室伏稔 むろふし みのる

商業

掲載時肩書元伊藤忠商事会長
掲載期間2011/09/01〜2011/09/30
出身地静岡県
生年月日1931/09/22
掲載回数29 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他沼津東高
入社伊藤忠商事
配偶者ESS仲間
主な仕事柔道部、脱(繊維:70%)化、北米支配人、自動車、石油、食品、社内会社制、日本貿易会会長、日本政策投資銀行総裁
恩師・恩人瀬島龍三
人脈大賀典雄(中学)、永野重雄、小粥義朗、米倉功、丹羽宇一郎、サムス・ニード、J・ニクラウス
備考信条:Nothing Impossible(為せば成る)
論評

1931年9月22日 – 2016年1月27日)は静岡県生まれ。実業家。伊藤忠商事社長や、日本政策投資銀行社長、日本貿易会会長を務めた。タイムワーナーやファミリーマートへの出資などを行った。1994年初代日本トルクメニスタン経済委員会会長。

1.伊藤忠商事に入社
私が1956年(昭和31)に入社した当時の伊藤忠の売上げ、利益の7割は繊維部門があげており、大阪本社は繊維が圧倒的に強かった。「関西5綿(伊藤忠、丸紅、東洋棉花、日本綿花、江商の関西系の5大繊維商社)」の時代の名残だった。これでは近代的な総合商社に脱皮することはできない、と経営陣は考え、東京支社を非繊維部門の中心として、急激に強化していた時期だった。
 私の配属先はその東京支社の金属鉱産部燃料課輸入石炭係。名前は長いが、要は製鉄会社にコークス原料となる石炭を売り込む仕事だった。

2.自動車産業に力を入れ米GMと
誰しも記憶に鮮やかに残り、自分の進路を決める記念碑的な仕事があるはずだ。私には「ゼネラル・モーターズ(GM)―いすゞ自動車提携」がそれであり、最初の米国駐在中の最大の仕事となった。1960年代末、経済成長を遂げた日本は、外貨の日本企業への出資、日本での子会社設立などの制限を緩和する資本自由化の時期を迎えていた。
 日本は67年に自動車生産で西ドイツを抜き、米国に次ぐ第2位の自動車生産国になっていたが、国内メーカーとGM、フォード、クライスラーの米ビッグ3との間には大きな差があった。乱立気味だった国内メーカーはトヨタ自動車、日産自動車は別として、外資との提携に生き残りの道を見出そうとしていた。いすゞと伊藤忠が共同で外資に対応しようと合意したのはそんな時期だった。まずクライスラー、次にフォードとの交渉をおこなったが、最終合意までいかなかった。しかし、「まだGMがある」「Nothing Impossible」だ。
 70年、年明けと同時にGMへのアプローチを開始。1月12日、私とチャイ君でGMのニューヨークオフィスを訪問、経営企画担当部長のロックウッド氏にいすゞとの提携の重要性を訴えた。70年8月、いすゞの岡本利雄副社長と伊藤忠から瀬島龍三専務が訪米、GMのゲージ副社長らと会談した。話は一気にはずみ、提携交渉に光明が見え始めた。同年10月、合弁契約書、技術協力など5つの合意案が完成、GMのローチェ会長がサインすると直ぐに通商産業省(当時)や銀行に報告。「GM-いすゞ提携」は11月1日の日本経済新聞の朝刊一面でスクープされ、私はクライスラーに始まった1年半の提携交渉成功に達成感を感じた。

