掲載時肩書 | 三菱油化社長 |
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掲載期間 | 1960/12/12〜1960/12/31 |
出身地 | 山形県酒田 |
生年月日 | 1884/05/21 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 三菱合資石炭 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 三菱石油、日本タール工業>日本化成>三菱化成,武田化成(合弁)→吉富 、旭硝子、三菱レイヨン、武田化成>吉富、石油化学協会、日本合成ゴム |
恩師・恩人 | 岩崎小彌太 |
人脈 | 山田三次郎、武者小路公共、武田長兵衛、高崎達之助、山下太郎、加藤弁三郎、石橋正二郎 |
備考 | 石油コンビナートの有効利用 |
1884年(明治17年)5月2日 – 1977年(昭和52年)4月2日)は山形県生まれ。技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、石油化学工業協会会長を務めた。三菱合資入社し、三菱鉱業技師長や、三菱鉱業取締役を経て、1939年に山田三次郎が死去すると後任の日本化成工業社長に就任。1943年からは旭硝子社長も務め、1944年には旭硝子と日本化成工業の合併による三菱化成工業の設立にあたった。1944年旭化学工業奨励会理事長。
1.三菱油化の設立までの経緯
1945年の戦後、三菱化成が経済力集中排除法によって三菱レイヨン、旭硝子、三菱化成と3つに分割された。三菱油化の設立に絡まる事情も説明しておきたいと思う。
もともと私は東大冶金科を出てから石炭掘りをしていた。そしてそこで感じたことは、石炭をボイラーで燃焼しているばかりではもったいないから、どうしても石炭化学に持っていかねばならんと考え、やがて日本タールの設立になった。それから丁度10年にして終戦になった。環境から条件まで、ガラリと変わってしまった。それで私は同じ燃料である石油というものを考えた。石油は需要量の98%を輸入している。それゆえに、その石油を対象にした化学工業を興し、その付加価値を高める必要性があると考えた。幸いにも私は昭和6年(1931)三菱石油の創立に関係し、終戦まで取締役をしていたので多少石油の知識があった。
終戦後さらに10年にして自分が石油化学に取り組むことになった。三菱グループとしては旧四日市燃料廠を狙い、ときの通産大臣だった高橋龍太郎氏の内諾も得ていたが、そのうち内閣も変わりその他複雑な事情があってこの計画がダメになり、既存の石油精製9社合同という形になった。
ところが9社合同も実現するに至らず、昭和石油とシェルが75%、三菱グループ25%という比率で昭和四日市石油をつくることになった。この会社ができる前に、三菱グループはシェルとの間に石油化学について話し合ったが、なかなかうまく進まなかった。それが、四日市の設立を契機に、今度は逆に三菱グループ75%、昭和・シェル25%という比率で三菱油化ができたのである。
2.石油コンビナートの効率化提言
昭和31年(1956)4月、私は三菱系グループの協力を得て本格的に石油化学事業に踏み切った。シェル社と提携し年間2万2千トンのエチレン工場を四日市につくるため三菱油化社が発足した。石油化学に限らず一般に装置工業は、そのスケールが大きくなればなるほどコストの面で有利になる。従ってそこから、大量販売という問題が大きく浮かび上がってくる。日本でも、狭い市場をこれからどう広げていくか、さらに進んで外国にも輸出するということが今後の大きな課題になろう。大体装置工業にあっては、その実働率が60%でも人件費はじめ固定費はフル稼働の場合と同じだから、どうしても販売面の拡大が問題となる。
日本ではどうも工場分散乱立の傾向が目立つ。今日では石油化学工場と石油精製工場が同じ場所にあった方がいいのはいうまでもない。これが今コンビナートという形となって現れているわけだが、このコンビナートは石油化学の過程で出るいろいろのガスを総合的に完全利用できるところに大きな魅力がある。ただ、今のところコンビナートの仕方が各社まちまちで、例えば岩国の三井、四日市の三菱、川崎の日立化学といった具合に、みんなそれぞれに違っている。三井では全部自社使用だが、うちの三菱ではよその会社にもパイプでやり取りをしている。コンビナートの方法もいろいろあるが、どちらがより合理的かは、そろそろ再検討する必要があると思う。
いずれにしても、小さな石油精製工場をつくってそれに小さな石油化学工場をくっつけるより、大きな製油精製工場と大きな石油化学工場ができる方がベターであることはいうまでもない。