掲載時肩書 | JXホールディングス相談役 |
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掲載期間 | 2013/04/01〜2013/04/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1936/10/13 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 成城 |
入社 | 日本石油 |
配偶者 | 見合 |
主な仕事 | 新潟で技術、ブルースカイ計画、組合副委員長、日石三菱、エネゴリくん、JXHD,水素燃料電池、4人会 |
恩師・恩人 | 岡田一幸 仲人 |
人脈 | 山本登ゼミ、矢内原勝、島村宣伸(4上)、木村康、関正夫、藤田田、西尾進路、重久吉弘、張富士夫、草刈隆郎、矢崎裕彦 |
備考 | 見合い:1日3回 |
1936年(昭和11年)10月13日 – 2020年 (令和2年) 12月24日 )は、日本の実業家。日本石油副社長、日石三菱社長、新日本石油代表取締役社長・会長、JXホールディングス相談役。社団法人日本経済団体連合会副会長、石油連盟会長、第33期慶應義塾評議員、日本赤十字社理事、日本経団連評議員会議長(第5代)などを歴任。社名等にも関連して「新日本石油の生みの親」といわれる。いままでの石油業界からの登場者は、出光佐三氏(出光)、栗田淳一氏(日本石油)、池田亀三郎氏(三菱油化)、和田完二氏(丸善)、三村起一氏(石油資源開発)、中山善郎氏(コスモ)、八城政基(エッソ)なので渡氏は8番目に当たる。
1.新人で現場熟知が将来に
掲載の中で特に印象に残ったのは、新人のときの配属先が本社でなく新潟だったので落胆が激しかった。しかし、このときに生産現場を見て回り、ヘルメットをかぶり、原油をガソリンや重油に分けるトッパ―(常圧蒸留装置)に潜り込み、石油製品のできるまでを身をもって実地に学んだことが将来の布石になった。現場を知ることが将来の自分の財産となると語っていた。
2.後継者指名
ニヤリとしたのは、社長の後任として自分は営業畑だったので経理畑出身の西尾進路氏を選んだ。これはバランス感覚として良いが、「彼は支店経験もあり、顔に似合わず繊細で」と書いてあったことだ。西尾氏は私(吉田)の関与する財団の副会長を務めてくれているため、同情することしきりでした。
氏は‘20年12月24日に84歳で亡くなった。この「私の履歴書」に登場は’13年4月の77歳のときでした。氏の「履歴書」を読むと、豪放でありながら緻密、ユーモアの持ち主でした。
1.見合い結婚(1日3回、30歳)
夏休みや正月に大阪から東京の実家に帰るたびに、「早く嫁を貰え」と両親がうるさい。そういう時期なのだろう。見合いの話がたくさん来た。1日に3回も見合いをしたことがある。その中の一人が家内の新子である。双方、母親同伴で会った。家内の母親はかっぷくのいいどっしりした人だ。このお母さんなら娘も間違いないだろうと決断した。
結婚式は66年10月30日、旧東京ヒルトンホテルで挙げた。私が30歳、新子が26歳である。新婚旅行はたっぷり一週間かけた。しかし以後、仕事優先で家庭を顧みず、ほったらかしにしたことを懺悔しなければならない。
2.多忙極め劇症肝炎に(39歳で入院、1年棒に振る)
労働組合の本社支部副委員長で賃上げ交渉のリーダーを務め、ガソリン担当の係長でも忙しく、生活はめちゃくちゃだった。毎夜2時、3時に帰宅して、ジャンボサイズのウイスキーを1週間で空にするほどあおって寝た。あさ9時ごろ起きて会社に行くが、時には本社近くのサウナに直行して仮眠した。
ある日、仲間と酒を飲みに行ったが、体が酒を受け付けない。体がだるいと思ったら、小便が真っ茶色で、ぎょっとした。そのうち大便が真っ白になった。病院に行くと劇症肝炎と診断され、即刻入院となった。この病気は安静しか治療法がない。当初一か月くらいで治ると思っていたが、年を越して10日もたつと、簡単に治らないと判り、その深刻さに気づいた。
走りづめでギンギラギンの人生を送ってきたのに寝ているしかない。39歳にして、おれは終わったなと絶望感にさいなまれた。ようやく達観すると、こうなったら本でも読んでやろうかと決心した。あのころ、左右1・5だった視力が一気に悪くなるほど、人生で一番本を読んだと思う。
2か月くらいで退院しても自宅療養である。4月から出勤したが、まだ仕事は無理で新聞を読んで早めに帰るような毎日だった。そんな時に、常務の岡田一幸さんと顔を合わせたら「人生は長い。君はまだ若いから、1年や2年は全く関係ないよ」と声をかけてくれた。この励ましは心にしみた。
病気で1年遅れて、もういいかげんに生きていこうと一瞬すねた時もある。しかし、後ろ向きなことは性格が許さない。どんな逆境でも最善の道を探そうとする。ポストへのこだわりは病気したおかげで消えた。人が何と思おうと、会社のために正しいことは主張しよう。開き直りの人生が始まった。
3.余技は小唄とカラオケ
日本石油には小唄派と長唄派があって、小唄派は建内保興会長が率いて人事労務畑の人が多かった。長唄派は営業関係で、仲人をしてくれた岡田一幸さんや尊敬する松浦達也さん、直属上司の野田進一郎さんがいた。
営業畑のお三方から長唄をやれと誘われたが、文字通り長いので特約店との宴席でやるのはどうかなと思い、小唄派に入った。営業のトップの人に楯突いたようなものだ。最近はもっぱらカラオケ派で演歌だ。この師匠は社長をされた岩本賢太郎さんで、歌詞を見ないで歌えと厳しかった。
わたり ふみあき 渡 文明 | |
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生誕 | 1936年10月3日 大日本帝国 東京都 |
死没 | 2020年12月24日(84歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学経済学部経済学科 |
職業 | 石油実業家 |
受賞 | 従三位(2020年) 旭日大綬章(2014年) 内閣総理大臣発明賞(2007年) ルーマニア国家勲章(2008年) |
渡 文明(わたり ふみあき、1936年(昭和11年)10月13日 - 2020年 (令和2年) 12月24日 )は、日本の実業家。従三位。日本石油副社長、日石三菱社長、新日本石油代表取締役社長・会長、JXホールディングス相談役。社団法人日本経済団体連合会副会長、石油連盟会長、第33期慶應義塾評議員、日本赤十字社理事、日本経団連評議員会議長(第5代)などを歴任。社名等にも関連して「新日本石油の生みの親」といわれる[誰によって?]。