遠山元一 とおやま げんいち

金融

掲載時肩書日興証券会長
掲載期間1956/06/20〜1956/06/28
出身地埼玉県
生年月日1890/07/21
掲載回数9 回
執筆時年齢66 歳
最終学歴
中学校
学歴その他
入社半田株屋
配偶者記載なし
主な仕事市村商店(株仲買)、川島屋商店独立、東京現物団加入、日興證券(社名変更)、東証理事会議長
恩師・恩人水野錬太郎、伊藤銀三(伊藤銀社長)
人脈杉野喜精(山一)、山下経治、寺田甚与茂(岸和田紡社長)、瀬下清・加藤武男(三菱)
備考信用のありがたさ(無形財産)
論評

1890年7月21日 – 1972年8月9日)は埼玉県出身の実業家。日興證券の創業者で初代会長。1950年、米国証券界視察のため、山一證券の小池厚之助、野村證券の平山亮太郎、丸万証券の武田正三らとともに渡米。1952年、日興証券会長に就任。1964年に会長を退くまで戦後日本の証券業界の近代化に尽力し、遠山天皇と呼ばれた。美術品収集家としても名高い。

1.信用のありがたさ
大正7年(1918)に私は独立して川島屋商店を開いた。当時は欧州大戦の終わった直後で、株式市場は閑散になり、店開きの時期としては、最盛期を過ぎて少し遅ればせだった。そこで東京だけでなく大阪でも取引をしてもらおうと思い、親類の遠山芳三に相談すると伊藤銀三さんを紹介してくれた。伊藤さんは非常に誠実で、信用のある人だったから、北浜の超一流の株式仲間店でも「彼の紹介なら取引してやろう」ということになった。
 普通なら、新規の店はたとい堂々たる仲買店を始めても、当時の才取り仲間は様子が分かるまで保証小切手を使わなければ株券を渡さなかった。ところが、私が店を開くと、お前の所は新店だから、保証小切手でなければいかぬということはなかった。普通の小切手で株券を入れてくれ、こうして買ったものを大阪で売っていた。また大阪へ売るには、荷為替を組まなければならない。普通は銀行に頼んで荷為替を組むにも、丸為替は組まなかった。たいてい七掛(7割)か八掛しか組まなかった。しかし、銀行が私を信用したのかどうか分からぬが、初めから私には丸為替で、株の代金をまるまる立て替えてくれた。

2.日米間の時差で儲ける
大正10年(1921)の8月末になると、金融基調が変わり公債、社債がぱったり売れなくなった。しかし日銀はニューヨーク(NY)に外貨をかなり持っていたので、麻生理事は「買ってもいい」と言われた。そこで私は日米の時差を考え、一晩よく考え、次の結論となった。
 今日の午後4時に日本から電報を打つと、それがNYに着くのは、今日の午前9時ごろになる。すると、例えば、5月30日の午後4時に日本銀行がNY支店へ「正金銀行へいくら払え」と打電すると、NYには、NY時間で同じ5月30日の午前9時頃には着く。つまり、社員が出勤する時分に電報が着いている。それですぐ正金銀行へ知らせるのだから、正金銀行としては5月30日に金を受け取っているわけだ。だからドルで受け取った金の円で支払えばいいことになる。私は正金銀行へ行って了解を受け、その足で日銀の麻生理事に説明すると、「いい考えだ。よろしい。やろう」となった。これで話はついた。 
 それ以後、毎日銀行から5万、10万ポンドと買っては日銀へ売った。金融が詰まっていたので各銀行とも喜んだ。正金銀行でもドルが欲しいので喜んでいた。この外貨債売買で毎日5千円ずつ儲かった。

3.関東大震災と東京証券取引所
大正12年(1923)9月1日、関東大震災が突発した。このため、国富の損失100億円と言われ、中央財界は大打撃を受けた。東京証券取引所も焼けてしまい、証券の流通もストップしたが、大阪では市場が立っていた。しかし、その相場を知る方法がない。ところが誰が考え付いたか知らないが、大阪との連絡に成功した。東京駅前の、今の乗車口と中央郵便局の間ぐらいに公衆電話があって、ここから大阪へ電話をかけて、相場を聞いたものである。大阪へ繋がるまでは、電話口で待っていたが、それを伝え聞いて、一人寄り二人寄りして、だんだん人が集まって来て、自然発生的に公衆電話前で集団売買が始まった。交通妨害になるというので、なんども追っ払われたが、すぐ集まってくる。取引所でも放っておけないので、中外商業新報(日本経済新聞の前身)の講堂に仮の立会場をつくって市場を開いた。これが震災後最初の立ち合いであった。

遠山 元一(とおやま げんいち、1890年7月21日 - 1972年8月9日)は、埼玉県出身の実業家日興證券の創業者で初代会長。美術品収集家としても名高い。

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