掲載時肩書 | 俳人・現代俳句協会長 |
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掲載期間 | 1996/07/01〜1996/07/31 |
出身地 | 埼玉県 |
生年月日 | 1919/09/23 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 水戸高 |
入社 | 日銀 |
配偶者 | 病院長娘 |
主な仕事 | 高校から俳句、海軍経理学校、トラック島、日銀、組合事務局長、俳句中心、新俳句「海程」、上智大学、現代俳句協会 |
恩師・恩人 | 加藤楸邨、中村草田男師 |
人脈 | 石田波郷、佐々木直(面接)、三重野康(一下)、岡井隆、山本健吉 |
備考 | (尾崎放哉、山頭火、一茶)ファン、父:開業医で俳人 |
1919年(大正8年)9月23日 – 2018年(平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の俳人。現代俳句協会名誉会長。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。加藤楸邨に師事。「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。
1.父は医者で俳人
開業医の父は、午前宅診、午後は自転車で往診していた。坂道をゆく。麓の家に自転車を預けて、さらに山路を登る場合も多かった。頑健な父はそれを苦にせず、逆に足腰が鍛えられると喜び、「往診の靴の先なる栗拾う」などと句を作って楽しんでもいて、「往診俳句」と呼ばれていた。
父は診療収入が少なかったが、それでも秩父音頭や俳句などの付合い関係の出費を惜しまず、盆暮れに現金が入ると骨董品などを買った。開業医の苦労を慰めていたのだ。俳句の青年が実によく遊びに来て、父が往診で留守でも遅くまで喋っていた。水原秋櫻子御大をはじめ、そうした「馬酔木」の俳人たちが、秩父にやってくることもあった。白絣の青年石田波郷が、秩父の俳青年に囲まれて喋っていた。徳利と猪口だけ。独酌で頻繁に猪口を口に運んでいた。中学生の私は何か珍しいものでも見るような気持ちで、俳青年のなかに混じっていた。
2.日銀職員組合の事務局長に
職員組合は男子行員だけの組合で、その結成は敗戦から半年ほど後の昭和21年(1946)の3月。初代委員長は統計局長山本米治氏。昭和24年4月、組合に事務局を設けることとなり、その初代事務局長を私が引き受けることになる。小気味よい青年・小野孝氏、タイプライターの渡辺仁子(ひとこ)さん、それに若い女性3人と私の6人が、組合専従となり、銀行からは一時退職の扱いとなる。
その頃の組合が銀行当局に要求していたことは、まず何よりも生活給の確保であって、突破資金(困窮突破の意味)とか給与引上げ、ボーナス増額要求が主題だった。ボーナスの満額回答を得た時などは感激して、執行部一同大いに感想を吐露しあったものである。
次には、身分制度撤廃と学歴人事の廃止だった。職制と並行して、「書記、主事、副参事、参事」(今ではもっと複雑になっている様子)の身分制があり、それと不即不離に、学歴による差別人事が慣行化していた。私は学閥人事といっていたのだが、これでは狭いわけで、学歴人事といえばよかった、とあとになって後悔した。むろん学閥は学歴のトップに君臨していて、今でも当時と変わってはいないだろう。いろいろあったが、労働協約締結書に昭和23年日銀総裁一万田尚登と委員長小平寛司が調印した。
3.創作の基本は「態度」
思えば、俳句専念を決めてから、自分の「方法」を求めてあれこれと随分書いていた。方法を態度と手法の総和ととらえて、態度については、社会性論が華やかなりし頃、「社会性は態度の問題」と書いた。社会主義的イデオロギーを書く、といった意見まであったが、ことに俳句のような短い韻文(5・7・5字音の最短定型)ではそれは無理。どんな感想でも肉体化されて、日常をすすめる態度にまでなって、ようやく俳句になる。態度を高め深めてゆくための思想、と考えていて、これは今も変わっていない。
次いで「俳句の造型について」を書く。自分(態度に支えられた<主体>)を俳句に書きとるためには、<創る自分>が必要。直接書きとるだけでは足りないとし、これによる俳句創作過程を「造型」と呼んだ。しかしその後、前衛俳句の別称のように扱われて、前衛俳句という一つの流派があるように伝えられた。
俳句形式を短詩型の歴史の中で根本的に見直す作業と、私自身の態度を一層確かなものにするための<こころの営み>への関心の集中は、昭和40年代に入ってからのこととなる。
氏は、’18年2月20日98歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は22年前の1996年7月だから76歳であった。他の俳人や歌人では、荻原井泉水、吉井勇、富安風生、川田順、水原秋桜子、窪田空穂、山口誓子、中村汀女、森澄雄、岡井隆の10名が登場している。氏は、戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。
「私の履歴書」には、医者の父の影響で早くから俳句に慣れ親しんだが、家業の医師を継がず、俳句にうつつをぬかしため、母親から「兜太」と呼ばれず「与太」と呼ばれたという。長男として1919年に生まれたが、この1919を「一句一句」と読み替えて、俳句を作るために生まれたとか、俳句以外に取柄のない生まれと言われたのか、同年の人には専門俳人が多いと書いている。
佐々木直の面接をうけて1944年日本銀行へ入行したが、3日後に海軍経理学校に短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官され、トラック島で200人の部下を率いる。しかし、サイパン、グアム、パラオ諸島など次々と米軍の攻撃で陥落し、トラック島は孤立状態に陥った。食料も自給自足せざるを得なくなり、自活と士気高揚のため、俳句会を作り、10数名で句会を始めた。句集はガリ版刷りで発行したが、敗戦直後に、日記や読書メモと一緒にすべて焼却した。(2016-8-2付東京新聞ではこのガリ版句集を発見と報道された)
孤立後も、米軍の絨毯爆撃が続き、飢えで死ぬ人は増え続けた。終戦までトラック島全体の死者は約8千人。そのうち、海没者2千、残る6千は餓死者が多いという。1945年11月末、生き残った人たちが全員「戦争捕虜」と書いたシャツを着せられて、米軍により引き揚げられた。このとき読んだ句が、有名な「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」だった。非業の死を遂げた戦友が眠る島へと続く船の白い航跡を魂に刻んだものだった。氏の反戦魂はこの句が原点のように思える。
金子 兜太 (かねこ とうた) | |
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2017年4月 | |
誕生 | 1919年9月23日 日本 埼玉県比企郡小川町 |
死没 | 2018年2月20日(98歳没) 日本 埼玉県熊谷市 |
職業 | 俳人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 経済学士 |
最終学歴 | 東京帝国大学経済学部卒業 |
文学活動 | 社会性俳句運動 前衛俳句運動 |
主な受賞歴 | 現代俳句協会賞(1956年) 詩歌文学館賞(1996年) 現代俳句大賞(2001年) 蛇笏賞(2002年) 日本芸術院賞(2003年) 正岡子規国際俳句賞大賞(2008年) 毎日芸術賞特別賞(2010年) 小野市詩歌文学賞(2010年) 菊池寛賞(2010年) 朝日賞(2016年) |
配偶者 | 金子皆子(1947年-2006年) |
金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 - 2018年(平成30年)2月20日[1])は、埼玉県出身の日本の俳人。現代俳句協会名誉会長。日本芸術院会員。2008年、文化功労者に選出される。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。
加藤楸邨に師事した。「寒雷」所属を経て「海程」を創刊し、主宰した。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任した。
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