宮澤喜一 みやざわ きいち

政治

掲載時肩書元首相
掲載期間2006/04/01〜2006/04/30
出身地東京都
生年月日1919/10/08
掲載回数29 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他武蔵高 7年制
入社大蔵
配偶者日米学生会議の友(東女大)
主な仕事日米学生会議、GHQ交渉、講和条約帯同、参議員、衆議員、宏池会代表、72歳首相、平成是清
恩師・恩人池田首相、佐藤栄作
人脈芥川比呂志(小友)、柏木雄介(省同期)、黒金泰美、前尾繫三郎、大平正芳、鈴木善幸、田中六助(一六戦争)、竹下登、安倍晋太郎
備考祖父・小川平吉(二女・母)、叔父小川平二
論評

1919年〈大正8年〉10月8日 – 2007年〈平成19年〉6月28日)は東京生まれ。大蔵官僚、政治家。1945年(昭和20年)8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳と共に津島壽一蔵相秘書官となる。1949年(昭和24年)には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わっていた。1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議では全権随員として参加した。1986年(昭和61年)、宏池会会長となり派閥を継承、名実共に総裁候補となった。総務会長時代の1986年には、中曽根が提唱する衆参同日選挙に当初は反対したが、最終的に受け入れた。プラザ合意とその後の急激な円高を巡り、中曽根康弘の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曽根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。副総理、大蔵大臣(第88・89代)、内閣総理大臣(第78代)。

1.ドッジと予算で折衝
1949年(昭和24)の総選挙に池田勇人さんは出て当選した。2月16日に第三次吉田茂内閣が発足し、一年生議員の池田さんは蔵相に抜擢された。2月初旬に池田さんの信濃町の家に呼ばれて「おれは大蔵大臣になることになった。ついては手伝え」と命じられた。いきなりなのでびっくりした。ワシントンから日本経済安定のための9原則が出され、デトロイト銀行頭取のドッジがGHQの経済顧問として来日したころだ。ドッジとの交渉があるので、私を秘書官に選んだのだろう。
 池田蔵相の最初の大きな仕事は昭和24年度予算案の編成だった。当時の民主自由党は公共事業を増やし、取引高税をやめるなどの景気のいい公約を掲げて選挙に勝った。ところが均衡予算を求めるドッジは選挙公約と全く異なる予算編成を求めた。ドッジラインは「補助金を切れ」ということだった。
 しかし通産省はこれでは日本の産業が破壊されると反対するし、民自党も収まらない。随分苦労したが、最後は吉田首相が乗り出して、党の不満を抑え込んだ。当時吉田さんは絶大な権力を持っていた。

2.講和条約への極秘特命
1950年(昭和25)になると講和条約を結んで独立しようという機運が強まってきた。吉田首相の指示でこの年の4月に池田蔵相が渡米した。米財政・経済の視察という名目だった。吉田さんの側近の白洲次郎氏と私が一緒に付いていった。池田さんは渡米に際し、講和条約の早期締結を睨む吉田さんから極秘の特命を受けていた。独立後も米国に基地を提供してもいいということを日本側から提案する用意がある、というのが吉田さんのメッセージの内容だ。これを米政府のしかるべき人に伝えろということだった。
 重要な話であり、池田さんは誰に話すか思案した。結局、国務省の公使であると同時に陸軍省の顧問でもあったドッジに伝えることにした。ドッジの補佐官のリードを交えた4人で会った。後の安全保障条約の構想を日本側から瀬踏みをしたのだ。1951年9月、サンフランシスコで吉田さんが講和条約に調印し、その後に一人で安保条約にも調印した。池田さんや白洲さん、吉田さんの娘の麻生和子さんらと共に、私も全権団の随員として参加した。今、生き残っている当時のメンバーは私だけだ。
 
3.小沢一郎氏と個別面接で首相に
リクルート事件があり、1991年秋に総裁選が予定されていた。海部俊樹首相が続投を断念し、総裁選は私と渡辺美智雄、三塚博両氏との争いになった。竹下派会長代行の小沢一郎氏がわれわれ3候補と個別面接し、世の中から批判されたが、私にはむしろ意外だった。私は候補者なのだから、最大派閥の竹下派支持を得るために面接を受けるのは当然だと思っていた。
 10月11日、金丸信さんが竹下派の緊急総会で私を支持すると表明した。これで事実上、自民党総裁選の勝利が決まった瞬間だった。そして29日の党大会で正式に新総裁に決まった。私は72歳だった。11月5日の衆参両院本会議で、第78代の首相に選出された。組閣では竹下派の注文をすべて受け入れた。

