水原秋櫻子 みずはら しゅうおうし

文芸

掲載時肩書俳人
掲載期間1963/07/25〜1963/08/15
出身地東京都
生年月日1892/10/09
掲載回数20 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社医師
配偶者教授娘
主な仕事落語、古典芸能、絵、短歌、俳句、 基礎医学血清、日本医専教授、ホトトギス、馬酔木
恩師・恩人高浜虚子、松根東洋城
人脈恩地孝四郎、渋沢秀雄、佐藤喜一郎(野球)、城戸四郎、緒方春桐、山口誓子、石田波郷、加藤楸邨
備考宮内省侍医寮御用係
論評

1892年(明治25年)10月9日 – 1981年(昭和56年)7月17日)は東京生まれ。俳人、医師・医学博士。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。「馬酔木」主宰。1928年に昭和医学専門学校(現・昭和大学)の初代産婦人科学教授となり、講義では産科学を担当、1941年まで務めた。また家業の病院も継ぎ、宮内省侍医寮御用係として多くの皇族の子供を取り上げた。

1.一高野球部
私は二浪をして一高に入ったが、寄宿寮に入ってから2、3日すると、野球部の練習に加わることを勧められた。私の野球は中学でも正式に練習したものではないから、恐る恐る運動場に行ってみると、先輩が5,6人いて指導してくれた。10日ほどするうちに、私は正式に三塁を守ることになった。どうして抜擢されるのか不安だったが、そのうちにいろいろ事情が分かってきた。選手の中で退部する人が多いため、新しいものを入れぬと数が揃わないのである。その頃は9名のほかに補欠1名、つまり10人で部は組織されていた。むろん投手もひとりである。
 投手と遊撃手との他はすべてミットを使うこと、靴を履かずに足袋裸足であること、片手捕りは絶対に許されず、野手の下手投げも許されぬことなどである。このうち片手捕りを許されぬことは直ちに理解できるけれど、野手の下手投げが許されぬのは困るし、それよりも足袋裸足というのが一番閉口した。

2.ホトトギスとの分岐点
大正から昭和に移るころ、俳句会にも目に見えぬような波が立ち始めていた。「ホトトギス」は大きな結社であるから、所属する作者を間違いのない方向に導くために、わかり良い指導方針が定められねばならない。そのために繰り返し「客観写生」ということが言われるのであって、特に「写生」の上に「客観」と冠してあるのは、つまり主観的の方向に向かうのは危ないと注意しているわけであった。
 しかし、元来俳句は作者の主観を尊重すべきもので、短詩ながら人を牽きつけるのは、その主観の力なのである。ただし主観を表面に押し出せば句はたちまち浅薄なものになってしまう。そこで表面にはただ目に見えたままを描き、主観はこれを句の調べに托してあらわす・・これが本当の写生というものだと考えた。
 虚子先生は無論これを承知しておられ、そこで新しく「花鳥諷詠」という標語が設けられた。これはいままでの「客観写生」と大差ない内容のものである。ところが「ホトトギス」の多くの人は、この標語によって、新しい進路が開けたように感じたのか、経文でも唱えるように「花鳥諷詠」が唱えられ、俳句の傾向はただ対象を細かく描くという方向に動いて行った。私たちの進んで行きたいと思っていた方向とまったく反対に向かう動きである。これが分岐点となり私は「ホトトギス」から「馬酔木」へと移っていった。

3.その後の「ホトトギス」と「馬酔木」
昭和7年(1932)の春、宮内省侍医寮御用掛を仰せつけられた。大宮御所奉仕で、常時は何も御用はないのであるが、責任は重大であった。それに一週に一度宮内省病院に出勤するので、ますます多忙になったわけだが、体の調子は良くて殆ど病気をしたことはなかった。「馬酔木」は順調に進んだ。前からいた滝春一、篠田悌二郎、高屋窓秋の諸君もよく勉強したが、少し遅れて入った石田波郷、加藤楸邨の二人が大きく育ってくれた。
「ホトトギス」も相変わらず盛んであった。中村草田男、松本たかし、川端茅舎三君のような良い作者がいたからである。「馬酔木」の若い人たちもこういう目標を得て勉強のし甲斐があったともいえようか。そのうちに昭和13年(1938)の春、山口誓子君が「馬酔木」に加わることになり内容も次第に充実して180ページほどのものが出せるようになった。

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