佐々部晩穂 ささべ くれお

金融

掲載時肩書名古屋商工会議所会頭
掲載期間1961/12/08〜1961/12/31
出身地福岡県大和町
生年月日1893/03/26
掲載回数24 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他一高
入社日本銀行
配偶者田尻ー> 佐々部入婿
主な仕事大阪支店、英国支店、伊藤銀行ー>東海銀行、松坂屋、名古屋商工会議所会頭、中部日本放送
恩師・恩人伊藤次郎左衛門(妻縁戚)
人脈久米正雄・菊池寛・芥川龍之介(1級上)佐藤、石黒俊夫、一万田(同期)豊田 喜一郎・石黒俊夫・高山義三・森本寛三郎・酒井忠正(同期)
備考父・医師、
論評

1893年3月26日 – 1979年1月23日)は福岡県生まれ。実業家。1936年(昭和11年)、伊藤銀行(旧東海銀行の前身行、現三菱UFJ銀行)の副頭取に就任。戦後は松坂屋(現J.フロント リテイリング・大丸松坂屋百貨店)・東海銀行・中部日本放送(CBC)の各会長を歴任後、晩年は名古屋商工会議所会頭を務めた。また、CBC時代には毎日新聞グループの関連施設「毎日中部会館」の発起人を務めたこともある

1.伊藤次郎左衛門さんと佐々部家
昭和11年(1936)4月に日銀を辞め名古屋に帰ったのは、もっぱら養家の関係から先代の伊藤次郎左衛門さんに懇望されたからである。伊藤さんは若くして渋沢栄一さんの欧米視察団に参加し、帰朝すると周囲の反対を押し切って伊藤呉服店を株式会社組織に改め、古い座売りをやめて外国式のデパートを開き、売り場に初めて女店員を置いた人だった。また、名古屋商工会議所やロータリークラブの設立など財界や文化面で多方面に活動をされた方である。
 養家佐々部の先祖は毛利藩の士族で、300年ほど前、桑名に来て回船問屋を始め、その後、木材などをやったこともある。桑名地方ではまぁ旧家で、伊藤家とは二百数十年前から数代にわたり縁組を交わしており、私の妻の祖母は先々代の次郎左衛門さんの姉に当たる。岳父茂左衛門には二人の娘しかなかった。姉は端(たん)と言い、岡谷惣助さん(岡谷鋼機相談役)と結婚した。そのため私が妹の正子と結婚して佐々部家を継いだのである。同年7月、私は伊藤銀行副社長に就任し、松坂屋の監査役となった。

2.名古屋市街地域の爆撃惨状
戦時中名古屋には三菱重工、愛知時計など航空機の大工場があり、航空機生産の中心地だった。そのため、おそらく敵機の来襲も大都市としては一番回数が多く、被害も甚大だった。戦前、市の中心地は名古屋城を起点として「基盤割り」と称されたが、城を始め整然と並んでいた市街建築のほとんどが灰燼に帰した。1945年9月名古屋駅に降り立ってみると、広小路から桜通り、お堀の向こうあたりまで一望焼け野原だった。それまで住み慣れた東区白壁町の自宅ぐらいは助かると思っていたが、この一帯は焼夷弾ではなく爆弾で所々やられ、私の家は運悪くその爆弾のため蔵一つを残すばかりの見るも無残な姿になっていた。
 当時の愛知県知事は兄正五の縁でいまも親しく願っている吉野信次さんであった。もし、知事官舎が焼けたら、私の家を借りようと思っていたと言われたが、知事官舎も焼け失せていた。

3.民間放送の第一声は名古屋から
昭和24年(1949)12月、中部日本放送(CBC)創立事務局が設けられた。それまでの25年間、わが国の電波放送はNHKの独占に委ねられていた。ダイヤルも選択の余地がなく、いわば聞かされるラジオであって自由に選んで聞くラジオではなかった。戦後、その電波が広く国民に解放される機運が生まれたのだ。
 25年1月には発起人総代の三輪常次郎さん(興和紡会長)が病気のため商工会議所会頭を辞任され、同時に発起人総代も辞退されたので、代わって新会頭に伊藤次郎左衛門(松坂屋社長)さんが就任し、発起人総代になられた。伊藤さんの推薦で私はCBC社長就任を要請された。幸い地元財界の積極的な協力を得て、資本金8千万円の満額払込みにこぎつけ、25年12月にやっと創立総会を開いた。翌26年1月鳴海放送所の建設にとりかかり、4月に予備免許を受けて日本民放第一号を意味するJOARのコール・サインをもらった。5月に新栄町の本社と演奏所が完成し、8月に本免許を受けた。 
こうして26年9月1日午前6時30分、民間放送の歴史的な第一声を東海4県135万世帯のサービスエリアに送ったのである。創立総会後、わずかに9か月半であった。

佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 1979年1月23日)は、日本実業家。元中部日本放送初代社長。元名古屋商工会議所会頭。元大同大学理事。

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