槇原稔 まきはら みのる

商業

掲載時肩書三菱商事相談役
掲載期間2009/09/01〜2009/09/30
出身地イギリス
生年月日1930/01/12
掲載回数30 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
米国ハーバード大学
学歴その他成蹊学園
入社三菱商事
配偶者岩崎弥太郎孫(喜久子)
主な仕事全国英語大会2回優勝、日米学生会議、 卒後1年世界旅行、米国社長、IBM役員、各国政府委員、東洋文庫
恩師・恩人清水護、バイエル主教、藤野忠次郎、諸橋晋六、
人脈義父:久弥(弥太郎長男)三村庸平、 中部謙吉、ライシャワー、緒方貞子、ガースナーIBM,アームストロングAT&T
備考父:三菱商事ロンドン 支店長
論評

1930年1月12日 – 2020年12月13日 )は英国生まれ。日本の実業家。東京府(現・東京都)出身(出生地はイギリス)。三菱商事の社長・会長・特別顧問を歴任した。父・覚(さとる)は青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長を務めた。

1.ハーバード大学に入学
セント・ポールズ高校の生活は非常に楽しく、1年間はあっという間に過ぎた。成績はまずまずで、高校推薦で念願のハーバード入学が認められた。卒業式の夜、恒例となっている先生方への表敬訪問に出向くと、キトリッジ校長から餞別の封筒を渡された。後で中身を確かめると、たしか400ドルあった。貧乏学生にとっては思いがけない大金だ。翌日お礼に行くと、校長は、君はロビンフッドを知っているか。あいつはお金持ちから金を盗んで気に入った人に配る。僕はロビンフッドだから、盗っ人なんかにお礼を言ってはいかんぞ」という。アメリカ人の親切さ、思いやりに改めて感激した。
 ハーバードで得た最大の資産は生涯続く友情である。戦前に都留重人さんも住んだというアダムズ・ハウスという寮に4人の米国人の友人と同居した。リビングは5人で共用し、寝室は個室という快適な住まいだった。彼らとは今も付き合ってるが、中でも最大の親友はロバート・マンクスという高校時代からの友人だ。企業統治の理論家、実践家として日本でも名前をご存知の方も多いだろう。

2.ワシントン事務所長
商社マン生活で最大の転機は1971年、41歳の時に訪れた。シアトル駐在中に東京から電話があり、「社長のお考えでワシントンに事務所を作る。初代所長として赴任しろ」と、突然の指示があった。当時ワシントンにいる日本人は外交官とメディアの特派員ぐらいで、日本の事務所はほとんどなかった。その後すぐにドルと金の交換停止を決めたニクソン・ショックなどが起こり、ワシントン動向の重要性は誰の目にも明らかになった。ワシントンでは中心部のウォーターゲートビルに事務所を開いた。この事務所には実にいろいろな人物が出入りした。
 このオフィスの1階上に民主党の全国委員会本部があり、そこに1972年6月、賊が忍び込んだ。これがニクソン大統領の辞任するような大事件に発展すると予測した人は当時いなかったと思う。このワシントン事務所長の任務の一つは、米国の動向をいち早くキャッチする事だ。そのためには政界や官界の人脈づくりが重要になる。
 この点でお世話になったのが、ワシントンポスト紙社主のキャサリン(ケイ)・グラハムさんだ。ニクソン政権を追いつめた新聞社の社主とはとても思えないエレガントな女性だった。ケイの執務室には立派なキッチンがあり、昼食をよくご馳走になった。後の話になるが、92年に三菱商事の社長になった直後に訪ねると、盛大なパーティを開いてくれた。ゲストにはグリーンスパンFRB議長や民主・共和両党の大物議員も招かれていた。社交が仕事であり、仕事が社交である街・・・。水産物ビジネスに明け暮れたそれまでの商社マン生活とは全く異質な世界が、ワシントンには広がっていた。

