栗田淳一 くりた じゅんいち

石油・石炭

掲載時肩書日石社長
掲載期間1959/03/17〜1959/04/12
出身地山口県宇部
生年月日1888/05/17
掲載回数27 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他五高
入社高輪中学
配偶者大尉友人娘
主な仕事催眠術師、新聞発行、カルピス、宝田石油(会長:津下紋太郎)、日本石油(合同する)、東京タンカー
恩師・恩人三島海雲
人脈大川周明(五高)、杉村楚人冠、奈良山林王:土倉龍次郎、倉田主税、大久保武雄
備考家住職、三人称記述(自分を淳または彼)
論評

明治21(1888)年5月17日―昭和40(1965)年12月18日、山口県生まれ。実業家。中学校教員、小国民新聞記者、ラクトー(のちのカルピス食品工業)社員を経て、大正8年宝田石油に入った。10年日本石油との合併で設立の日本石油株式会社に転じ、秘書、人事部に勤め、昭和17年取締役、21年常務、22年専務、26年副社長、33年社長、36年会長となった。石油連盟会長、経団連常任理事も兼ねた。

1.卒業式に明治大帝の臨席
明治44年(1911)の初夏東大では明治大帝を迎えて卒業式が行われた。今の安田講堂などない時代だったので、式場は図書館の閲覧室に設けられた。淳は最前列の右端に立った。大帝は彼の傍を左折して中央の壇上に進み、静かに着座された。そして式の終わるまでただもう端然として身じろぎ一つされるでもなく一語を発せられるでもなかった。でも淳は光栄だった。淳のみではない。当時の学生はことごとくそうだったと思う。“不逞の輩(やから)”などほとんど一人もいなかった。

2.三島海雲師を訪ねる
大正4年(1915)、淳が数えて28歳の秋、高輪中学の教務幹事、事務幹事の役職をはく奪された。これを不満に思い教職員を辞めることにした。浪人中のある日、淳は友人の中村君とともに神田の神保町あたりを歩いていた。そのとき談たまたま三島海雲先生のことに及び、どうだ、先生はそこにいるから訪ねてみようかということになった。中村君は朝日新聞にいたころ、淳が数回にわたって三島先生を紹介したことがある。先生と中村君との交遊は杉村楚人冠を介してのものだった。先生と淳とは師弟関係である。山口の開導教校(中学)で、淳は先生から英語を教わった。
訪ねると先生は九段下なる長谷川病院の病棟3階の一室で、乳酸菌の研究に没頭していた。病人でもない者が、どうして病棟の一室に仮寓しているのか、一見奇異の感もするが、それは先生と長谷川院長がともに新仏教徒同志会の仲間だったからである。会ってみると、すでに10数年の歳月は流れていたが、先生は淳を覚えていた。先生は牛乳からとったクリームの乳酸発酵したものに砂糖を混ぜてもてなしてくれた。

3.カルピス(当時ラクト-)会社に入社(三島先生の紹介で)
この会社は、三島先生の乳酸菌食普及の念願に基づいて創立されたものである。当時(1916)、会長は津下紋太郎(宝田石油専務)、社長安東守男(元日本鉄道専務)、工場長三島海雲(現社長)という陣容で、淳は広告係だった。多分に泥縄式ではあったが、早速、広告心理学の本も読んだ。その頃カルピス会社の製品というのは、カルピスではなくて、醍醐味とラクト-・キャラメルだった。
 津下社長は毎週1回出社した。ある日、淳が広告のキャッチ・フレーズに苦心していたとき、会長から呼び出された。会長は言った「君、広告の文句は寝た時に考えりゃええだろう。販売でも、庶務でも、何でもやれ!」。淳は知己の感を深くした。それからの淳は、あたかも支配人のように、一切の仕事に手を出した。早速、キャラメルの見本をもって問屋回りをした。しかし、京橋の大店を訪ね俥から降りて、「こんにちわ」と言ってみたが、開業早々の豆腐屋のふれ声みたいに、それは喉の奥に吸い込まれてしまった。

4.石油の価格構成
淳は昭和27年(1952)の初秋、出生以来初めての洋行をした。前年つくった日本石油精製の別動隊であり、淳が社長をしている東京タンカーの船腹増強が目的だった。石油の価格を分析すると、運賃がその半ばを占める。ことに運賃高のときなど、それは石油価格の三分の二にも達する。したがってタンカー・フレートは石油会社の運命を左右するほどの重要性を持つ。この考えが船腹の増強を決意させ、これをニューヨークのカルテックス本社に懇請しようとしたのである。

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