掲載時肩書 | 日本取引所G前CEO |
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掲載期間 | 2017/10/01〜2017/10/31 |
出身地 | 熊本県 |
生年月日 | 1939/10/18 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 済々黌高校 |
入社 | 野村証券 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 人事に直訴、NY研修、株式と債券、住友投資顧問、産業再生機構(ダイエー、鐘紡)、東証、日本取引所G、KKR投資ファンド |
恩師・恩人 | 鈴木政志 |
人脈 | 田淵節也・義久、酒巻英雄、氏家純一、西室泰三、井上恵介、ウォール街TOP人脈、米田道生、 |
備考 | 5回の転籍人生 |
氏はこの「履歴書」に登場した野村證券の奥村綱雄、瀬川美能留、北裏喜一郎、田淵節也、寺澤芳男に次いで6人目となり野村は企業群のトップとなった。同じ会社で5人登場はトヨタ(石田退三、神谷正太郎、加藤誠之、豊田英二、豊田章一郎)のみで、あとは4人の三井物産(新関八洲太郎、足立正、水上達三、八尋俊邦)、新日鉄(稲山嘉寛、永野重雄、斎藤英四郎、今井敬)、アサヒビール(山本為三郎、樋口廣太郎、瀬戸雄三、福地茂雄)の3社である。
1.人生で5つの転籍
(1)野村では、株式部門ではなく債券部門担当で転換社債やワラント債を積極販売。生命保険会社、長期信用銀行、農林系金融機関などを巻き込んだ大掛かりな回転売買増の実績を残す。59歳の時、総会屋事件で引責辞任。
(2)住友生命系投資顧問会社(3年間)。バブル崩壊により「ザ・セイホ」と呼ばれていた日本の生命保険も運用力の立て直しが急務になっていた。系列運用会社のテコ入れをおこなった。
(3)産業再生機構に4年間招かれカネボウやダイエーなど大型案件を処理し、必要に応じて資本を注入、事業を立て直し転売し、740億円の投資を回収した。この方策は、融資の担保を適正に見直し、企業に新たな資本を入れてガバナンス(企業統治)を変える。これにより、企業を成長の制約条件から解き放ち、金融も蘇生させることだった。
(4)東京証券取引所の社長を(8年間)引き受け、ETP(上場投資信託)の開発で業容を拡大。また、大阪証券取引所との経営統合を成立させ、オールジャパンの日本取引所グループとなり、世界の証券界と対抗できる体制にした。
(5)2015年米投資ファンドKKRの日本法人会長として、企業がファンドの力を借りて戦略的に非公開化し、日本企業を大胆に構造改革した。再上場させる(銀行や証券会社とは異なる機能を持つ)ファンドは日本経済の復活には必要だ。
2.ウォール街(日米証券業の違い)
1972年米国に赴任した。日本でのお客さんは個人投資家。米国で相手にするのは、投資信託などのファンドを運用するプロの機関投資家だ。語学でも違ったが、そこからして違った。プロの投資家に「ソニーなんてどうですか」と勧めてみると「発行済み株式数はどれくらいか」と訊かれ、返答に詰まるといったことが何度もあった。
発行済み株式数は、株式投資で最も重要な1株利益を計算するための土台となる数字だ。株式の営業マンなら即答すべき基礎も私は頭に入っていなかった。日本ではこんな質問は訊かれなかったのである。「銅の市場価格が5%変化すると、この企業の価値は何%変動するか」。こんな質問に即答できるのが米国の機関投資家を相手にする営業マン。必要とされるのは日本流の気合や社交力ではなくて商圏分析の知識だった。
3.証券会社内のライバル
証券会社の業務は大きく分けて2つの市場に足場を置いている。株式(エクイティ)と債券(デッド)だ。一般に、景気が良いときは株式相場が活況となる。しかし、景気が過熱してくると日銀が金融を引き締めるので債券相場は崩れ、利回りは上昇する。景気が良くて株価が上がっているのに、債券も買われて利回りが下がる状態は長く続かない。
だから、証券会社の中で株式関連の部署が威勢が良い時、債券の人たちは収益を上げにくくなる。勿論、逆のことも言える。証券マンはエクイティ系とデッド系に分れ、昔は同じ会社の中で収益などを張り合っていたものだった。
4.バブル崩壊の前兆
