小澤征爾 おざわ せいじ

芸術

掲載時肩書指揮者
掲載期間2014/01/01〜2014/01/31
出身地中国奉天
生年月日1935/09/01
掲載回数30 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
桐朋学園大学
学歴その他成城高
入社弟子生活
配偶者江戸京子 入江美樹
主な仕事ラグビー、ピアノ→指揮者、パリ、NYフィル、ボストン、日本フィル、斎藤記念、ウイーン、
恩師・恩人豊増昇、斎藤秀雄、 カラヤン
人脈山本直純、江戸英雄、水野成夫、バーンスタイン、井上靖(仲人)、イサムノグチ、流政之、武満、森英恵(入江側仲人)、
備考オートバイで指揮者コンクール欧州行脚、
論評

最近になく面白くて痛快な「履歴書」でした。若いとき、指を大切にしなければならないピアニスト希望が、怪我の多いラグビーが好きでのめり込む。しかし、指の骨折でピアニストを諦めたとき、音楽が好きなら指揮者になれと勧めてもらった。桐朋学園で恩師の斎藤秀雄先生に指揮を教えてもらうが、先生が教えたかったベートベン第9番を受けずに24歳で欧州に単独バイクの武者修行に出かける。この無一文渡航に水野成夫(フジサンケイ)、江戸英雄(三井不動産)、遠山元一(日興証券)などが資金提供をする。現地での窮状の際も、井上靖(作家)、小林秀雄(評論家)、ノグチイサム、流政之(彫刻家)など有名人が影にひなたに応援している。これは彼の才能と人柄が素晴らしかった証拠となる。

1.カラヤン先生と斎藤秀雄先生
師匠のカラヤン先生に教えてもらい指揮者としての実績と名声を上げていたとき、確執のあった斎藤秀雄先生から、「お前も横に振れるようになったな」と褒められ、「勘当が溶けた」と感じた。「指揮で横に振る」というのは、ニュアンスを出すとか、曖昧な部分を表現することだという。指揮者は縦だけのタクト振りでは一人前ではないのだと分かった。

2.西洋と日本音楽の融合
西洋と日本音楽の融合を考えていたとき、武満徹氏に出会い、「ノヴェンバー・ステップス」の作曲が生まれた。これをニューヨーク交響楽団で演奏したとき、「静かなオーケストラパートの後、小刻みに震える尺八に、切っ先鋭い琵琶。ニューヨーク・フィルの連中が息を潜めて耳を澄ませている。指揮台の僕も興奮が収まらない。最後の尺八の音が消えたとき客席から「ブラボー!」の声が湧いた。大成功だった。

3.江戸英雄さん
多くの人に応援してもらった彼だが、私(吉田)は江戸英雄さんが印象に残る。彼の渡欧に資金面で支援し、娘・江戸京子さんの結婚に当初反対しながらもこれを許し、二人の離婚後も彼を「息子」として支援し続けた人であった。ファッションモデルで有名だった入江美樹さんと結婚し、師匠のカラヤンさんを真似たところがあったが、華やかな指揮スタイルは音質の高さと相まって日本人が誇る世界的な指揮者となっている。この彼が、今では若手育成のため、各地の小・中学校や地方楽団の指揮もしている。胃がんの手術後、体力は確実に落ちているがこの貢献には頭が下がる。今回の文章は軽快なテンポで音楽の理解も深い素晴らしいデキなので、パートナーとなった日経の担当記者に拍手を送りたい気持ちになった。

追悼

氏は2024年2月6日に88歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は14年1月で79歳のときでした。多くの人から尊敬され、敬愛されていた小澤さんに哀悼の意を評される人たちを翌日のテレビや新聞で見られました。氏の人徳を表していました。この「履歴書」の初日に下記の如く書かれていました。

1.指揮者として
2009年の12月、人間ドックで食道がんが見つかった。摘出手術は無事に成功したが、その新しい体に慣れるのに時間がかかった。音楽監督をしていたウィーン国立歌劇場の仕事もキャンセルしなきゃいけなくなった。体力を取り戻すのに、思いのほか骨が折れた。
 それでもいざ指揮台に立てば体調のことなんか全く忘れてしまう。翌年の12月、ニューヨークのカーネギーホールでの復帰公演。サイトウ・キネン・オーケストラとベルリオーズの「幻想交響曲」を演奏した後、楽屋に戻った途端に意識を失った。3日後、ブリテンの「戦争レクイエム」を何とかやり通したが、肺炎を引き起こしてしまった。その後も体調不良で指揮をキャンセルすることが度々あって、とうとう12年3月から1年間、休養に専念する羽目になった。たくさんの人に迷惑をかけてしまい、申し訳なくて気持ちが沈んだ。
 でも悪いことばかりではなかった。おかげで音楽を勉強する時間がウンとできた。昔のことを思い出すゆとりも出てきた。家族や親しい仲間と昔話をしていると、思い出が次から次へと溢れてくる。ずいぶん多くの人に助けられてきた。改めて気付いた僕はお世話になった人たちに感謝したくなって、久しぶりに電話したり、会いに行ったりした。
 だいたい指揮者という商売は、自分一人ではどんな音だって出せない。演奏家や歌い手がいて初めて音楽が生まれる。宿命的に人の力がいるのだ。どんな人たちに支えられてきたか。その恩人たちを紹介するのが僕の「履歴書」なのかもしれない。このごろ物忘れがひどくて、よく「アレアレ」「ホラホラ」なんて言っている僕でも、子供のころのことは鮮やかに覚えているから。

