菅原通済 すがわら つうさい

団体

掲載時肩書常磐山文庫理事長
掲載期間1966/07/30〜1966/08/29
出身地東京都
生年月日1894/02/16
掲載回数31 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
英国ロンドン大学
学歴その他
入社16歳満州~
配偶者歯科医娘
主な仕事外国12年放浪、帰国芸者遊びで友人、 昭電疑獄、巣鴨、著作・テレビ、古美術、3悪追放、
恩師・恩人松本譲治 望月圭介
人脈(松本・望月)先生に政財界人を紹介も らう、中野友礼、息子安田善・娘と、
備考父土木 事業家
論評

この人物をご存知でしょうか?私は売春禁止法を成立させた立派な人物と覚えていた。ところが今回、「私の履歴書」文化人で欠落していた人物を縮刷版でコピーを取り、順次読んでいると彼が出てきた。これによると、彼の少年時代は放蕩息子で16歳で満州、18歳で南洋に飛び出し、ゴム農園を興し成功するが、タングステンの密輸に携わるなど非合法的な行為も行う。その後、欧米を見聞し、12年後に日本へ戻る。日本ではゴム貿易で利益をあげたが、その後米相場に失敗し莫大な負債をかかえた。しかし、土地や関東震災後の土木で成金となり政界・財界のフィクサーとなる。
 そして、「三悪追放協会会長を組織し、会長となり売春・麻薬・性病の三悪追放キャンペーンを主唱し売春防止法制定に力を尽くした」とある。しかし、この「履歴書」を読んでいて傍若無人であり下記2例のように文章に品位がない。

1.二次会の触れ込みで大和屋に乗り込む。ところが鬼ババァのような女将が客足悪しと見て、アンドン部屋にしか入れてくれない。それがこっちのつけ目で、きつねうどんを10杯もとってパクつく。芸妓連も腹を空かして集まってくる。それまでして通うわが輩の熱愛に同情した玉代が家に遊びに来い、とのありがたい仰せ。玉代(お線香)はタダだ。

2.女は山に逃げ込むもの、反対にラッキーストライクを追うものとの二派に分かれる。ピストル自殺をしそこなった東条大将に心惹かれながら草刈に身をやつして郷里に落ち延びる東条夫人、片や洋モクでベッドサービスする華族夫人。財閥、大名はいつなんどき財産を没収されるか分からんので先を争って宝物を投売りする。

この文章は、昭和41年(1966)7月1日~7月29日までの連載だったが、この内容をとくとくとして口述筆記させた彼も彼だが、これを文章化して「履歴書」に掲載した日本経済新聞も責任があると思った。禁句となる放送コードがあるのと同様に新聞にもコードがあると思ったからだ。彼は首相であれ財界の一流人物であれ、すべて芦田、東条、西尾、小林、日野原と呼び捨てである。全く品位がない。よくこのような人物を「履歴書」に登場させたものだと嫌な気持ちで読んだ。

1952年

菅原 通済(すがわら つうさい、1894年明治27年〉2月16日 - 1981年昭和56年〉6月13日)は、日本実業家フィクサーとしても有名。名は通濟とも書く。本名は名の読みが(みちなり)。

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