永山武臣 ながやま たけおみ

映画演劇

掲載時肩書松竹会長
掲載期間1995/06/01〜1995/06/30
出身地東京都
生年月日1925/08/30
掲載回数29 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他学習院
入社松竹
配偶者職場結婚
主な仕事夜警、監事室主、演劇製作(プロデューサー)、海外公演(31国)、藤山寛美、NYメトロポリタン、ミュージカル、金比羅歌舞伎
恩師大谷竹次郎
人脈学習院(五島昇5上、三島由紀夫1上)、水谷八重子、今里広記、川田順、久保田万太郎、川口松太郎、菊田一夫、松山善三
備考祖父:北海道長官、
論評

1925年(大正14年)8月30日- 2006年(平成18年)12月13日)は東京生まれ。日本の実業家。松竹社長・会長。1951年(昭和26年)1月の東京・歌舞伎座の再開と同時にその監事室に配属され、松竹創業者の一人である大谷竹次郎の下で、6代目中村歌右衛門襲名披露興行など第2次世界大戦後初期の歌舞伎の代表的な公演に関わることになった。歌舞伎以外だけでなく、1969年(昭和44年)にロック・ミュージカル「ヘアー」を上演したほか、1982年(昭和57年)には「アマデウス」の日本初演なども手がけるなど、ミュージカルや翻訳劇にも手を広げ、新派や松竹新喜劇まで含めた幅広い分野の演劇の製作・興行に携さわった。

1.劇場の監事室とは
昭和23年(1948)から大谷竹次郎社長の指示を受けて、大道具や照明係に不具合を伝えたり、演出家や舞台装置の使い走り担当になった。この監事室は芝居全般に目配りし舞台の質を高める狙いで開設されたもので、客席後方の小部屋で、客席側はガラス張りでそこから、社長や演出家、脚本家らがいつでも芝居を見渡せるものだった。監事室の仕事は舞台の異常を直すだけでなく、役者さんの声や体調、長唄や清元の地方さんの顔ぶれはどうかなど、良い舞台を作るためあらゆる要素に気を配るところでした。
 監事室は、勉強するには格好の部屋でした。狂言の内容は勿論のこと、所要時間も覚えた。上演時間は初日から5日間、それに中日と千秋楽に記録する。「寺子屋」なら1時間10分、「勧進帳」なら1時間15分と頭に叩き込んだので、あとで公演の企画を立てる時に随分と役立った。

2.監事室の常連
監事室は、秘密めいた闇の世界を好む。芝居好きの文士や画家、財界人のたまり場だった。話し声が外に漏れないので、上演中も気兼ねなく批評をしたり雑談ができた。後の松竹の相談役もされた今里広記さんや、新橋の料亭金田中の岡副鉄雄さんがよく見えた。また、里見弴、久保田万太郎、大佛次郎、今日出海、川口松太郎、村上元三、円地文子の各先生や、若手では三島由紀夫さんや有吉佐和子さん、そして舞台美術家の伊藤喜朔さんらもよく見えられた。

3.大谷竹次郎社長の薫陶
社長は芝居の神様だった。大谷さんは客席を見渡しただけで、前売り切符の客、団体客、招待客などの客筋を読み、売り上げをはじく。初日は大谷さんの神経が張り詰め、そばにいると怖かった。千秋楽でも気に入らないと、ダメを出す。指導は厳しく、怒られて監事室から突き出されたこともあった。
 最も鍛えられたのが、興行にとって一番大事な、出し物と配役をきめる「狂言立て」だった。これをする時は、香盤(こうばん)と呼ぶ赤い罫線の入った横長の用紙を使う。右端に朝の最初の出し物から順に題名を横に書き、下一列に出演俳優の名前を全て記入する。
 縦横の升目を追いながら、役を割り振っていく。出来上がると、その月の演目と出演者、役名、出番の時間帯まで一目でわかる表となる。この「狂言立て」が歌舞伎の制作の基本で、狂言の内容や役名は勿論、役の軽重まで頭に入っていないと書けないものだ。

4.三島由紀夫さんの思い出(学習院で一年上)
昭和28年(1953)、三島さんに脚本をお願いすることになり、自宅に伺い、引き受けていただいた。3か月後に「地獄変」の台本ができ上がった。芥川龍之介の原作を七五調のセリフ、義太夫入りで脚色した擬古典の新作歌舞伎で、その年の12月の歌舞伎座で久保田万太郎氏演出で初演された。牛車に繋がれ生きながら火をかけられる美女の役は、ひいきの中村歌右衛門さんだった。三島さんは作品を書き上げると、昔の作者のように自身で本読みするのが好きで、けいこ場で名調子を聞かせていた。

永山 武臣(ながやま たけおみ、1925年大正14年)8月30日[1] - 2006年平成18年)12月13日[2])は、日本の実業家松竹社長・会長[2]

  1. ^ 『訃報』 松竹、2006年12月15日。
  2. ^ a b “松竹会長の永山武臣さんが死去 戦後の歌舞伎界をリード”. 朝日新聞(朝日新聞社). (2006年12月13日)
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