江戸英雄 えど ひでお

建設・不動産

掲載時肩書三井不動産会長
掲載期間1980/05/03〜1980/06/02
出身地茨城県作岡
生年月日1903/07/17
掲載回数31 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他水戸高
入社三井合名
配偶者下宿娘(音大・ピアノ)
主な仕事三井合名&物産合併(立役者宮崎基一、秘書成田知己)、三井不動産、桐朋学園、日本交響楽団、野鳥の会
恩師・恩人長岡治男(半太郎長男:仲人)
人脈赤城宗徳(中学1下)小川栄一・法華津孝太・川崎千春・舟橋聖一(水戸高)、萩原吉太郎(三井1先)、塚本憲甫、安西正夫、坪井東
備考地主(杉の大木売りで学費)、松田トシ・妻友
論評

1903年7月17日 – 1997年11月13日)は茨城県生まれ。実業家。三井不動産の復興に尽力し、社長、会長職、初代不動産協会理事長を務めた。また、東京ディズニーランド、筑波研究学園都市の建設にも力を注いだ。三井銀行の小山五郎らと共に戦後解体された三井グループの再結集にも尽力し、70年に亘り三井に奉職。戦前戦後の日本の経済史と共に歩んだ。戦後屈指のディベロッパー(都市開発者)で東京、千葉、茨城に日本を代表するランドマークを残した。財界の実力者だが世話好きとの評価が高い。誰であれ分け隔てなく接し、独自のコネクションを形成したとされる。妻はピアニストの江戸弘子、長女の江戸京子は小澤征爾の元妻。江戸はこの時代の小澤に金銭的な援助を行っていたと言われる。次女の江戸純子(すみこ)と三女の江戸涼子は共にヴィオラ奏者。

1.團琢磨理事長暗殺の当日
昭和7年(1932)3月5日、団理事長が血盟団員菱沼五郎により新築した三井本館の銀行本店玄関入り口(三越側)で暗殺されるという大事件が起きた。団さんは、護衛だけは認めたが、防弾チョッキは重いと言って敬遠、出入りもビル正面から堂々とやっていた。その日の10時が定例理事会の開会時刻で、全員が揃っていたが、団さんは朝寝の方でいつも定時に遅れた。当日は特に遅く、私が午前11時少し前、原宿のお宅に二度目の催促電話をしたあと、まもなく運転手が文書課に転げ込むように入って来て、「だんなさまが今やられました」と叫んだ。私は取るものも取りあえず真っ先に飛んで行ったら、一発で心臓を射抜かれ、既にこと切れていた。
 団さんは直ちに三井本館5階の医務室に運ばれた。急を聞いて、三井八郎右衛門氏、有賀長文氏など合名幹部、池田銀行常務ほか三井各社重役が駆け付けた。混雑を避けるため、外部の見舞客は一切謝絶したが、政友会幹事長をやった犬養毅内閣書記官長森格氏だけが制止をはねのけて飛び込んできた。

2.親会社の三井合名を子会社の物産に合併
戦争時局の重大化に伴い、三井でも軍需産業部門の新設拡充が求められ、増税相次ぎ、三井家の相続問題も続いて起こった。所要資金の額は莫大にのぼった。この情勢に対応するためには、従来の閉鎖的な合名会社組織を根本的に改変し、資金調達の多様化を図る必要があった。池田成彬さんの時代から、北海道炭礦、三井鉱山、芝浦、王子製紙などの株式の相次ぐ大量処分によって応急対処してきたが、南条金雄さん時代の末期には、これを続けること至難の実情になっていた。
 昭和14年南条さんが退陣し、明敏強力な向井忠晴氏が合名理事長となった機会に、我々青年将校は重大決意をもって、ひそかに上司の頭ごなしに向井氏に直訴することにした。私と机を並べていた同僚に慎重で明敏な宮崎基一君がいた。相談の上、彼が一高時代の同窓で当時大蔵省の資金調達課長の迫水久常氏に実情を詳細に打ち明け、協力を要請した。迫水氏は国家的、大乗的立場に立って決断してくれ、当時の臨時資金調整法上、至難かつ最大の問題といわれた三井合名、三井物産合併の内諾を与えてくれた。三井としては画期的な重大問題であるため、内部的に論議が多かったが、時局の重圧と向井さんの強い決断により、親会社の合名を子会社物産に合併させるという異例の形で改組が実現された。
 三菱、住友に遅れること満3年、昭和15年(1940)8月のことだった。私はこの改組で、三井家の事業統括機構として設けられた三井総元方総務部長代理(文書担当)になった。入社後足掛け14年である。

