荻原井泉水 おぎわら せんせんすい

文芸

掲載時肩書俳人
掲載期間1957/02/19〜1957/03/06
出身地東京都
生年月日1884/06/16
掲載回数15 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社
配偶者記載なし
主な仕事一高俳句会、「層雲」、自由律俳句、奥州巡礼「奥の細道評論」「一茶真蹟全集」、四国巡礼、「国詩」
恩師・恩人元良勇次郎 、原勝郎
人脈正岡子規、碧梧桐、啄木、如是閑、久米、滝田樗蔭、(尾崎放哉・阿部能成・中勘助)一高、与謝野、牧水、白秋、
備考全国遍路
論評

1884年(明治17年)6月16日 – 1976年(昭和51年)5月20日)は東京生まれ。自由律俳句の俳人、俳論家。「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。1911年(明治44年)新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。河東碧梧桐もこれに加わる。この年、谷桂子と結婚。1914年(大正3年)自由律俳句として層雲より創刊した初の句集『自然の扉』を刊行。1915年(大正4年)季語無用を主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した井泉水と意見を異にした碧梧桐が層雲を去り「海紅」を主宰、袂を別つ。

1.ゲエテと俳句
一高で落第して以来、ぷっつりと手を切っていた俳句熱が帝大時代に再発した。大学では試験という脅威は全くなく、出席、欠席も自由だし、下谷の下宿は根岸の碧梧桐庵に近いということなどから「日本俳句」を中心として句作に愛着した。碧梧桐に勧められて「日本及び日本人」のために、ゲエテのことを書きだした。
 ゲエテと俳句と、この突拍子もなく無関係のものが私の心の中では融和されていた。ゲエテの自然観、人生観、詩、ことに短詩(エピグラム)からの示唆が私に日本特有の俳句というものの精神に新しい感度を与えた。私は碧梧桐から、句作の技術については弟子として教えられたが、俳句文学の新しい理論、俳句の新しい開拓については多くの献言をした。当時の私はまだ俳句を専業とする意思は少しも持っていなかったので、全くカゲの人として自任していた。
 そのうちに私たちの俳句の新しい制作意欲が全国的に盛り上がって「新傾向運動」というものになった。明治という時代も終わろうとする時は小説にも詩にも短歌にも、そして俳句にも春風に誘われて百花が一時に開くという機運が到来したようである。

2.碧梧桐との分岐点
私が「層雲」を創刊したのは明治44年(1911)、今から46年の昔である。この創刊号の巻頭には「自由」を載せて、われわれの文学的志向を明らかにした。私は「俳壇最近の傾向を論ず」を連載した。私が表面に出て俳論を書いたのはこれが初めてである。私は既成の俳句界を全く無視した。むしろ詩壇と短歌壇に目を付けた。石川啄木は朝日新聞に入社した当時でまだ無名だったが、私は啄木に加盟をこうた。啄木は喜んで寄稿してくれた。
 また「層雲」には、歳時記を科学的に検討するために、その資料を連載した。井上敬道その他の学者が協力してくれた。これが後に「季題」の揚棄ということに発展した。季節感を否定するのではない。俳句制作上の約束としての「季題制度」は無用である。季題を含まない俳句も、俳句として成立するという考えだ。この点で、碧梧桐との考えの食い違いが始まった。

3.尾崎放哉
彼が彗星の如く京都に現れたのは、私が橋畔亭に移ったとき、大正最後の時代だった。放哉は安倍能成、中勘助の諸君とともに私とは一高時代の同級(落第後)だった。大学を出ると、東洋生命保険会社(朝日生命保険の前身)に入り、後、朝鮮海上保険会社の支配人となったが、社会生活に対する不信から、孤独にして人生の真実を求める生活に入った。
 私と会って旧交を温めたことから、学生時代以来好きだった俳句熱が再燃した。彼は寺男にでもなって静かに句作したい気で須磨寺に入った。だが、私と同じように、お寺の内幕を知って愛想をつかした。離れ島の小さなお寺でも、というので、私は小豆島の西光寺を紹介した。彼はそこの南郷庵で、無一物中無尽蔵の心境に徹した。―「いれ物はない両手でうける」というーこのごろは小豆島観光のバスガールも伝えるそうなーこの句を残した。大正が昭和にうつる年の春、放哉は没した。

荻原 井泉水
誕生 荻原 藤吉
1884年6月16日
東京市芝区神明町
死没 (1976-05-20) 1976年5月20日(91歳没)
職業 俳人
最終学歴 東京帝国大学文科大学言語学科卒業
代表作 『皆懺悔』(1928年)
『原泉』(1960年)
『長流』(1964年)
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荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年明治17年)6月16日 - 1976年昭和51年)5月20日)は、日本自由律俳句俳人、俳論家。「層雲」を主宰、尾崎放哉種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉日本芸術院会員。

東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。

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