岡藤正広 おかふじまさひろ

商業

掲載時肩書伊藤忠商事会長CEO
掲載期間2025/01/01〜2025/01/31
出身地大阪府
生年月日1949/12/12
掲載回数30 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他高津高校
入社伊藤忠商事
配偶者お茶の水数学得意娘
主な仕事繊維部門、サンローラン、アルマーニ、横割り組織、「かけふ」経営改革、吉野家・ユニー売却、デサント買収
恩師・恩人村上真、飯田洋三、峠一
人脈堀田一、加藤誠、堀田輝雄、鍛冶正行、小林栄三、丹羽宇一郎、鈴木敏文、孫正義
備考繊維一筋、海外駐在なし
論評

氏は伊藤忠商事から「私の履歴書」に登場した伊藤忠兵衛越後正一室伏稔に次いで4人目である。三井物産では新関八洲太郎水上達三八尋俊邦の3人、三菱商事では、諸橋晋六槇原稔の2人、丸紅は市川忍春名和雄の2人、日商岩井は高畑誠一西川政一の2人、兼松は鈴木英夫で、合計14名。
氏は病気やビジネスの逆境時代に得た教訓をその後に生かした経験を記述してくれていた。その中でも特に印象に残った箇所を抽出し下記に要約した。

1.目の前の仕事に集中しろ
私の最初の仕事は受け渡しだった。紳士服の生地を輸入して問屋に渡す。その裏方を差配する。物流、通関、出荷売上金の受取り。いずれも事前に取り決めているはずが、すんなりとはいかない。この受け渡しは4年目に突入した。社内外の私への評価は「扱いづらいヤツ」で固まっている。希望する営業はおろか、このまま社内で居場所を失ってしまうんじゃないか。いやどうやらすでに失っているようだ。そう思い詰めていた時、伊部という問屋に足が向いた。店に入ると、村上真さんという問屋の大番頭のような人がいた。
たぶん私は暗い顔でうつむいていたはずだ。「ちょっと行きますか」村上さんが声を掛けてくれた。近くの居酒屋のカウンターに並んでビールを一口。私は思わずこぼした。「僕、先が見えないんです」。会社も年代も違う跳ねっ返りの若造の身の上話を村上さんは耳を傾けてくれた。しばらくすると、出来の悪い教え子を諭すように、こう言った。「そういう時は変に先を見たらあきまへんで」「仕事というものはそういうもんでっせ。初めから先ばっかり見たらあかんのですよ」この言葉が胸に突き刺さった。「俺は何を勝手に将来のことばかり悲観してふさぎ込んでいるんや。目の前の仕事に集中せんで、何がプロや」目が覚めるとはこのことだった。

2.営業の師から学ぶ「商人は水であれ」
「1年間は峠さんに付いて、お客さんの前では一切しゃべらずにメモだけ取れ」。課長の飯田洋三さんが私の指導役に指名した峠一さんは伊藤忠商事の社員ではない。峠さんは年齢が私より3つ上だが、営業マンとして豊富な経験を持っていた。飯田さんが認めるだけあって、峠さんはやり手の営業マンだった。ちょっともめ事があって相手が怒っていても可愛げのある言い方でやり過ごし、怒りが冷めるのを待つ。すると絶妙なタイミングで反物の見本を取り出し、「こんなんもあるんですけれど、どうでっしゃろ」と一言。相手は「まったく、あんたにはかなわんな」と話に乗ってくる。「なるほど、これはうまい」。言い回し、間の取り方、勝負を仕掛けるタイミング、それに何といっても相手の心を掴む何とも言えないしぐさー。感心させられた。
 黙ってメモを取るだけと言われて最初は屈辱だったが、隣でペンを走らせているうちに徐々に峠さんの話術の妙が理解できるようになった。私はよく「商人は水であれ」と言う。お客さんの要望に合わせて水のようにどんな形にでも姿を変えてみせるのが商人であるべき姿だと思うからだ。峠さんはまさに「水の商人」だった。それに、とにかくお客さんの欲しいと思うものを先回りして用意する人だった。

3.閃き!有名ブランドとライセンス契約
峠さんと東京に出張していたある日、「明日、英国屋の生地の展示会があるんやけど、せっかくだから一緒に行かへんか」。帝国ホテルのホールに所狭しと並べられた生地の数々。ここで一般の消費者に直接選んでもらってオーダーメイドのスーツを作るのだという。「パパ、この生地が良いんじゃない」「んん・・そうかなぁ」そう言って金持ち風の男性はその場でスーツの生地を決めてしまった。その様子を目の当たりにした私は、突然閃いた。「これや!男はスーツの生地なんか見てへん。女の人が決めてるんや!」。
この時閃いたアイデァが、紳士服用の生地にいかにも女性が好みそうなブランドの名前を付けて日本で売る、というものだ。ブランド側とはライセンス契約を結んで名前を使わせてもらう。これなら問屋にお伺いを立てるような従来の商売とは違い、伊藤忠が主導権を握ることができる。何か「問屋との違いを」と考え続けていたからこそ、閃いたのだと思う。これがイブ・サンローランとのライセンス契約に結び付くことになる。

