大島理森 おおしまただもり

政治

掲載時肩書前衆議院議長
掲載期間2023/09/01〜2023/09/30
出身地青森
生年月日1946/09/06
掲載回数29 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他八戸高校
入社毎日新聞
配偶者記載なし
主な仕事県会議員、衆議員、河本派、議院運営委員、官房副長官、国対委員長、初入閣、副総裁、衆院議長
恩師・恩人河本敏夫、坂本三十次
人脈二階俊博、海部俊樹、小沢一郎、森喜朗、高村正彦、麻生太郎、安倍晋三、漆原良夫、谷垣禎一、町村信孝
備考父:県会議員
論評

氏は政治の特に議会運営の裏面史を詳しく紹介してくれていた。「私の履歴書」に既に登場している村山富市河野洋平宮澤喜一細川護熙森喜朗高村正彦ら諸氏の記述と重なるところがあり、興味深く読むことができた。

1.政治は信頼の上に築く
国会議員を38年近く務め、衆議院議長にも任じられたが、決して華々しいものではなかった。国会対策政治を悪いイメージで語られると、少し反論したくなる。正しい政治判断と思っても絶対はない。直ぐに受け入れられるとも限らない。相手の言い分をとことん耳を傾け、納得してもらう。そうした作業は民主主義の重要な過程だ。約束したことは守る。嘘は言わない。相手から日頃から信頼関係を築いておく。そう努力してきた。しかも、人間は理だけで動くものではない。そこにはどうしても情念も動く。だが、情念だけで行動すると、今度はその後始末に苦労することになる。最後は大局を見て、道義に従って行動するしかない。政治の道は日々、そのことを自問自答して決断を下すという大変な作業だと思う。

2.小選挙区比例代表並立制の政治改革
この政治改革の実現を掲げた羽田孜さんや小沢一郎さんは、細川護熙さんを擁立して8党派連立に成功した。自民党は初めて野党に転落して虚脱状態に陥った。敗北の責任を負って辞任した宮澤喜一さんの後任の総裁には河野洋平さんが選ばれた。私は末席の自民党副幹事長に就任し、森喜朗幹事長に仕えることになった。政治改革関連法案は衆院を通ったものの、参院では社会党から造反が出て否決された。
 94年1月、細川さんと河野さんのトップ会談が開かれた。
 「政治改革の議論を始めて4年になる。ここで結論を出して欲しい」。先立つ自民党の役員連絡会議で、下っ端ながら思い切って発言した。私ごときの発言で党の方針が決まったわけではないだろうが、河野さんはそれらを勘案し、大きな決断をしてくれた。トップ会談で「法案を修正の上で賛成する」と表明した。小選挙区比例代表制への移行が決まった。
 この法案は、海部内閣から引き継いだ責任のように感じていたし、政治の道に入ったときから政治の信頼の回復を訴え続けてきた。政治改革の片隅に参画させてもらえて感慨深かった。

3.派閥の功罪
2012年9月、自民党総裁が谷垣禎一さんから安倍晋三さんに交代したのに伴い、私は副総裁を退き、三木武夫、河本敏夫の歴代派閥会長の大島派会長となった。
 衆院に小選挙区制が導入されて自民党の同士討ちが無くなり、派閥は大きく変化した。かっては一致団結箱弁当を合言葉にした派閥もあったが、現在はそこまでの強い結びつきはない。総裁選になると、それなりに影響力を発揮するが、日常の活動で派閥の存在を意識することは少なくなったと思う。
 最近の議員は派閥での付き合いと別に、志の合う仲間と議員連盟をつくり、勉強会を催し、幅広く交遊している。私自身は派閥が全くいらないとは思わない。現在の役割は何か。情報交換、政策の勉強、共助と競争、人材発掘。そして人事の調整もある。

4.衆院議長の役割
2015年4月、安倍晋三首相から電話があり、体調不良の町村信孝さんに代わって議長を引き受けることになった。日本の議長の役割は国会法で定めてある。①議院の秩序の保持。②議院の議事の整理と事務の監督。③議院の最高責任者であり、その代表者。この3つだ。英国議会に近い。与党が議長、野党が副議長を出す慣例になっており、公平公正という立つ位置が求められる。中立である議長は与野党の相談も受ける。議院の代表者としての仕事としては議員外交がある。議長を務めた6年半の外国出張は11回にのぼった。代表的なものとしては、主要7か国(G7)による下院議長会議ある。議長になった15年はドイツの開催だった。

5.天皇生前退位
2016年8月、天皇陛下(現・上皇さま)がビデオメッセージを公けにされた。生前に退位されたいとの意向は前月のNHKの報道で初めて知り、驚いた。衆院議長は国会開会の際に天皇をお出迎えし、閉会後には上奏をする。三権の長の一人として皇居に参入する機会も少なくない。天皇が地方を回られる行幸のうち、全国植樹祭と全国豊かな国づくり大会の大会会長は衆院議長が務めている。
 憲法にも皇室典範にも退位に関する規定はない。生前に退位された天皇もおられるが、現在の法体系では何らかの対応なしに退位は不可能だった。だが、天皇制に関する考え方は政党ごとに異なる。天皇制にかかわる歴史的認識論の相違が絡み合ったりすると、典範改正を巡る問題の合意形成が困難になると思った。
 そこで立法府の合意を探るには、できるだけ多くの政党、会派に賛同してもらわねばならない。全会一致を目指す気持ちで取り組んだ。国会の正式な機関として両院協議会を設置する方法も考えた。しかし、衆院の川端達夫副議長、参院の伊達忠一議長、郡司彰副議長と相談し、両院議長・副議長のもとに衆参全会派の代表が集まって協議を始めることにした。合意を形成するため、柔軟にプロセスを進められると思ったからだ。慣例にない、初めてのやり方だった。
 会議は衆参の議長公邸で開くことにした。権力闘争の場である国会議事堂と異なり、落ち着いた雰囲気で話し合えるからだ。長年の国会運営の経験から学んだ進め方と言えるかもしれない。

