北裏喜一郎 きたうら きいちろう

金融

掲載時肩書野村証券会長
掲載期間1979/11/10〜1979/12/06
出身地和歌山県美浜
生年月日1911/03/14
掲載回数27 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
神戸大学
学歴その他神戸商大
入社野村證券
配偶者同郷見合い
主な仕事広島支店、東洋信託銀行、野村総合研究所,野村不動産、ASEAN経営社会義、日本証券業協会
恩師・恩人西川平吉 (中学教師)、田崎慎治、伊藤真雄
人脈片岡音吉・奥村・瀬川(会社恩人)山本玄峰老師、田淵節也、吉田正、服部克久、五十嵐喜芳、北大路魯山人
備考童謡、禅 、囲碁6段
論評

1911年3月14日 – 1985年10月30日)は和歌山県生まれ。実業家、野村證券元社長・会長。野村證券の国際化戦略の立役者。1968年11月に社長に就任するまで瀬川美能留とのコンビで野村證券の発展に大きく寄与した。1978年には当時54歳の田淵節也に社長職を譲り、自らは会長となった。喜一郎の長女量子は、元日本航空会長松尾静磨の二男賢二(三菱商事)に嫁いでいる。松尾は戦後日本の民間航空育ての親で、日航を世界第三位の航空会社に仕上げた日本の航空界の先駆者。

1.奥村綱雄さんはサムライ
結婚して一年、昭和13年(1938)2月、私は住み慣れた広島を後にして、大阪へ向かった。新設の株式係への参加が決まったのである。この株式係がやがて株式部に昇格、本格的な株式業務への進出となるわけであるが、ここで私は、会社生活のなかにおける生涯の先輩と巡り合うことになる。即ち、高橋要課長(後の大阪証券取引所理事長)であり、奥村綱雄代理であり、瀬川美能留主任である。
 こんなことがあった。取締役株式部長となったのは、当時の野村合名から派遣されてきた人であったが、我々若いものとは、意見が合わないことが多かった。ある日、奥村さんをつかまえて「お前はもう明日から会社へ来なくて良い」という。ところが奥村さんは一向に動じない。「私は野村証券の社長に採用されたのであって、あなたに採用されたわけではない。社長に言われるか、役員会の決定というものならいざ知らず、あなたにクビにされる覚えはない」。奥村さんという人は、そういうサムライであった。

2.政治も経営も情緒の世界を失ってはならない
学者であれ、実業人であれ、およそ物事の手立てを探るには、カンの良し悪しが大きく左右するのは、皆同じだと思うのである。そうした意味のカンを養うものこそは、実は情の世界、情緒の世界であると私は信じている。郷里和歌山の大先輩であり、世界的な数学者の岡潔先生が学問上の大発見をしたのは、一夜ホタルの飛ぶのを見ている時であった。決して机にかじりついて、数字と取っ組み合っていた時ではない。
 私が、戦争末期、闘病生活で山にこもり、自然の中で独り自炊生活を続けて、半年もして気付いたことは、カンが鋭くなっていることであった。そしてそれは自然という情の世界がもたらしてくれたものだと思う。私が情ということを力説する今一つの理由は、情緒というのは誰もが無意識に感じる世界、共感の世界であって、これが会社といった集団の統一の上にも、極めて重要な役割を果たすものだからである。
 我々は共通の世界を持つことが大事であって、政治の世界であれ、実業界であれ、この種の共感を呼ぶ何かを生むべく、常に腐心していなければならない。経営の決定にも、こうした情緒的要素が必要であって、みんなに通じ納得がゆくためには、いかなる数字もこれに及ばないと思う。

3.北大路魯山人の山房と窯を引き継ぐ
昭和25年〈1950〉ごろ、銀座の久兵衛(寿司)の親父と、福田家の女将から魯山人の窯開きに誘われて鎌倉に行った。魯山人は既に齢65歳、過去の所業がたたって寄り付く人もなく、山房も天井から落ちてくるムカデ除けに紙が張ってある有様で、いくらか気弱になっていた。
 この魯山人は、実に変わった男だった。自分の身の回り、女房や女中は言うに及ばず、財界人であろうと大臣であろうと、すべて敵に回してしまう。七回女房を取り換えたと言われるが、一緒になるまでは熱心でも、一緒になったらもうその夜から別れることを考えているという位で、高名を聞いて訪ねてくる財界人などに対しても、お前の目は腐っているなどというものだから、すぐケンカになってしまうのだった。
 この訪問以降、暇があると私は一人で魯山人のもとへ出かけるようになった。退屈しのぎの話相手として、向こうから見ても重宝だったのだろう。そんな仲が7,8年も続いただろうか。34年(1959)の暮れ、魯山人は亡くなった。そして翌年、久兵衛さんがやって来て、「300年を経た山房を壊すのはもったいない。晩年の付合いのよしみで、一肌脱いでもらえまいか」と言われ、魯山人の窯と山房を引き継ぐことになった。

きたうら きいちろう
北裏 喜一郎
生誕 (1911-03-14) 1911年3月14日
和歌山県日高郡美浜町
死没 (1985-10-30) 1985年10月30日(74歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 神戸商業大学
職業 実業家
栄誉 勲一等瑞宝章(1982年)[1]
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北裏 喜一郎(きたうら きいちろう、1911年〈明治44年〉3月14日 - 1985年〈昭和60年〉10月30日)は、日本の実業家野村證券社長。野村證券の国際化戦略の立役者。

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