3.緒方貞子さん
社長就任については、一人の恩人の名前を挙げないわけにはいかない。国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんだ。緒方さんがまだ東大の岡義武ゼミにおられた若い頃に知り合い、友人の石坂泰彦君も交えて3人で富士登山をしたこともある。70年代のあるとき、外務省から「国連職員にならないか」と誘われた。これに心が動き、ニューヨーク出張の際に国連に勤めていた緒方さんに相談した。
 話を聴き終わり、「あなたは三菱商事でいい仕事をしているようだから、残った方がいい。国連の内部は見かけよりも複雑で、競争も激しいわよ」と言われて思いとどまった。あのとき転職していれば、今の自分はなかったとときどき思う。

追悼

氏は‘20年12月13日、90歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は’09年9月で79歳のときでした。三菱商事出身では諸橋晋六氏に次いで2番目でした。ハーバード大学に直接入学し、卒業した「履歴書」登場者は、槇原氏一人です。両親とも達筆だったが、氏の「履歴書」サインは悪筆と弁解している。

1.両親
父の家は小作農家で、経済的には貧しかったが、勉強は抜群にできたらしい。そんな父が親戚を頼って上京したのは14歳のときだった。最初は使い走りや子守をしていたが、やがて大倉商業を経て、一橋大学に進んだ。貧しい出身の父がこの時代に最高学府まで進学できたのは、一つの縁に恵まれたからだ。
 三菱の創業者として有名な岩崎彌太郎には久彌という長男がおり、久彌には3人の息子がいた。久彌はこの3人を手元に置かず、本郷龍岡町に寮をつくり、教育者を迎えて、同年代の青年たちを学友として同居させた。様々な大学から優秀な学生が集まった。父もその一人に選ばれ、援助を受けるとことになったのだ。これは地方出身の苦学生にとってたいへん幸運なことだった。
 卒業後は当然のように三菱商事の門をたたき、1921年に母の治子(旧姓・秦)と結婚した。父28歳、母21歳。この二人の仲を取り持ったのが、母の兄で、三菱商事の社員だった秦豊吉である。母の実家の秦家は東京で薬商を営み、裕福な暮らしぶりだったようだ。親戚には歌舞伎役者もおり、さらに豊吉は商社勤めの傍ら文化面でも活躍した。豊吉の友人に芥川龍之介も時々遊びに来た。龍之介には絵心があって、卓袱台で幼い母の似顔絵を描いてくれたという。そんな影響もあってか、母も若いころは文学志望だったようだ。「水島京子」の筆名で懸賞小説に応募し、掲載されたという。

2.全国英語弁論大会で連続優勝
終戦から2年後、毎日新聞社が主催した英語弁論大会の「マッカーサー杯」は有名だった。成蹊学園の英語教師だった清水護先生から「大会に出てみないか」と誘われ、「やってみます」と答えた。
 スピーチの原稿は自分で書いて、その後何度か清水先生に添削をお願いした。タイトルは、
「What we should do as students (私たち学生は何をすべきか)」。内容は、45年8月15日を境に価値観が180度ひっくり返り、若者たちの間に懐疑主義が広がっているが、それは何ら生産的ではない。私たち学生は人格を磨いて、真実を目指さなければいけないー。今読み返すと赤面してしまうような内容だが、17歳の私はどうやら大変な理想主義者だったらしい。
 「落語は間が命」と言われる。英語のスピーチもそれと同じだろうと見当をつけ、どこでどう間をとれば聴衆の心を打つか、そこに神経を集中して何度も何度も練習した。大会は大阪で開かれ、列車に乗って一人で出かけた。結果は首尾よく優勝。早速清水先生らに「ワレユウショウセリ」と電報した。
 翌年2回目の会場は東京だったので、清水先生や成蹊の仲間たちも応援に駆け付けてくれた。貴賓席には高松宮様やヴァイニング夫人の姿もあり、いささか緊張した。前年とはうって変わって出場者のレベルは格段に上がっている。内心はらはらしたが、運よく2年連続で優勝することができた。
 また、戦後再開された日米学生会議に出席したのもこのころだ。明治大学や立教大学のキャンパスで開催され、国際問題や宗教、教育までが幅広く議論した。多くの大学生に交じって、高校生の私が参加することができ、勉強になった。

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