掲載時肩書 | 三菱地所名誉顧問 |
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掲載期間 | 2016/04/01〜2016/04/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1932/09/04 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 大学検定試験 |
入社 | 28歳三菱地所 |
配偶者 | 学習院馬術部 |
主な仕事 | 旧教洗礼、労組委員長、米国留学、NY、総会屋、丸ビル建替、丸の内街活性化、 |
恩師・恩人 | 中田乙一、高木丈太郎 |
人脈 | 北里一郎(柴三郎孫)、遠藤周作、牛島俊郎、鳥海巌、 |
備考 | 諭吉(曽祖父)、11歳~23歳結核・13年間の闘病生活、 |
不動産業界からの「履歴書」登場は、江戸英雄(三井不動産)、森泰吉郎(森ビル)に次いで3人目であった。氏は福沢諭吉の曽孫になる家柄なので興味深く読めた。氏は、中学のとき、結核を患い13年間の闘病生活を過ごす。高校を卒業していないため、「大学検定」試験に合格して、24歳で慶応大学に入学した。三菱地所に入社したのは28歳、通常入社の人に比べて6年も遅れて大企業のトップに登りつめたのだから、才能と人脈が生きたのだろう。
1.交詢社の宴
交詢社は曽祖父の諭吉がつくった日本最古の社交クラブ。戦前は年に一度、6月に福澤家の親戚が集まって昼食や演芸を楽しんだ。親睦会の名前は、諭吉夫人の錦に因んだ「錦(にしき)会」である。就学前の幼いときから親に連れられて出かけた。
見るもの、触るもの、初物づくしである。エレベーターで上層階にあがると、室内ゴルフ練習場があった。食事を終えると、六大学野球のラジオ中継に皆が熱狂した。一緒になって慶応大学を応援した。退屈だったのは、講談。羽織はかま姿のおじさんの話を楽しんでいるのは大人だけだった。
食事は当然のように洋食のコース料理だった。目の前にフォークやナイフがズラリと並んだが、使い方を知るはずがない。水の入った銀の器が出てくると、親から「タケちゃん、その水は飲むものではありません。指を洗うものです」と教えてもらった。
2.米国駐在
1975年1月、私37歳でニューヨークのロックフェラーセンターの1室に赴任した。肩書は「首席駐在員」である。いかにも格好よさそうに思えるが、とんでもない。日本式でいえば、8畳足らずの部屋に一人きり。だから首席であり、末席でもあった。
一言で仕事の内容を表せば、見張り番。三菱地所が現地パートナーと一緒に投資した物件が塩漬けになっており、様子を現地で見てこい、ということである。パートナーは名門証券モルガン・スタンレーの不動産子会社モルスタンだった。投資した土地はフロリダ北部からデトロイト、ヒューストンの郊外、カリフォルニアの砂漠地帯にあるリゾート地まで。開発するどころではない。モルスタンの幹部と広大な投資先物件を上空から見て、写真を何枚も撮って回った。
3.ロックフェラー・グループビル事業の再建
1994年5月の連休明け、高木丈太郎社長から呼び出され、「社長をやってください」と告げられた。地所の歴代社長は総務部出身。私は営業が長く、年齢も60を超えていた。新社長として、やるべきことは明白だった。三菱地所が買収していた米ロックフェラー・グループの再建である。
一年中、観光客が訪れ、クリスマスの季節には名物の大型ツリーが目を釘付けにする。ニューヨーク市マンハッタンの高層ビル群「ロックフェラーセンター」は米国人にとって特別な場所といえる。問題のロックフェラー・グループは、これらの有名なビルの所有者だった。1989年に買収を発表すると、「ジャパンマネーが米国の魂を買った」と騒がれた。
ところがこの後米国で不動産不況が起き、賃料が一気に下落。ロックフェラー・グループは借金の利払いもままならない。社内で関係する部課長を集めて対応の会議を続けた。議論に議論を重ねた末の最終結論は米連邦破産法11条、いわゆる「チャプター11」を使って借金を整理し、出直すことだった。日本でいう民事再生法による法的整理だが、この決定には、ロックフェラー家の子孫で、当主のデービッド・ロックフェラー氏から反対の猛抗議を受けた。しかし、ビジネスは感情や情緒に囚われていたら経営はできない。95年5月に破産法11条の適用を申請し、96年3月期の決算は1200億円の最終赤字に転落した。
4.丸の内界隈の活性化
有楽町から大手町まで含めると、東京ドームなら25個入る丸の内界隈一体(三菱村)を、氏は1990年ごろから老朽化した丸ビル、新丸ビルを建替え、従来のようなビジネス街だけではなく、飲食店やアパレルなど競合店も入れ、外壁や窓の装飾も楽しめる景観に造り変えた。有楽町と丸の内を一体化した音楽祭などの街づくりを進め、活性化に成功した。