年長だったと。

氏は田中大臣に仕えるうちに次第にその人柄に魅了され、政策論でも感心するようになった。それは独特な発想法で、一つの庭園を造るのに、官僚なら図面を先に引いて、それに合う材料を揃えるのに、大臣は逆に手あたり次第の素材を用い、いつの間にか遜色のない出来栄えに仕上げてしまう。つまりわれわれの演繹的なやり方に対し、大臣のそれは帰納法的であり、現実的であって、そこが私には勉強になったと。

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