藍沢彌八 あいざわ やはち

金融

掲載時肩書東証理事長
掲載期間1959/08/29〜1959/09/22
出身地新潟県国刈波
生年月日1880/03/22
掲載回数25 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
日本大学
学歴その他日本法律学校(日大)
入社金港堂 教科書
配偶者村総代の娘
主な仕事満州、港屋商店(株屋)>藍沢商店、証券取引委員長、日本証券投資>日本協同証券、東証理事長、貴族院議員、平和不動産
恩師・恩人原亮一郎(妹婿:山本条太郎)、原亮三郎(亮一郎父)夫人
人脈井上円了、石井捨三郎、久世庸夫、池田茂、桜内幸雄、小磯国昭、迫水久常、郷誠之助、原敬(首相)=高橋是清(蔵相)
備考代々庄屋
論評

1880年3月22日 – 1969年1月29日)は新潟県生まれ。実業家。出版会社金港堂などを経て、1908年(明治41年)に証券業の港屋商店代表者となる。1933年(昭和8年)10月に株式会社藍澤商店(現在の藍澤證券)を設立。1940年(昭和15年)に株価対策の国策を担うための日本証券投資株式会社を設立し社長に就任。1947年(昭和22年)に証券取引所の不動産を管理する平和不動産を設立し社長に就任。1957年(昭和32年)から1961年(昭和36年)まで東京証券取引所理事長を務めるなど、日本の証券業、証券取引所に大きな影響力を持った。

1.兜町人種の遊び
大正5年(1916)ころの東京証券取引所は立会時間に制限がなく、売買が一巡するまでとなっていたので、従って商いが繁盛すれば、電気をつけて9時、10時と夜遅くまで立会することもあった。そうして場が済むと、遊びにゆくことに相場が決まっていた。どの店の主人も夜はなかなか家にいたことはなく、場立ちなどもチョッと古株なら、夜はどこかへ遊びにゆくのが習慣のようになっていた。
 景気が良かったころの兜町人種のハデな遊びぶりについて、色々伝えられているようだが、私の見るところでは一番豪勢な遊びをしたのは船関係の連中で、兜町人種はその次くらいだった。よく利用したのは日本橋、葭町、柳橋で、特に日本橋は非常に盛んで、花街としての格も高かったようだ。私などもよく日本橋を利用したものだが、その時分お客を3人呼んで芸者を入れ、十分ごちそうして、44,5円ぐらいかかったように覚えている。今と比べて、どちらが安いであろうか?

2.原敬総理に証券市場の窮状を直訴
大正9年(1920)の株式市場は大暴落(ガラ)となり凄惨なものだった。当時出来高の最も多かった取引所株は暴落前540円~550円していたものが200円にもなり、60%以上も下がったものだからみんな青くなった。この時の取引所の理事長は郷誠之助氏で、なんとかこの危機を切り抜けようと奔走されたが、なかなかうまく行かない。とうとう取引所はストップしてしまった。
 私は政友会の有力者望月圭介氏に「日本人の資産の三分の一は株券じゃないですか。その株券の価値がなくったら、どうなると思います。政府が証券界を助けなければどうにもならないでしょう」と話した。すると望月さんは「おれはそういう話はオヤジにできないから、お前も一緒に来い」と言う。望月さんがオヤジというのは時の総理原敬さんのことであった。
 そこで今度は原さんの所へ行った。原さんに株式の窮状を説明すると「いったい金が要るというが、いくらいるのか」といきなり言われた。「5000万円です」「その金は出したら返るのか」「必ず返ります」「困って借りにきて、どうして返せるのか」との問答となった。そこで、「現金は追敷(おいじき)にどうしても必要である。株券は売りつないであるから、その株券が回転して差金が出てくる。そして株券に価値がついてくる。それにはまず場を立てなければならない。場を立てるには5000万円くらいは必要である」と説明した。
 すると原さんは納得してくれ、すぐ時の蔵相高橋是清さんに電話をかけてくれた。私は厚くお礼を述べた。

3.戦前の兜町を育てたのは商工省
昭和15年(1940)6月、私は推されて一般取引員組合委員長に就任した。今でこそ大蔵省は兜町を育てたのは大蔵省であるようなことを言うが、元は取引所は商工省の管轄だった。しかし戦争下、商工省の管轄ではどうもうまく行かないので、私は委員長に就任するとすぐに取引行政の移管問題に取り組んだ。
 その時の蔵相は桜内幸雄さんで、私とは親類関係にあったから話しやすく、また拓相の小磯国昭さんと三菱銀行の丸山常務も協力していただいたので、大蔵省への移管が決まった。大蔵省には迫水久常さんがいて、よく取引所のことを勉強し、取引所との連絡は非常にスムーズにいった。

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