3.瀬島龍三さん
業務本部長の瀬島さんは厳しいが、仕えやすい上司でもあった。日常業務で指導されたのは、①報告書は必ず紙一枚にまとめる②結論を先に示す③要点は3点にまとめるーの3点だ。3枚以上の報告書は絶対に受け取らず、突き返していた。また「どんな複雑なことでも要点は3つに纏められる」が口癖で、我々に物事の本質を見極め、整理する習慣を身に着けさせた。
 瀬島さんは交渉の場では、メモも見ないで話しをされたが、その論理性と説得力に途中から相手側がぐんぐん引き込まれ、熱心に聞くようになるさまは驚きだった。瀬島さんの交渉の別の特徴は、知らないことは「知らない」と率直に答え、「調べてご返事する」と約束し、必ず実行することだった。時に、こちら側に都合の悪いことも一切隠さずに話されていたことも、人の信頼を得る道として、私は目を開かされた。
 「用意周到、準備万端、先手必勝」。交渉や事業の着手にあたって瀬島さんがよく口にされた言葉である。とにかく徹底的に準備をしてから事を始め、とにかく相手に先んじることが必勝の道という教えだった。
 商社の収益源の柱はかっての貿易取引口銭から、事業投資による配当、利益分配に移った。その戦略も瀬島さんが先駆けとなった。特に資源開発については「石油や鉱物資源を取引だけでなく、資本で押さえることは長期的な会社の利益になるだけでなく、国益に繋がる」と主張され大型投資を相次いで主導された。

4.ジャック・ニクラウスの凄さ
私にとってゴルフは、ビジネス上の付合いにとどまらない「人生の友」である。米国駐在中にプロゴルファーのサム・スニードやアーノルド・パーマーとも親しくなり、何度も一緒にプレーをした。ジャック・ニクラウスとも仕事が縁で知り合った。ある時、フロリダにあった彼の自宅に招かれた。空港に着き、ボートに乗ると自宅の桟橋に直行だった。広大な自宅の敷地には4つのグリーンがあった。ニクラウスが苦手とする特定コースの特定ホールのグリーンを再現したものであった。
 ゴルフの神様、ニクラウスにも苦手があったことも驚きだったが、それを克服するために自宅にグリーンを造る打込みぶりに本物のプロを感じた。4つのグリーンは克服できれば、次々と造り替えるとのことだった。

追悼

氏は、’16年1月27日84歳で亡くなった。伊藤忠商事からの「履歴書」登場は、伊藤忠兵衛越後正一に次いで3人目である。氏は1956年に同社に入社し、34年後に社長となるまで、石炭、船舶、自動車、エネルギー、プロジェクト開発、食品、経営企画、それに2度で13年間にわたるニューヨーク駐在など、多岐にわたる仕事に当たってきた。氏が愛用した言葉は、「Nothing is impossible」=「為せば成る」で全社員を引っ張った。

事業ごとの縦割りに陥りがちな総合商社で、垣根を超えた広い視野と行動力を社員に求めた。大胆な事業投資で他社にも刺激を与え続けた。商社の業界団体である日本貿易協会の会長に三菱、三井以外から初めて就任した。早い時期から「ダボス会議」に参加するなど各国首脳や経済人に日本の実力と考えを広める民間大使のような役割を担った。そうした交友の範囲は米欧から中東、南米、中央アジアにおよび、グローバル経営者だった。

経営企画時代に瀬島龍三・業務部長の薫陶を受けた。その基本は「縦割り」に「横ぐし」を常々強調されていたが、業務部員向けの「心得」3ケ条は次のように書いている。
1.「着眼大局 着手小局」
目標は高く、広く、長期的に。実行は着実、綿密に。
2.戦略は戦術をカバーするが、戦術は戦略をカバーできない。
3.心得メモ
(1)仕える上司の意図を良く掴み、誠心誠意使えるべし
(2)勉強せよ、経済情勢、業界情勢、営業・商品知識
(3)謙虚たれ
(4)営業部門とは御用聞きのつもりで接するように
会長を退任後は、日本政策投資銀行の総裁に就き、08年の民営化後に社長として金融危機などの対応にあたった。柔道とワインを愛した人でもあった。

室伏 稔(むろふし みのる、1931年9月22日 - 2016年1月27日[1])は、日本の実業家位階従三位伊藤忠商事社長や、日本政策投資銀行社長、日本貿易会会長を務めた。

  1. ^ “室伏稔氏(元伊藤忠商事会長・社長)が死去”. 日刊工業新聞. (2016年2月3日). https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00373317 2020年2月18日閲覧。 
[ 前のページに戻る ]