山崎種二 やまさき たねじ

金融

掲載時肩書山﨑証券社長
掲載期間1956/11/01〜1956/11/17
出身地群馬県高崎
生年月日1893/12/08
掲載回数17 回
執筆時年齢63 歳
最終学歴
小学校
学歴その他高等小学校16歳
入社回米問屋
配偶者興銀娘:萩原ふう
主な仕事徴兵、米相場、米問屋独立30歳、山種倉庫、山種証券、山種倉庫、辰巳倉庫、富士見女学校
恩師・恩人従兄:山崎繁次郎
人脈石井定七、小林一三、森矗昶、堀久作(日活株争奪関与)、大谷竹次郎、横山大観、速水御舟
備考息子:富治、閨閥あり
論評

1893年12月8日 – 1983年8月10日)は群馬県生まれ。相場師・実業家・教育家。1920年代から米相場に手を染め始め、石井定七や伊東ハンニを向こうに回して成功を収めた。専ら売り方に専念し、米相場において「売りの山種」として有名だった。山種証券株式会社(現SMBC日興証券株式会社)、山種物産株式会社(現株式会社 アサヒトラスト→解散)、株式会社ヤマタネの創業者であり、米相場と株式相場において成功を収める。山崎富治は次男、味の素創業家・鈴木家とは縁戚である(鈴木三千代の次女が富治の夫人)。通産事務次官などを務めた今井善衛は長女の夫、運輸事務次官からJR東日本の初代社長となった住田正二は二女の夫。孫は株式会社ヤマタネ社長の山崎元裕。内閣総理大臣を務めた福田赳夫の妻は山崎夫人の従姉妹で、福田家や越智隆雄・千野志麻などと係累がつながっている。

1.相場をはる要諦
大正10年(1921)、天候不順で大相場師の石井定七氏は米を買占めて大儲けを企んだが、思惑がはずれて“借金王“となった。私は、石井さんの買占めのとき実米をソロバンで売り、石井さんが処分するとき委託を受けて売るという往復の商売ができて、開店以来の数量景気に恵まれたものだ。
 私に相場というものが分かり始めたのは、この頃からである。軍隊生活の経験も役に立った。例えば、行軍する時、休みなしに強行軍をすると、兵隊はバタバタ倒れる。やはり休みを挟んで行軍しなければならぬ。相場もまた「売る」「買う」だけではいけない。「売る」「買う」「休む」の三拍子そろわなくてはならない。「休むも相場」というが、全くその通りである。

2.株式では買いよりも売りに妙味
同じ儲けるなら、買いで儲けるより、売りで儲けた方が、ずっと値打ちがあるからである。例えば、一石40円から米を売って20円に下がったとき買戻して儲けたとすると、物価も大体米価と歩調を合わせて下がっているから、物が倍買える。買いで20円から40円になったとき転売して儲けても、金の値打ちは半分になっている。だから、売りの場合の方が有利になるが、売りも現物を持たずに売るカラ売りでは危険である。私は実米を持って、清算市場へ売りつないでいたので、自信たっぷりで売り方にまわったものである。

3.私の仕事主義
私は昭和6年(1931)に綿糸人絹の仲買人になり、翌7年に株式の取引員になり、穀物、ゴム、砂糖の取引所会員にもなり、清算取引と名の付くもので勝負をやらないものはない。「山種は“清算デパート”の社長」とまでいわれている。しかし、いまもって競馬、競輪は一度もやったことがない。兜町の先輩の中に、金山や銅山などを手掛けた人も多いが、私は全くやったことがない。これは自分で自分の方向を律していく一つの主義である。
 例えば、競馬の場合、馬券の14%は競馬会に、11%は政府に取られて、残り75%が当たったものに返ってくるのである。相場の社会では、売りと買いの二つのうち一つでも当たりにくいのに、二対一どころか、何十対一というような勝負に勝つことは、どうしてもソロバンに出てこないというのが、私の考え方である。また鉱山は表面に出ているものではなく、地下のものを探し出すのだから、私などには分かりにくい。
 私が相場以外に手掛けた仕事はまず倉庫業である。私が回米問屋を始めた時は、小さな店しか建てなかったが、米を入れる倉庫だけは、ぜひこしらえなければいけないと思って、昭和3年(1928)に深川の店の近くに山種倉庫をつくった。それから2.3年経って芝浦に埋立地ができたので、そこへも倉庫を立てた。そのうち私がいろいろお世話になった森矗昶( のぶてる)さんの弟の岩瀬亮さんが経営している辰巳倉庫が経営難に陥ったので、昭和16年(1942)に私が引き受けることになり、17年に社長に就任した。

山崎 種二(やまざき たねじ、1893年12月8日 - 1983年8月10日)は、日本相場師実業家・教育家。山種証券株式会社(現SMBC日興証券株式会社)、山種物産株式会社(のちに株式会社 アサヒトラスト→解散)、株式会社ヤマタネの創業者であり、米相場株式相場において成功を収める。

[ 前のページに戻る ]