森泰吉郎 もり たいきちろう

建設・不動産

掲載時肩書森ビル社長
掲載期間1991/11/01〜1991/11/30
出身地東京都
生年月日1904/03/01
掲載回数29 回
執筆時年齢87 歳
最終学歴
一橋大学
学歴その他大倉商業
入社関東学 院講師
配偶者医師娘
主な仕事京都工芸繊維大、横浜市立大で教鞭、 ビル事業、アークヒルズ、ラフォーレ修善寺、インテリジェントビル、森記念財団、
恩師・恩人上田貞次郎、坪井東、三宅晋、
人脈山田雄三、茂木啓三郎、水上達三、馬場彰、山﨑富治、大平正芳、川村勝巳、月形龍之介
備考クリスチャン、経営方針「三方三両得」
論評

1904年〈明治37年〉3月1日 – 1993年〈平成5年〉1月30日)は東京生まれ。実業家、経営史学者。森ビルおよび森トラスト・ホールディングスの創業者。学者として横浜市立大学で商学部長・教授などを務めたが、学長選挙に出馬した結果学内抗争に巻き込まれ退職した。高度経済成長や都市集中のトレンドをうまく捉えて小規模な家業を行なっていた会社を大企業に成長させる事に成功した。長期保有を前提として虎ノ門周辺に一極集中して土地を買い集め、街の魅力を高めるために積極的に地域全体のデザインに取り組んでいった。また再開発事業にあたっては地権者全員の同意を得ることを重視し、典型的な例として赤坂アークヒルズは完成までに20年の月日をかけている。1986年には森ビルの所有する賃貸ビルとその延床面積は73棟、約100万平方メートルに達し、不動産業界で3位の規模になった。

1.勉強会2つ
昭和3年(1928)に東京商大本科を卒業し、関東学院講師を経て昭和5年に大倉高等商業学校の教師になった。ここでも蚕糸産業を中心に「日本経済史論」を専門にした。上田貞次郎先生との関係では、卒業後も「上田背広ゼミ」というのが始まった。大学を出た後も研究を続けたいOBを集めて週に一回、研究報告などをしていた。また、ゼミの先輩で後に一橋大の学長になられた山中篤太郎さんの紹介で蠟山政道先生が代表の東京政治経済研究所に入った。
 この研究所は政治・社会思想を勉強し、「世界政治経済年鑑」などの本を出している。加えて一級の人材が集まっているものだから、当時の政府部内や世界の最先端の動きがよく話題になった。僕は上田背広ゼミで経済・経営、蝋山さんの研究所で政治・経済、と両方に顔を出していたので、当時としてはかなりのレベルの高い視野で研究ができたと思っている。

2.経営方針は「三方三両得」
「第一森ビル」はやはり森ビル事業の原点だ。特に地上げは森ビル式地上げの基本を経験し、その後、赤坂・六本木再開発の「アークヒルズ」などでも役立った。僕が京都から帰ってきて「いずれビルを建てますので、よろしく」と頼み、「その時は協力します」という意味の証文をそれぞれから取っておいた。後は親類付合いのように親しくさせてもらって「いざ着工」に備えていた。これで比較的スムーズに地上げが可能となる。
 この第一森ビルの地上げで、ゴー・スローの方針を学んだ。地上げは急がないでゆっくり取り組む。この間、地権者、借地権者、借家人などの権利者のみなさんには誠意を尽くし、信頼を得る努力をする。そうするといろいろな理由で向こうからチャンスが飛び込んでくる。その時、力を出すわけだ。僕は地上げは落語の「三方一両損」ではなく「三方三両得」でなくてはいけないとも思っている。権利者と開発業者の森ビル、地域という意味の公の三者がかなり得しなくては本当の地上げではないという考えだ。

3.森ビル設計の基本
僕がビル設計の条件としているのはコストはもちろん、使い心地、見栄えに加え、地震で東京中のビルが倒れても一番最後に倒れるような構造だ。建築家の三宅晋さんはこの要求に応えてくれている。
 中でもビルにコア部分をつくったのは秀逸だった。この当時までビルの中心部は吹き抜けが普通だった。そこで吹き抜け部分をコアにし、エレベーターやトイレなど共用設備を配置する。構造上、壁にも強度を持たせて鉄鋼を減らす。そうすることで有効スペースが増え、賃貸収入も増えるというわけだ。コア方式などはその後の新しいビルに普及し、今では一般的になっている。
 空調では、菱和調温という空調工事会社にやってもらった井戸水循環方式が面白かった。ビルの地下に井戸を掘って井戸水を使う。井戸水は冬温かく、夏冷たいのでクーリングタワーも要らない。冷暖房費は普通のビルの半分もかからなかった。もっとも昭和44年(1969)には規制され、この方式は使えなくなった。

4.僕の願い「都市づくりの総指揮者を目指す」
森ビル式地上げはビル建設の初めから、様々な権利者とじっくり交流しながら進めることを基本としてきた。そんな姿勢が大規模開発ではより重要になる。組合方式で皆と一緒に取り組むことが前提となる。ひとり、一企業ではできないということがはっきりと分かったのだ。
 権利者の他にも、仕事をする相手は設計者から建設・工事会社、銀行、役所、入居者とたくさんいる。二十世紀最後の10年に入った現代は情報、デザイン、ハイテク、アメニティと、様々な要素が入り込み、そういう関係者とも一緒に仕事をする必要がある。森ビルは都市づくりの総指揮者を目指す。これが僕の願いだ。

もり たいきちろう
森 泰吉郎
生誕 1904年明治37年)3月1日
日本の旗 日本 東京
死没 (1993-01-30) 1993年1月30日(88歳没)
出身校 東京商科大学(現一橋大学
職業 実業家
経営史学者
大学教員
影響を受けたもの 上田貞次郎
純資産 130〜150億ドル(1991年・1992年世界長者番付1位)
子供 森敬(長男・慶應義塾大学理工学部教授)
森稔(次男・森ビル社長)
森章(三男・森トラスト・ホールディングス社長)
森洋子(義娘・明治大学理工学部教授)
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森 泰吉郎(もり たいきちろう、1904年明治37年〉3月1日 - 1993年平成5年〉1月30日)は、日本実業家経営史学者。森ビルおよび森トラスト・ホールディングスの創業者。学者として横浜市立大学で商学部長教授などを務めたが、学長選挙に出馬した結果学内抗争に巻き込まれ、地方公務員法の兼業禁止違反として退職した。

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