掲載時肩書 | 歌人 |
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掲載期間 | 2008/10/01〜2008/10/31 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1928/01/05 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 八高 |
入社 | クリスチャン |
配偶者 | |
主な仕事 | 風景・心象(前衛)短歌、医療と両立、 現代短歌論、大学教授、歌会選考員、 |
恩師・恩人 | 杉浦明平 |
人脈 | 柴生田稔、近藤芳美、塚本邦雄(8上)、寺山修司(7下)、金子兜太、浜本芳子、俵万智、 |
備考 | 父茂吉門下 |
1928年(昭和3年)1月5日 – 2020年(令和2年)7月10日[1])は愛知県生まれ。日本の歌人・詩人・文芸評論家。未来短歌会発行人。日本藝術院会員。塚本邦雄、寺山修司とともに前衛短歌の三雄の一人。。父も「アララギ」の歌人である傍ら、日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)の技術者で、後に専務取締役も務めた。旧制愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)、旧制第八高等学校、慶應義塾大学医学部卒。医学博士の学位を取得。内科医師として、国立豊橋病院内科医長などを歴任した。
1.私の短歌づくり60年間の遍歴
(1)1945~70年の25年間。この間に「アララギ」に入会して、短歌の基礎を学んだ近藤芳美らと「未来を創刊。その後、前衛短歌運動に参加、塚本邦雄、寺山修司らと交らう。1950年慶応大学医学部に進学し名古屋を離れた。以後20年間東京に住む。
(2)1950年、いくつかの動機により東京を去り、九州に行き、短歌を5年間止めていた。1990年まで豊橋や名古屋を中心に中部圏で文学活動をした。
(3)1990年から現在80歳まで。再び東京を中心に、歌壇を超えた広い分野で活動。NHKテレビの短歌番組の選者や短歌通信講座の監修者となった。2007年から宮内庁の御用掛となり皇族方たちの和歌について御進講を申し上げる。
2.敬愛する柴生田稔氏
1947年学生の私は上京して柴生田さんの家(小金井にあった)を訪ねて、短歌についていろいろと教えていただいたことがある。あのころは、尊敬する「アララギ」の先輩の家を訪ねて、相手の迷惑を顧みず、深夜まで粘って、話を聴いた。その夜も、結局は、夜が明けるまで、徹夜して話し合った。私は19歳で、柴生田さんは43歳、相手は斎藤茂吉先生の高弟の一人である。それでも、別に遠慮することなく話し、その熱心さとか敬意を喜んで受け入れて下さった。世の中の流れも今よりもはるかにゆったりと流れていた。
3.杉浦明平と近藤芳美
この二人は「戦後アララギ」の生んだ二卵性双生児であった。どちらも土屋文明門下の歌人として出発した(生まれも同じ1913年である)。二人とも、杉浦は主として評論家として、近藤は歌人として「アララギ」を改革しようとし、短歌を「第二芸術論」に耐えられるような詩型にまで鍛え直そうとした。
私が杉浦明平に初めて会ったのは、1947年春ごろだった。西三河で開かれた「アララギ」の歌会の席だった。土屋文明が呼ばれて出席していたから大勢の「アララギ」会員が集まった。私の出した歌は、旧制高校の寮生活、それも物資不足のさびしい生活を歌ったものだったが、それはそのころ若者の間で流行していた近藤芳美の作風の模倣であった。私は、模倣が創造の第一歩だという鉄則を今でも信じている。若い私の模倣は、今見ても下手ではなかった。
ところが、文明の弟子たちには、この新興の近藤芳美調が気にくわなかった。かれら(といっても20も30も年上の歌人たち)は、私の歌を非難した。ところが、である。文明先生は私の歌を褒め、並み居る古い弟子たちをたしなめたのである。そして、そのあとについて明平さんが褒めてくれた。「これは、お父さん(私の父)よりも巧いや」と言ったのであった。
4.地方で小雑誌発行