野村証券は1987年9月期決算で4937億円の経常利益を上げ、利益日本一になった。私は債券の他に、株式と債券をかけあわせた「転換社債」や「ワラント債」という商品の売買も目配りしていた。野村というと株式売買の会社というイメージがあるが、債券や転換社債、ワラント債の売買も株式と並んで大きな収益を上げていたのだ。
そうしたなかで、株式グループから出てきたのが、東京湾岸に土地を持つ企業の含み益を企業評価に反映させる「ウォーターフロント銘柄」だ。バブル期には転換社債やワラント債の売買も活発だった。あまりに注文が多くて事務作業が追い付かず、関連部署の社員が午前2時、3時まで働くこともしばしばだった。
日経平均株価は89年の大納会で市場高値をつけた後、90年代から下落基調をたどった。壮絶なバブル崩壊物語の始まりだった。
5.ダイエーの再生支援
2004年12月に産業再生機構が支援を正式に決めたダイエーは会社の規模だけでなく、再生機構に持ち込まれるまでの混乱などを含め、忘れられない案件だ。ゼネコンと並び過剰債務企業の代表だったダイエーは、00年から2回に亘って金融支援を受けた。04年8月、3度目の金融支援を巡って再生機構の活用を迫る銀行団と、渋るダイエーとの攻防が始まった。
経営難とは言え全国に営業網を持ち知名度も高いダイエーには、商社や国内外の小売商、投資ファンドなどが支援に名乗りを上げていた。そうそうたる顔ぶれを見て、再生機構が出て行く必要はないとの意見も耳にした。再生機構の支援を巡り経産省も抵抗したが、結局04年10月13日にダイエーの高木邦夫社長が再生機構に支援を要請することを決めてくれた。
支援が決まってからは政治との攻防が始まった。ダイエーが店舗を構える地方自治体の首長から「ウチのところのダイエーは閉めないでくれ」との陳情が相次いだ。店の閉鎖となれば地域の雇用を直撃しかねないからだ。選挙区のダイエー店舗の扱いについて、国会議員の訪問を受けたことがある。様々な抵抗があった。
全国に店舗用の不動産を抱え、その含み益をもとに多額の借り入れをしていたダイエーは、日本経済の土地本位制の象徴でもあった。再生機構が収益性をベースに算定し直した不動産価格が従前の見積もりを大幅に下回り、ダイエー側にショックを与えることもしばしばだった。
6.名門山一証券の自主廃業
97年11月24日、山一は旧大蔵省に営業休止を届け出た。いわゆる自主廃業だ。「社員は悪くありません」と号泣した野沢正平社長の記者会見をご記憶の人は、今も少なくないだろう。
この根源は「飛ばし」だった。顧客である企業の財テクの損失を特別利益目的会社などに飛ばして表面化を避ける取引に、山一は長らく手を染めていた。いつかは株価が上がり損失も消えるはずとの甘い見通しが外れ、隠していた損失を本体で処理せざるを得なくなったため、経営が行き詰ったのだ。
1897年(M30)に兜町に誕生した山一は、証券界の名門中の名門だ。1925年(大正14年)に大阪で創業した野村は、長らく「関西の成り上がり」扱いだったと聞く。だが、65年不況で破綻し、日銀の特融で救済された。旧日本興業銀行などと近かった当時の山一は、金融システムの中で重要な役割を負っていたのだ。時代が昭和から平成に変わり業績の面で見劣りするようになっても、自分たちは特別という意識があったのかもしれない。
さいとう あつし 斉藤 惇 | |
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2012年7月 | |
生誕 | 1939年10月18日(85歳) 熊本県 |
出身校 | 慶應義塾大学商学部商学科卒業 |
職業 | 日本野球機構コミッショナー KKR Global Instituteシニアフェロー |
斉藤 惇(さいとう あつし、1939年10月18日 - )は、日本の実業家。第14代日本野球機構コミッショナー。株式会社KKRジャパン・KKR Global Instituteシニアフェロー。斎藤 惇とも表記される。
野村證券株式会社副社長、住友ライフ・インベストメント株式会社最高経営責任者、株式会社産業再生機構社長、株式会社東京証券取引所代表取締役社長、株式会社東京証券取引所グループ取締役兼代表執行役社長、株式会社日本取引所グループ取締役兼代表執行役グループCEOなどを歴任した。