3.しゅんせつ埋立事業に進出
昭和30年(1955)11月に私は三井不動産社長に就任した。創立の昭和16年〈1941当時、資産は三井本館を主とする日本橋室町ビルの他、建物2万坪と兜町の株式取引所一帯、内幸町、神田一円を主とする貸地などの土地約20万坪で、同業三菱地所の五分の一以下の全く小さな不動産会社であった。
 私は、段違いの業礎ではあったが、同業三菱地所が、戦災後のビル不足による需要旺盛の中で、東京ビル、第二丸ビルなどの大ビルを次々に新築し、さらに丸ノ内一帯にある数万坪の土地の赤煉瓦のビルを順次取り壊して、新ビル建設を進めているのを見て、羨ましくてたまらなかった。ビルの新築披露に招待される都度、肩身の狭い思いだった。
 私はかねて、東京通産局長中村辰五郎君(水戸高後輩)らから、資源のない日本経済発展上、鉄鉱石、石油その他大量の原材料受け入れと、製品積み出しのため、大型港湾の造成と海岸工場用地造成、特に京葉地帯の重要性につき進言を受け、密かに研究していた。そこでしゅんせつ埋立事業に進出することにした。昭和31年、千葉県の柴田知事と友納副知事から、五井市原地区120万坪のしゅんせつ埋立につき引き受け依頼があり、進んで応諾することにした。
 当時千葉県は赤字貧弱県で、工事実施の余裕がないため、工事会社がまず漁業補償を支払い、工事を立て替え施工し、進出希望企業に分譲して、工事費を回収する、いわゆる千葉方式によった。この埋め立て事業は、会社としては全く新しい事業で、その進出については反対意見が圧倒的だった。しかし私は、京葉工業地帯開発の将来性と、会社事業展開の血路を拓くため、全く捨て身で敢えてこれに挑戦しようと思った。

4.桐朋学園の手伝い
桐朋学園は、昭和23年〈1948〉の敗戦直後、斎藤秀雄(故人、指揮者)、井口基成(ピアニスト)、吉田秀和(音楽評論家)、伊藤武雄(声楽家)氏など在野の有力楽壇人が、音楽の早期一貫教育を目指し、東京家政学院の焼けビルに発足した「子供のための音楽教室」にその端を発する。小、中学生を集めて土曜日の午後に教育をしていたが、昭和27年から一貫教育の建前から音楽高校が必要になった。先生方や父兄の一部が動いていたが、金なしで既設の学校に結び付けてもらおうという、虫の良い願いだから、戦後の回復に取り組んでいる各校で受け入れるわけがなく、慶応、青山学院などに断られ苦労しているのを見かねて、女房も先生の一人、長女も生徒の一人になっていたので、先生方の活動を手助けすることにした。
 結局、当時教育大学学長で桐朋学園の理事長を兼ねていた柴沼直君に頼み込んで、仙川の桐朋学園女子高校のバラックの空き教室を提供してもらい女子高校主事、生江義男氏の全面協力を得て、音楽高校として発足したのが現在の桐朋音楽大学のルーツである。生江氏は、カネは一文も出せないというので、講師の遠山一行氏の父君、日興証券遠山元一氏(故人)を訪ね、初対面であったが1時間半ほど粘って、結局100万円を出してもらい、あともほとんど私が駆け回って260万円工面した。
 第1回卒業生は49人、うち男性4人、小澤征爾君もその一人、長女京子も参加させた。

えど ひでお
江戸 英雄
生誕 1903年7月17日
日本の旗 日本 茨城県筑波郡作岡村
死没 (1997-11-13) 1997年11月13日(94歳没)
東京都
死因 呼吸不全
墓地 青山霊園
出身校 東京帝国大学法学部
職業 実業家
配偶者 江戸弘子
子供 江戸京子瀬川純子
栄誉 勲一等瑞宝章(1982年)
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江戸 英雄(えど ひでお、1903年(明治36年)7月17日 - 1997年(平成9年)11月13日)は、日本の実業家三井不動産社長を務めた。終生、三井グループに影響力を持ち続け、グループ内で地位の低かった三井不動産を「三井御三家」の一角に押し上げた[1][注 1]。また東京ディズニーランドのオープンに尽力したほか、妻と娘が関わった桐朋学園の発展にも一役買った。

  1. ^ a b 菊地 2019, p. 129.


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