石井久 いしい ひさし

金融

掲載時肩書立花証券会長
掲載期間1993/09/01〜1993/09/30
出身地福岡県
生年月日1923/05/13
掲載回数29 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
専門学校
学歴その他技術幹部養成所
入社渡辺鉄工所
配偶者藤井 >石井(米屋娘)
主な仕事14歳社会、ドラ焼き、巡査、担ぎや、記者、石井株式研究所、江戸橋証券>立花証券
恩師・恩人天沼両平、高橋亀吉
人脈福園一成(後継社長)、下村治、清水一行、永野重雄、今里広記、桜田武、八尋邦俊、松園尚巳、土屋陽三郎
備考8男五女5番目
論評

1923年5月13日 – 2016年4月22日)は福岡県生まれ。実業家。立花証券の父として知られ、最後の相場師などの異名も。警視庁を退官ののち昭和23年(1948年)6月に東京自由証券株式会社に入社、株式新聞の記者などを経て、昭和28年(1953年)3月29歳のときに石井株式研究所を創立する。同年9月に江戸橋証券株式会社を創立、昭和32年(1957年)6月には立花証券株式会社を買収し江戸橋証券とこれを合併、4年後の昭和36年(1961年)10月には同社の取締役社長に就任。平成元年(1989年)には高額納税者番付で第2位となった。また同年に私財を投じて設立した財団法人『石井記念証券研究振興財団』は、現在も株式市場や証券市場の研究に対する助成金の給付、また同分野の学生や研究者に対する奨励金の支給などを行っている。

1.警察官の仕事
昭和21年〈1946〉8月に上京して半年間、警察官訓練所で訓練を受けた。訓練期間が終わると配属希望を聞かれたので、小岩署を希望した。小岩署管内の江戸川交番は、千葉から東京へヤミ物資を取り締まる検問所になっていた。警察の仕事はヤミ屋と泥棒を捕まえること。犯罪検挙数の8割方は食糧管理法違反、つまりヤミ行為の摘発で、ヤミ屋を狙えば成績は上がった。しかし、警察官を長くやるつもりがない私は、自分もヤミ米を食っている身だし、必要に迫られてやっていることなのだからと見逃した。
 巡査をしばらくやると、ヤミ屋と泥棒の見分けがつくようになる。大きなリックを重そうに背負っているのはヤミ屋の買い出しで、軽そうなのが泥棒だ。重い荷物の中身は米や芋の食糧、軽い方は衣類。衣類を食糧と交換しに行く人は、ふろしきに1着か2着、大事そうに抱えて歩く。リュックに一杯詰めた衣類を持ち歩ているのは、人様の物を盗んだものと思って間違いなかった。

2.わが師、高橋亀吉先生の株式観
青山の高橋先生のお宅に初めて伺ったのは昭和23年(1948)の夏だった。大学者の先生が私を認めてくださったのは、ドッジデフレによる株式相場の暴落がきっかけだった。ドッジ博士の提言で、インフレ退治のため、24年度の財政が超緊縮型になるという観測は早くから流れていた。株式相場はインフレを背景に高騰を続けていたが、高橋先生は「強力な引き締めが実施されれば株は暴落する」とおっしゃって、24年1月に持株全部を売ってしまわれた。
 「相場は間違っている」と言う先生に、私は「投資家全部が先生と同じレベルならば、先生の言われるようにすぐ暴落するかもしれませんが、投資家はマチマチですから相場の山はズレる可能性がある。その限界でお売りになっては」とお勧めしたが、聞いて下さらない。私は2か月後に自分の全株を処分した。
 3月に天井を付けて10月以降暴落したこの時の相場で、先生は100万円の財産を10倍の1000万円に10倍に増やされた。私の方は10万円が1000万円の100倍に増えた。2か月の売り時の違いで36歳年上の先生の財産に、1年足らずの経験の若造が追い付いてしまった。
 先生は日本経済の大きな流れを捉えて間違われたことがなかった。高橋経済理論の神髄は金融的な経済の見方にある。「金融が分からないと経済は分からない」と言われ、27歳の時に書かれた「金融の基礎知識」は最も自信のある本の一つであると言っておられた。私は先生の知恵を盗み、株式相場に応用すれば良かった。財閥解体・財産凍結とインフレで、戦前と戦後のカネと株のバランスは1対1から200対1になっていたので株価が吹き上げるというようなことは、高橋理論を応用すればすぐ分かった。

