和田完二 わだ かんじ

石油・石炭

掲載時肩書丸善石油社長
掲載期間1961/02/01〜1961/02/23
出身地兵庫県豊岡
生年月日1896/06/12
掲載回数23 回
執筆時年齢63 歳
最終学歴
中学校
学歴その他豊岡中学
入社満鉄アルバイト
配偶者まき子(宇宙殿宮主)
主な仕事原田商会(設立)、丸善鉱油>丸善石油、大連、上海、太平公司(独立)、丸善に復帰、半身不随、丸善石油学院、宇宙殿、報恩和協会
恩師・恩人竹中政一、高橋雄吉
人脈田村賢三郎、岡崎嘉平太(先代社長)、河村良介
備考父:校長、専務で大病(半身不随)
論評

明治29年6月12日(1896)昭和43年(1968)8月13日兵庫県生まれ。丸善石油(現コスモ石油)社長・同顧問・同相談役。丸善石油事業団を設立し社会福祉に貢献。日本馬術連盟副会長、関西乗馬団体連合会会長。丸善を出光興産と並ぶ民族系大手に育て上げ、積極経営を展開した。35年ごろからの過当競争による市況低落も加わって会社は大幅赤字に転落、38年にはその責任をとって社長を退任した。

1.大連の自宅が占拠される
大連にソ連軍が第一歩を印したのは、終戦8日後の1945年8月23日であった。30台ぐらい連ねてやってきた。それからお定まりの略奪、惨殺、暴行と、目も当てられぬ惨状が展開された。8月25日に、私の家に上海大学を出て中ソ友好なんとかという仕事をやっている触れ込みの男が来た。それがやかましく言うので、私は面倒くさくなって大連にある私の全財産をタイプに打ち、きれいさっぱり中共軍に献上することにしたら、大変結構だと褒められた。地獄の沙汰も・・・というわけだ。
 といっても、こっちも寝るところがなくては困る。それで、六畳一間は使わせてほしいと頼むと、「我々は二階だけを使うから、後は自由にしてよろしい」となった。しばらくすると、今度はソ連の将校や兵隊が10人ばかりドヤドヤと土足でやってきた。殺されるのかなと思っていると、水道の出る部屋を見て「ここをおれたちが使う」という。かくして階下の応接間はソ連軍人、二階は中共幹部の密会所となった。そんな怖いような所で私は毎日を過ごしたが、これで助かりもした。だいいち、食糧に不自由しなかったからだ。

2.私の主義
昭和27年(1952)10月28日、私は半身不随のまま社長に就任した。その頃の私は、右手はどうやら使えたが、左手の方はまるっきり動かない状態で何をするにも家内の肩を借りていた。こんな体になってまでも社長になるなんていう人間はおそらく一万人に一人もいないだろう。普通なら、職についていても病気になれば退くのが当たり前だ。それを病気になってから社長に就任したのだから異例中の異例といえる。
 深慮とか熟考とかいう言葉があるが、どんなに考えても人間の頭には限度がある。数字を集計したりするような仕事は別だが、会社の経営方針などは家で静かに考えたところでいい案が浮かぶはずもない。名案や妙案をいうものは、日ごろ仕事に忙殺されている間に生まれるものだと私は思っている。長い私の経験から、人間の頭というやつは、真剣に仕事に取組んでいるときが一番回転が速いようだ。そう信じているから、私はどんな大きな仕事でも、ものの1時間も考えたことがなく、いつでも即決主義でやっている。

3.宇宙殿の建立(昭和33年:1958)
戦後丸善を飛び出した私が、仲間と一緒に本社に戻ると、営業部長兼大阪支店長となり営業担当の常務となった。販売の仕事のほかに、事実上、経理部長の役割まで果たさねばならなかった。昭和27年5月18日、会社の旅行会に参加した私は、熱海(伊豆山)の水明館で意識を失って国立病院に入った。
 その時は専務になっており精神的に不幸のどん底にあったが、全国の友人知己が、和田をもいっぺん働ける体にしたいと各地の神仏に祈願し、そのお札を送ってくれた。病室を埋めるほど送られたお札を見ながら、私は友情の厚きに泣いた。その後おかげで命拾いをし、どうやら一人前に働けるようになったが、考えてみれば、これも一に神仏の加護の賜物だ。沢山のいただいた祈願お札について家内に相談すると、「庭の隅に社(やしろ)を建て、お札を集めて朝夕おまいりするのもいいが、生きとし生けるものの今日あるは、すべて天の大愛と宇宙諸霊の加護の賜物だ」という。言われてみれば、確かにそうだ。そこで昭和33年、丸善石油学院と道を一つ隔てた大阪府箕面市新稲に「宇宙の宮」の建立となったのである。
 ただ、くれぐれも断わっておくが、これは宗教ではない。強いていえば、愛を誓い、感謝の意を捧げる場所であり、疲れた魂の憩いの場所である。

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