掲載時肩書 | ニトリHG社長 |
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掲載期間 | 2015/04/01〜2015/04/30 |
出身地 | 樺太 |
生年月日 | 1944/03/05 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 北海学園大学 |
学歴その他 | |
入社 | 家業手伝い |
配偶者 | 見合い 8回 |
主な仕事 | 水道工事、家具、米国視察、チエーン化、インテリアも、海外調達、SPA(製造小売) |
恩師・恩人 | 渥美俊一 |
人脈 | 多田康郎、近江小波、松倉重仁、杉山清、白井俊之、遺産相続で母、兄弟と争議、 |
備考 | 「ゴルフしない、趣味もたない」主義、父母:元・闇米屋 |
1944年3月5日 – )は樺太生まれ。日本の実業家。株式会社ニトリの創業者で同社および持株会社である株式会社ニトリホールディングス代表取締役会長。日本チェーンストア協会副会長。ニトリは、インテリア小売業大手の企業である。「私の履歴書」に登場した小売業はダイエー(中内功)、セブン&アイ(伊藤雅俊、鈴木敏文)、イオン(岡田卓也)の4名だけであるが、百貨店も入れると、三越(松田伊三雄、坂倉芳明)、大丸(北沢敬二郎)、松坂屋(伊藤次郎左衛門、佐々部晚穂)となり、氏を入れて合計10名となる。
1.両親の鍛え方
子供だった昭和20年代は本当に苛酷だった。とにかくちょっとでもヘマをすると両親からは殴られる。今の時代なら虐待ととられるかもしれない。空腹のあまり「もっと食べたい」なんて言ったら、みそ汁をぶっかけられ、ぶん殴られた。
父からも月に一回ぐらい、気絶するぐらい殴られた。熱があっても手伝いは休めない。逆に「気が抜けている」とひどく叱られる。だから頭はいつもコブだらけだった。「これは愛のムチだ」なんて、考えたことはない。
2.妻の助け(8回の見合いで結婚)
「愛嬌があり、丈夫で長持ちする」妻が販売を、自分は配達・仕入れを担当することで、似鳥家具卸センターは軌道に乗った。振り返ると「内助の功」のエピソードは事欠かない。 結婚して間もない頃、“こわおもて”の客が「値段を半分にしろ」と怒鳴りだしたことがあった。「それはできません」と家内が答えると、その人たちは土足でソファの上に飛び乗り、真っ黒に汚してしまう。
家内は商品にならないので「弁償してくれ」と頼むと、逆に「俺を誰だと思っているんだ」とすごんでくる。家内も負けていない。お互いに言い争いをしていると、こわおもてはついに根負け。「家に取りに来てくれ、ソファ代は払うよ」という。家内が訪ねると、相手家にはドーベルマン2匹がいて、その犬に生肉を与えて、どう猛さを見せつける。少し家内をビビらせようと思ったのだろう。ところが家内はその姿を見て、冷静に「それは何の肉ですか」と訊いた。相手の客は「怖くないのか」と聞くので、家内は「肉が勿体ないですね」と答える。相手はすっかり拍子抜けして「お前はいい度胸をしている」と言い、ソファ代を払っただけでなく、親類縁者や知り合いを度々紹介してくれ、お得意様になった。
3.米国視察が転機
1973年、順調だった2号店の近くに1200坪の家具店が出店した。途端に売上高が20%減、30%減と落ち、資金繰りは悪化していった。赤字になり、金融機関から融資をストップされる。このままでは倒産する。もう死ぬことばかりを考えていた。
憂鬱な日々が続く中、家具業界のコンサルタントを務める人物から、米国の家具店を視察するセミナーの話を持ち掛けられた。米国の家具店を視察して驚いた。洋服タンスや整理タンスなど日本でおなじみの箱物家具がない。米国ではクローゼットの中に組み込まれているからだ。米国の家具は部屋単位でしっかりとコーディネートされ、ダイニングやリビングも美しい。しかも、日本価格の三分の一だ。これを日本に採り入れようと決意。同行の同業者もこれに賛同したが、実行に移したのは私だけだった。
4.渥美俊一先生
先生は東京大法学部を卒業し、読売新聞記者を経て経営コンサルタントになった人物だ。チエーンストア研究団体のぺガサスクラブを設立し、ダイエー創業者の中内功氏、イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊氏、ジャスコ創業者の岡田卓也氏らに大きな影響を与えた。「流通革命を起こし、日本に経済民主主義を植え付ける」というのが渥美先生の夢だった。
年に2回、春と秋に泊りがけのセミナーが箱根であった。異業種の社長や幹部と話すのはとても刺激的だった。500人ほど参加していたが、壇上に立つ渥美先生は「この中でものになるのは100人に一人だな。これは成功の法則だ」と厳しく言い放つ。先生の講義は現場経験がないのに壇上で上司と部下のやりとりする姿を実演するなどユーモアがあり、聞き惚れた。セミナー後も当初は年に3~4回講義を聴きに行ったが、後に月に一回と増えていった。
もっとも先生の経営理論は実践が難しい。商圏分析も人口特性、地理などに応じて分類し、5年後、10年後、15年後、20年後と人口動態を予測する。その上で20年後までの経営計画を立てる。成功するか、倒産するか、である。「ぺガサスクラブ加盟社に中間はない」と先生は言われた。
5.SPA(製造小売り)への転身し、世界で3000店、3兆円企業に
90年代後半に「海外輸入比率を50%にする」と決めた。商品も家具だけでなくインテリア全般となり、仕入れも国内から海外にも伸ばし最適調達先を求めた。そして現在はユニクロと同じように価格と品質をコントロールできるSPA(製造小売り)に転身させた。
ニトリは1972年に100店・売上高1000億円という計画を作り、2003年に1年遅れで達成。13年には300店を達成し、今(15年)は3000店・3兆円という次の計画へ向けて動いている。「成功の秘訣は何ですか」とよく聞かれるが、ロマンとビジョンを掲げ、「他社より5年先を行く」経営を進めてきた結果だと自負している。
似鳥 昭雄(にとり あきお、1944年3月5日[1] - )は、日本の実業家。株式会社ニトリの創業者で同社および持株会社である株式会社ニトリホールディングス代表取締役会長。日本チェーンストア協会副会長[2]。