*日本経済新聞 「評伝」2024.2.10
指揮者は自分で音を出すわけではない。作曲家の意図を研究して演奏家に伝え、音楽を聴衆に届ける。小澤さんは、そのときのコミュニケーション能力が傑出していた。自身も認めていたが、語学はさほど得意でない。若いオーケストラとのリハーサルを見学したことがあるが、小澤さんの指示は簡単な英語に身ぶり手ぶり、そしてユーモラスな表情を組み合わせたもの。ライオンのような髪を揺らしながらの生き生きした指示を見聞きするだけで楽しいのか、若い奏者たちの表情がみるみる明るくなり、音楽も豊かに鳴った。
気難しいといわれる音楽家も「小澤さんとなら」と共演した。2015年9月1日、小澤さんの80歳の誕生日の「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」のバースデーコンサートでは、ベルリン・フィルやウィーン・フィル、ボストン交響楽団などの奏者がこぞって祝福のビデオメッセージを寄せた。23年の同フェスでは「スター・ウォーズ」などの映画音楽を作ったジョン・ウィリアムズが「セイジのために」と、91歳で来日した。時代に背を押された面はある。シャルル・ミュンシュ、バーンスタイン、カラヤンほか20世紀の巨匠たちにかわいがられた。「僕は運が良すぎ」と自身も語っていた。高度経済成長やバブル景気などで日本が世界から注目された時代とも重なり、ついにはウィーン国立歌劇場音楽監督という、クラシック音楽界の最高峰ともいえるポストを手にした。とはいえ、1959年に単身で欧州に渡った無名の日本人指揮者にどれだけの苦労があったことか。「僕は天才じゃない」が口癖で、睡眠を削って楽譜を読み込んでいるのに「みんな僕は勉強しないと思ってるの」と冗談交じりにこぼした。
近年は車椅子で、身体もあまり動かせなかったが、指揮への意欲は衰えなかった。22年11月にはサイトウ・キネン・オーケストラを指揮し、国際宇宙ステーションへ演奏を届けた。日本と欧米、クラシックと映画音楽などさまざまな壁を突き破った人だが、地球と宇宙の間の壁も越えた。聴衆もスポンサーも一人で集める力があった小澤さん。そんな突出した存在を失って、日本のクラシック音楽界は今後、自分たちの存在価値を社会にどうアピールするかという課題に向き合うことになる。(編集委員 瀬崎久見子)

小澤 征爾
2015年
基本情報
出生名 小澤 征爾
生誕 (1935-09-01) 1935年9月1日
満洲国の旗 満洲国 奉天省奉天市
(現:遼寧省瀋陽市)
出身地 日本の旗 日本
死没 (2024-02-06) 2024年2月6日(88歳没)
日本の旗 日本 東京都世田谷区
学歴 桐朋学園短期大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
活動期間 1959年 - 2024年
配偶者 江戸京子(1962年 - 1966年)
入江美樹(1968年 - 2024年)
著名な家族 父:小澤開作
兄:小澤俊夫
弟:小澤幹雄
長女:小澤征良
長男:小澤征悦
公式サイト セイジ・オザワ 松本フェスティバル

小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年昭和10年〉9月1日 - 2024年令和6年〉2月6日)は、日本の男性指揮者。1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間[1]務め、2002年 - 2003年のシーズンから2009年 - 2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員[2]ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ボストン交響楽団桂冠音楽監督、セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督、小澤征爾音楽塾塾長・音楽監督、新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者など[3]

  1. ^ 日本経済新聞「理想追い 曲折の29年間 時に反目、洗練と重みに磨き」
  2. ^ Liste der Ehrenmitglieder der Wiener Staatsoper
  3. ^ 「小沢征爾さん ウィーン・フィル名誉団員に 「どんな勲章よりうれしい」」『読売新聞』2010年11月3日 東京朝刊 33頁。
[ 前のページに戻る ]