宮澤 喜一
みやざわ きいち
内閣広報室より公表された肖像(内閣総理大臣時)
生年月日 1919年10月8日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市
没年月日 (2007-06-28) 2007年6月28日(87歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都渋谷区
出身校 旧制武蔵高等学校(現・武蔵大学武蔵高等学校中学校
東京帝国大学(現・東京大学法学部政治学科卒業
前職 大蔵省大臣秘書官
所属政党自由党→)
自由民主党加藤派堀内派
称号 法学士(東京帝国大学・1941年
広島県名誉県民
福山市名誉市民
配偶者 宮澤庸子
親族 小川平吉(祖父)
宮澤裕(父)
小川平二(叔父)
斎藤樹(義叔父)
宮澤弘(弟)
小川元(従弟)
宮澤洋一(甥)
宮澤エマ(孫)

内閣 宮澤内閣
宮澤改造内閣
在任期間 1991年11月5日 - 1993年8月9日
天皇 上皇(明仁)

日本の旗 初代 財務大臣
内閣 第2次森改造内閣 (中央省庁再編後)
在任期間 2001年1月6日 - 2001年4月26日

日本の旗 第88-89・105-107代 大蔵大臣
内閣 第3次中曽根内閣
竹下内閣
小渕内閣
小渕第1次改造内閣
小渕第2次改造内閣
第1次森内閣
第2次森内閣
第2次森改造内閣 (中央省庁再編前)
在任期間 1986年7月22日 - 1988年12月9日
1998年7月30日 - 2001年1月6日

日本の旗 第18代 農林水産大臣(総理兼任)
内閣 宮澤改造内閣
在任期間 1993年8月4日 - 1993年8月9日

日本の旗 第56代 郵政大臣(総理兼任)
内閣 宮澤改造内閣
在任期間 1993年7月20日 - 1993年8月9日

その他の職歴
日本の旗 副総理
竹下内閣
1987年11月6日 - 1988年12月9日
日本の旗 第40代 内閣官房長官
鈴木善幸内閣鈴木善幸改造内閣
1980年7月17日 - 1982年11月27日
日本の旗 第12-13・17-18・29代 経済企画庁長官
第2次池田第2次改造内閣第2次池田第3次改造内閣第3次池田内閣
1962年7月18日 - 1964年7月18日
第1次佐藤第3次改造内閣第2次佐藤内閣
第2次佐藤第1次改造内閣
1966年12月3日 - 1968年11月30日
福田赳夫改造内閣
1977年11月28日 - 1978年12月7日
日本の旗 第98代 外務大臣
三木内閣
1974年12月9日 - 1976年9月15日
日本の旗 第30代 通商産業大臣
第3次佐藤内閣
1970年1月14日 - 1971年7月5日
日本の旗 衆議院議員
旧広島3区→)
広島7区→)
比例中国ブロック
当選回数 12回
1967年1月29日 - 2003年10月10日
日本の旗 参議院議員
広島県選挙区
当選回数 2回
1953年5月3日 - 1965年6月1日
第15代 自由民主党総裁
1991年10月31日 - 1993年7月30日
第24代 自由民主党総務会長
(総裁:中曽根康弘
1984年 - 1984年
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宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年大正8年〉10月8日 - 2007年平成19年〉6月28日)は、日本大蔵官僚政治家

内閣総理大臣第78代)、財務大臣初代)、大蔵大臣(第8889105106107代)、農林水産大臣第18代)、郵政大臣第56代)、副総理(竹下内閣)、内閣官房長官第44代)、外務大臣第98代)、通商産業大臣第30代)、経済企画庁長官(第1213171829代)、衆議院議員(12期)、参議院議員(2期)、自由民主党総裁(第15代)、自由民主党総務会長を歴任した。55年体制最後の内閣総理大臣。愛称はキー坊[要出典]

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