美女と才女
山本富士子  
女優
生年月日1931年12月11日
私の履歴書  掲載日2002年12月01日
執筆時年齢70 歳

1931年12月11日 – 大阪府生まれ。女優。
フリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。永田は一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作する。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。彼女はテレビドラマに活路を求め、『山本富士子アワー』などに主演した後、演劇に新境地を開き、2013年現在まで演劇一筋で主演を続けている。
レコード録音のため古賀政男邸にレッスンに行ったことが縁で、古賀門下の高弟・古賀丈晴と知り合う。 この時のレコード「青春日記」は、古賀政男と古賀丈晴がギター伴奏をした。結婚について両家は大反対だった。丈晴は結核を患っており、手術が成功したら結婚をすると約束。映画『彼岸花』の撮影中、丈晴の兄から「手術は無事成功した。」との電話を受け、泣いたと語っている。結婚することになった山本の実家には男兄弟がなく、また、姉も結婚し他家に嫁いでいたので、丈晴は婿養子となり『山本』姓を名乗るようになった。

1.ミス日本コンテスト
ミス京都に選ばれて1950年4月、このコンテストが東京の目黒雅叙園で行われ、12大都市のミスが集まった。審査委員長が日本芸術院長の高橋誠一郎さんで、ほかに審査員として安井誠一郎東京都知事、作家の吉川英治先生、東宝の米本卯吉社長、大谷竹次郎松竹社長、実業家の菅原通済さんなど、そうそうたる方が並んでいた。
審査は振り袖と洋服で、先方の先生方の前に一人ずつ座って質問に答える面接試験もあった。幸運にも19歳でミス日本に選ばれ、ご褒美として米国との親善使節の一員になることができた。
翌年6月、いよいよ渡米である。みんなで吉田茂首相のところに挨拶にうかがった。歌舞伎座ではミス日本渡米歓送会が開かれた。水谷八重子先生の挨拶があり、渡辺弘とスターダスターズのジャズ演奏など大変なアトラクションで、盛大に祝ってくださった。そして全米12都市を2か月ほどかけて回ったのである。

2.映画初出演「花の講道館」
映画の撮影で初めのころ難しかったのは、最後の場面を撮って、また元に戻ったり、カメラアングルやセットの都合で、ワンシーンの中でも角度を変えたり、シーンを割って撮ったりして、感情の繋ぎ方に戸惑った。共演は長谷川一夫先生でした。
「カット」と言われた時の自分の動きも覚えていなくてはいけない。スクリプターさんが一応、記録してくれていて、カットした時点でのポーズが違うと「手はこの辺りまで持っていた」などと教えてくれるのだが、自分でも覚えていないとだめで、それが非常に大変だった。
撮影は朝の9時開始なのですが、時代劇の場合は、6時には撮影所に入っていないと間に合わない。びん付けをし、髪をぐっと伸ばしていって結うのだが、初めから全部のカツラは付けてもらえない。ある時、伸ばしていた髪を少し切ったら、髪結部を仕切っている結髪さんに「時代劇をやろうと思うのやったら、こんなに髪切ったらあきまへんえ」と怒られた。

3.衣笠貞之助監督の演技指導
映画「女系図」の早瀬主税は鶴田浩二さんだった。監督の衣笠先生は昔、実際に女形の役者をされていた方で、その日に撮るシーンを、まず自分がお蔦になって口立てて全部やって見せてくださった。こんな監督さんは初めてであった。
先生は、徳利など小道具の使い方から、お蔦は元芸者だから、絶えず小手ぬぐいを忍ばせていて、上がりがまちにあがる時に、ちょっと足の裏を拭くしぐさなど、本当に細かいことまでやって見せてくださった。私は何とか先生の動きを会得したいという思いで、必死で見ていた。

3.「5社協定」の壁
1962年に結婚して、今までのように年間10本もの映画出演は、仕事と家庭の両立ができないと思った。そこで10年契約も満期なので、大映の永田雅一社長にお願いするといろいろ問題があったが了解がえられた。退社しフリーになった途端、前から決まっていた仕事の話が次々と壊れた。
例えば、以前に演出家の武智鉄二さんがいらして、先代の市川團十郎さんとお芝居の話や大川橋蔵さんとの共演話も壊れました。また、東宝の菊田一夫先生の脚本・演出で舞台の話も、突然キャンセルの記者会見をすることになりました。菊田先生は東宝の重役ですが、作家でもあるから私の気持ちを察してくださって、「公演が中止になった理由は言えない。富士子さん、ごめんなさい」と会見で頭を下げられた。同席していた私は涙が出ていたたまれなくなり、お化粧室に駆け込んだ。

4.舞台やテレビは夫婦協演
テレビや舞台の音楽は主人が全部作曲している。だから仕事の上でも一番長いコンビと言えるかもしれない。舞台音楽はものすごく数が多いので、仕事はかならず徹夜になる。編曲家の人たちが何日か泊まり込み、家の中は主人の作曲と私のお稽古で、大変なあわただしさと活気が溢れました。

やまもと ふじこ
山本 富士子
山本 富士子
1950年代
本名 山本 富士子
生年月日 (1931-12-11) 1931年12月11日(89歳)
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市西区立売堀[1]
国籍 日本の旗 日本
身長 159cm
血液型 AB型
職業 女優
ジャンル 映画テレビドラマ演劇
活動期間 1953年 -
配偶者 山本丈晴(1962年 - 2011年)
主な作品
映画
夜の河[1]/『彼岸花』/『暗夜行路[1]
黒い十人の女』/『私は二歳
雪之丞変化[1]
テレビドラマ
『明治の女』/『大文字はもう秋』
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山本 富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )は、日本女優。本名は同じ。愛称はお富士さん。身長159cm。現存する日本ミス・コンテストで最も古い歴史を持つ「ミス日本」の第1回(1950年度)ミス日本グランプリ受賞者[2]。。

  1. ^ a b c d 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.39.
  2. ^ ミス日本・歴代グランプリ者
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