4.経営改革は「かけふ」(稼ぐ、削る、防ぐ)で
私には小さなポケットサイズの手帳に、その時々思ったことを書き込む習慣がある。当時は「社長になったらやること」を思いつくままに書き込んでいた。月刊の社内広報誌の見出しから始まり、業務改革など9項目にわたる。現場主義、率先垂範など心得的なものもあるが、{MBA中止}や「社員にクレームをつけさせる」という本当に制度に落とし込んだ項目もある。そして「会議大嫌い」の一文。そう私は昔から会議が大嫌いだったのだ。
 会議で上司が発言するためにどれだけ多くの部下の時間を潰してしまっているか。例えば、毎週月曜午前に開かれる各カンパニープレジデントと海外主管者による情報連絡会。あるカンパニー出身の駐在員たちはこの会議の上司のために1週間、ネタ探しに走り回っているという。「こんなことをやっていると会社が潰れる」本気でそう思った。2010年4月に社長になると直ぐにこの情報連絡会の時間を短縮した。続いて毎週月曜開催から月1回に。ついには廃止してしまった。年に一度、3日かけて開催していた特別経営会議も半日に圧縮した。もっとも重要なのは、会議を実りあるものにするため上司に予習を課したことだ。議題を事前に把握して上司が仮説や結論をもって臨めば会議は報告の場から意思決定の場に変わる。それだけで生産性がどれだけ向上するか。
 会議の削減は一例だが、こういった無駄な仕事を徹底的に削るという実に地味な作業から私なりの経営改革は始まった。削るだけではない。無駄な損失を防ぐ、そして稼ぐ力を最大化していく。稼ぐ、削る、防ぐー。略して「かけふ」。これが経営改革の合言葉だ。

5.ファミリーマートが真の総合商社脱皮の試金石
2017年、ある方の紹介でソフトバンクグループの孫正義さんと会食した。すると「うちと50%ずつでファミリーマートをやりませんか」折半で共同買収をしないかということだ。「なぜ携帯会社のソフトバンクがファミリーマートを?」。これには思わずポカンとしてしまった。だが、孫さんの話に耳を傾けるうちに合点がいった。 
 孫さんはインターネットを主戦場にしてきた。そこで生まれるデータをどう抑えるかが、ネットビジネスの勝敗を決める。そもそも携帯電話に参入したのも、モバイルでネットが使われる時代を見越してのことだったという。モバイルは使う場所を問わない。スマホでの決済を通じて、これまでネットが行き届かなかったリアルの世界のデータにまで手が届くようになる。どんな人たちが、いつ、どこで、どんなものにお金を払っているのか・・。そういう視点で見ると、全国に店を持ち老若男女が24時間訪れるコンビニは膨大な購買データを集めるプラットホームということになる。我々には見えなかったコンビニの価値が、デジタル産業のビジョナリーには見えていたのだ。そう考えるとオチオチしていられない。ここはもっと深く、ファミリーマートの経営に関わるべきだと考えた。2018年に出資比率を50.1%に高めて子会社化し、20年には残る全株を取得して完全子会社にした。
 こうして伊藤忠の川下ビジネスの柱として手元に手繰り寄せたファミリーマート。その力を引き出せるかは、未来の伊藤忠にとっての試金石になると考えている。当社は「総合商社」と言われる。確かに手掛ける事業の範囲は相当なものだ。ただ、そのひとつずつが有機的に連動しているかと言われれば、そうとも言い切れない。専門家集団の集団を言えば聞こえは良いかもしれないが・・。言うまでもなくコンビニは我々の身の回りで必要なものが、限られたスペースにギュッと詰まったビジネスだ。そこで試されるのが、本当の意味での総合力だろう。ファミリーマートが我々に問うのは真の総合商社への脱皮だ!

おかふじ まさひろ

岡藤 正広
生誕 (1949-12-12) 1949年12月12日(75歳)
日本の旗 日本大阪府大阪市
出身校 東京大学経済学部
職業 経営者
団体 伊藤忠商事株式会社
肩書き 代表取締役会長CEO
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岡藤 正広(おかふじ まさひろ、1949年12月12日 - )は、日本実業家。第11代伊藤忠商事株式会社の代表取締役社長を経て、同代表取締役会長CEO[1]

  1. ^ 「伊藤忠社長に鈴木氏 二頭体制 岡藤氏が会長CEO」『産経新聞』2018年1月19日、朝刊。
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