6.東日本大震災対応
2011年3月11日。東日本大震災が起き、ふるさと東北が未曽有の被害を受けた。その日、奈良に向かっていた新幹線が静岡県で急停車。翌朝早朝の便でどうにか青森に戻った。まずは青森県庁で三村知事に状況を聞き、地元の八戸市に向かったが、大渋滞が起きていた。八戸から岩手県にかけて海岸沿いに見て回ったが、工業団地から水産加工工場まで何もかもが押し流されていた。地震による倒壊ではなく津波による破壊である。
 菅直人首相の頭の中は、東京電力福島第一原子力発電所のことでいっぱいだった。その様相を否定しないし、当然だろう。問題は、ほかの被災地への対応をまとめる人がいなかったことだ。初動はばらばらという感じだった。
その時、自民党は野党だったが、阪神大震災や中越地震などを経験された人材がすばやく動いてくれた。被災地は南北に長く、要望は一様ではない。省庁の幹部が我々に相談しに来るようになった。救援に必要な物資を持っているのは民間企業だ。経団連を訪ねて協力を要請した。そうすると、「どこに連絡して何をすれば良いかがわからない」と言う。被災地の県庁とホットラインを設けてもらい、欲しいものがすぐ伝わるようにした。
 震災発生から8日後、民主党が連立を打診してきた。震災対策に協力するのは当然だが、政権をともにするとなると話が違う。「大島君、どう思う」と谷垣禎一総裁に聞かれ、「前提となる信頼関係がありません」と答えた。谷垣さんもそのつもりだったようで、すぐに断った。

大島 理森
おおしま ただもり
2016年4月30日、アーリントン国立墓地にて
生年月日 (1946-09-06) 1946年9月6日(78歳)
出生地 日本の旗 青森県上長苗代村(現八戸市
出身校 慶應義塾大学法学部法律学科
前職 毎日新聞社社員
所属政党 自由民主党山東派麻生派 →無派閥)
称号 衆議院永年在職議員
法学士(慶應義塾大学、1970年
親族 大島勇太郎(父)
夏堀源三郎(叔父)
公式サイト 自民党 衆議院議員 大島理森(おおしま ただもり)WEBサイト(2021年10月20日時点のアーカイブ)

日本の旗 第76-77代 衆議院議長
在任期間 2015年4月21日 - 2021年10月14日
天皇 明仁
今上天皇

内閣 第1次小泉第1次改造内閣
在任期間 2002年9月30日 - 2003年4月1日

内閣 第2次森内閣
在任期間 2000年7月4日 - 2000年12月5日

日本の旗 第32代 環境庁長官
内閣 村山改造内閣
在任期間 1995年8月8日 - 1996年1月11日

日本の旗 内閣官房副長官(政務担当)
内閣 第2次海部内閣
第2次海部改造内閣
在任期間 1990年2月28日 - 1991年11月5日

その他の職歴
日本の旗 衆議院議員
旧青森1区→)
青森3区→)
青森2区
当選回数 12回
1983年12月19日 - 2021年10月14日
青森県の旗 青森県議会議員
八戸市選挙区
当選回数 2回
1975年4月23日 - 1980年6月
第15代 自由民主党副総裁
総裁:谷垣禎一
2010年9月9日 - 2012年9月28日
第48代 自由民主党幹事長
総裁:谷垣禎一
2009年9月29日 - 2010年9月9日)
第45・49代 自由民主党国会対策委員長
総裁:森喜朗小泉純一郎
2000年12月[1] - 2002年9月[1]
総裁:安倍晋三福田康夫麻生太郎
2007年8月[1] - 2009年9月29日)
テンプレートを表示

大島 理森(おおしま ただもり、1946年昭和21年〉9月6日 - )は、日本政治家尾崎行雄記念財団会長、もくもく会名誉会長、横綱審議委員会委員[2]

衆議院議長(第76・77代)、農林水産大臣第33代)、文部大臣第128代)、科学技術庁長官第61代)、原子力委員会委員長第61代)、環境庁長官第32代)、内閣官房副長官第2次海部内閣第2次海部改造内閣)、衆議院議員(12期)、衆議院予算委員長、同議院運営委員長青森県議会議員(2期)、自由民主党副総裁(第15代)、同幹事長(第48代)、同国会対策委員長(第45・49代)、同東日本大震災復興加速化本部長、同国会対策筆頭副委員長、同国会対策副委員長、同副幹事長、同青森県支部連合会会長を歴任した[3][4]

  1. ^ a b c プロフィール”. 自民党 衆議院議員 大島理森(おおしま ただもり)WEBサイト. 2021年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月9日閲覧。
  2. ^ “元垣添の雷親方が入間川部屋継承、名称変え「雷部屋」62年ぶり復活 入間川親方4月定年”. Nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2023年1月26日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202301260000568.html 2023年1月26日閲覧。 
  3. ^ “国会議員情報 大島 理森(おおしま ただもり)”. 時事ドットコム (時事通信社). https://www.jiji.com/sp/giin?d=2c4aa0ecb026cf6342b08f262cca50d6&c=syu 2022年8月27日閲覧。 
  4. ^ 文部大臣・科学技術庁長官 大島理森”. 首相官邸ホームページ. 内閣官房内閣広報室. 2022年8月27日閲覧。
[ 前のページに戻る ]