私は、短歌教室で教えているうちに、この土地に住む主婦たちと知り合いになった。この人達は短歌についてはほとんど素人に近かったが、教養もあり意識も高く、何より熱心であった。この人達と一緒に作った「ゆにぞん」という小雑誌は、評論とエッセイ中心のきままな雑誌だったが、87年に、俵万智の「サラダ記念日」が出て、いわゆる俵万智現象がおきると、すばやくその動向を捉えて、尖鋭に動き出した。「ゆにぞん」の中心人物は浜本芳子さんであった。
浜本さんの張っていたアンテナは鋭敏で、いち早く俵さんを招んでシンポジュウムを開いたり、北川透に俳句の坪内稔典を加えて私と3人で毎年のように研究集会を開いたのである。
氏は、’20年7月10日92歳で亡くなった。この「履歴書に登場は‘08年10月の80歳のときでした。この「履歴書」に登場の歌人、俳諧人は、荻原井泉水(1957.2)、吉井勇(1957.4)、富安風生(1961.5)、川田順(1962.3)、水原秋櫻子(1963.7)、窪田空穂(1966.3)、山口誓子(1966.3)、中村汀女(1972.5)、金子兜太(1996.7)、森澄雄(2007.8)に次いで氏の11人が選ばれている。
氏の作風と主義(斎藤茂吉らから実景再現を学ぶ)
氏は、物や事が向うに確かに存在し、それを主として視覚的に把握して、歌にするという技術を習得しようとした。これを一言でいえば、言葉によるデッサンである。今でも毎日言葉によるデッサンをくり返していると。自然にせよ、心理にせよ、そこに描くに足りる相手ある限り、それを短歌の形に収めようとする。うまくいけば単純に喜び、失敗すれば何度も書き直す。これは一種の職人芸といえる。アルチザン(職人)という言葉があり、アーチスト(芸術家)と対比されることがある。氏は、一芸を技術的に磨き上げたいという志において、アルチザンに徹したいと願った。だから、基本的な技法をマスターするために修業をし、その上に立って、あらゆる技法を模索し続けることが理想であった。いい歌人であるといわれるより、技の巧みな歌人と言われることを誇りとしたいのであると書いてある。
氏は「歌人が医者になった」のだと
氏は、1950年に慶応大学の医学部に入学した。一年留年したが卒業して医者になった。しかし、短歌「アララギ」は10代からの学校みたいなもので、こちらの方が先だった。そこで、よく人から訊かれるので「ぼくは歌人になるのが先だったので、いわば歌人が医者になったんだよ。医者が歌を作ったというのではないよ」と応えていた。
しかし、科学(医学)は理論を立て、仮説→実験→再仮説→再実験というプロセスが好きであった。この科学的手法を文学に持ち込み、短歌の理論的著作である「短詩型文学論」(金子兜太と共著)を上梓したのだった。
文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真 | |
誕生 | 1928年1月5日 日本愛知県名古屋市 |
死没 | 2020年7月10日(92歳没) 日本東京都武蔵野市 |
職業 | 歌人、詩人、文芸評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学医学部卒業 |
活動期間 | 1946年 - |
ジャンル | 短歌 |
主な受賞歴 | 愛知県芸術文化選奨文化賞(1980年) 迢空賞(1983年) 斎藤茂吉短歌文学賞(1990年) 現代短歌大賞(1995年) 紫綬褒章(1996年) 詩歌文学館賞(1999年) 毎日芸術賞(2000年) 旭日小綬章(2004年) 読売文学賞詩歌俳句賞(2005年) 藤村記念歴程賞(2007年) 小野市詩歌文学賞(2009年) 高見順賞(2010年) 短歌新聞社賞(2011年) 文化功労者(2016年) 旭日中綬章(2020年) |
所属 | 未来短歌会 |
岡井 隆(おかい たかし、1928年(昭和3年)1月5日 - 2020年(令和2年)7月10日[1])は、日本の歌人・詩人・文芸評論家。未来短歌会発行人。日本藝術院会員。塚本邦雄、寺山修司とともに前衛短歌の三雄の一人。2016年文化功労者選出。従四位叙位、旭日中綬章追贈。
17歳から歌作を始め、「アララギ」に参加。慶大医学部卒業後、内科医のかたわら、歌人として活躍する。浪漫的歌風の生活詠から次第にナショナリズムに傾き、先鋭的な思想性を短歌に導入し、前衛短歌運動の先頭に立った。一時は文学活動を停止したが、歌集『鵞卵亭』(1975年)を刊行して復帰。作風は柔和に転じた。著作に『海への手紙』(1962年)、『茂吉の歌私記』(1973年)などの評論、『岡井隆の短歌塾 入門編』(2012年)など入門書も多い。