3.社員の合同結婚式
昭和32年(1957)6月、立花証券を買収して念願の証券業正会員会社の経営に辿り着いた。証券界に入って9年目、34歳になった私は、社員総数60人、資本金3千万円の証券会社オーナーになった。私はプライバシーの侵害をいわれるぐらいに社員の個人生活にも干渉することが親切であり、義務と思っている。
 社員が家を建てると、上司の部長と一緒に新築祝いに出かけて、「祝新築」の色紙と1万円の祝い金を置いてくる。家を見れば主がどの程度の能力者かが分るし、奥さんはどんな人かを確かめておくことも無駄ではなかった。
 結婚の仲人も社員の家庭を覗くチャンスになる。社内の皆さんに私という人間を理解してもらういい機会だからと積極的に買って出たが、若い社員が多く個人的に引き受けていたのでは時間のやりくりが付かなくなった。「できればこう願いたい」と言って始めたのが春秋2回、東条会館での合同結婚式である。招待客は双方15名ずつ1組30人に限らせてもらい、引き出物は出ないが、挙式から披露宴まで費用は全額会社が持つ。浮いたカネは新婚旅行なり家具財産の足しにしてもらった。こうして社内だけで200組近い仲人をした。新聞・雑誌で有名になった「立花の合同結婚式」は、35年(1960)から39年の5年間で47組のカップルを誕生させている。

4.二世経営者への助言
長男にも他の二世経営者の方にも言っているのは、決して創業者に対抗しようなどと考えるな、ということである。どんな商売でも、創業者は人並外れた才覚と努力で成功を勝ち取った人であり、その子供が二代続けて創業者と同等かそれ以上の資質を持っている確率は皆無に近い。能力的に劣るものが背伸びしてマネをしようとすれば、必ず失敗する。
 初代の欠点は成り上がり者の宿命で、他人から警戒されることである。二代目は初代にないもの、人柄を磨いて人様から信用されること、これしかない。二代目同士の付合いは仲間外れにされない程度にして、多くの初代と付き合え。初代は熱心さやひたむきさを評価する。初代に気に入られるよう努力して、知恵を盗めと言っている。

追悼

氏は’16年4月22日92歳で亡くなった。「履歴書」登場は1993年9月で70歳の時であった。証券業界出身の経営者は、野村證券(奥村綱雄瀬川美能留北裏喜一郎田渕節也寺澤芳男)、日興(遠山元一)、大和(福田千里)、山一(日高輝)、山種(山崎種二)、藍沢(藍沢彌八)、立花(石井久)の11人である。

氏は、鉄工所勤務や警察官などを経て、東京・日本橋兜町で証券外務員となる。同時に「独眼流」ペンネームで書き始めた株式新聞の記事で名声を得た。1953年に江戸橋証券を設立し、同57年に経営不振だった立花証券を買収して同社社長に就任。独自の相場予測で多くのファンを生んだ。氏の相場予測を次のように書いている。

「株の世界では早耳筋とか事情通であることが重要であると思われがちだ。私もよく『どんな情報ルートをお持ちですか』と聞かれるが、特殊なものがあるわけではない。私の勉強法は八割が新聞、雑誌、書籍から得た情報や知識で、人の話を聞く耳学問はあとの2割にすぎない。

相場観測では政策をどう読むかが重要なことは言うまでもない。だが、官僚や政治家は政策を動かす権力を握ってはいても、実際に政策を左右するのは国際収支であり、今なら経常収支の動向である。米国の財務長官発言が為替を動かすのではなく、その背景にある日本の黒字が円高をもたらして、政策を発動させるのだと理解している」と。

石井 久(いしい ひさし、1923年5月13日 - 2016年4月22日[1])は、日本の実業家立花証券の父として知られ、最後の相場師などの異名をとった[1]

  1. ^ a b “「最後の相場師」立花証券元社長・石井久氏死去”. 読売新聞. (2016年4月27日). http://www.yomiuri.co.jp/economy/20160427-OYT1T50057.html?from=ytop_main8 2016年4月27日閲覧。 
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