桂米朝 かつら べいちょう

映画演劇

掲載時肩書落語家
掲載期間2001/11/01〜2001/11/30
出身地中国大連
生年月日1925/11/06
掲載回数29 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
大東文化大学
学歴その他
入社飾磨区役所
配偶者OSK スター
主な仕事米団治入 門22歳、ラジオ(構成・台本・選曲)、上方落語協 会、米朝落語研究会(230回)、6日間18話、米朝落語全集(134編)
恩師正岡容、 桂米団治
人脈小沢昭一、小松左京、弟子(月亭可朝、枝雀、ざこば)、安藤鶴夫、会田雄仁、高田好胤、朝比奈隆、永六輔、江国滋、茂山千之丞、
備考父神主
論評

1925年(大正14年)11月6日 – 2015年(平成27年)3月19日)は旧関東州(満州)大連市生まれ。落語家。出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』。現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。

1.生涯の師・正岡容
学生時代、「また遊びに寄りなさい」の先生の言葉に甘え、しばしば出入りするようになった。私の書生っぽい落語論を面白上がり、最近の見もの、聞きものを教えてくれた。自分でも一時は落語家を目指して三代目三遊亭円馬に師事したぐらいだ。その舞台評は厳しくも的確だった。先生が没して久しいが、今日に至るも正岡容一門の絆は固い。小沢昭一、加藤武、大西信行、永井啓夫らあまた門人が集まれば、親分の悪口を肴に宴果てることはない。
 正岡先生は異能であった。19歳で歌集、20歳で小説「影絵は踊る」を、また小説「円太郎馬車」は古川禄波で、「粂八ざくら」は水谷八重子で、「灰神楽三太郎」は三木のり平で芝居になった「寄席囃子」「寄席行灯」といった随筆もある。また、歌謡曲を30曲ぐらい作詞した多芸多才の売れっ子だった。なんといっても先生の名を天下に知らしめたのは「天保水滸伝」の浪曲、玉川勝太郎の「利根の川風袂に入れて」だ。

2.上方古典落語の復活
1960年(昭和35)、私も30代の半ばになってきた。上方落語の足取りも年々確かなものになり、私は中堅として寄席にラジオ、テレビに頻繁に顔を出すようになった。この機会にかねての宿題を実行に移すことにした。滅んだ上方落語の復活である。もともと上方は東京と比べネタの数ははるかに多かった。
しかし、噺家は減ったし客層も変わった。高座にかかるのは一部の演目ばかりだ。せっかく復興してきたというのに、これではいつか飽きられてしまう。古いサゲが通じなかったら変えたらいい。現代人の共感を呼ばない展開なら再構成したらいい。そんなネタがいくつか貯まってきた。それを愛好家に披露して批判を仰ぎたかった。世話人を古典芸能の演者にして落語ファンの茂山千之丞、片山博太郎(現九郎右衛門)のご両所と、演劇評論家の山田庄一、権藤芳一さんにお願いした。会の名は「珍しい上方落語を聴く会」。
京都・観世会館のけいこ場を借り、40,50人に案内したところけっこう来てくれた。

3.大阪フィルを指揮(ひょうたんから駒)
「男の三大願望とはプロ野球の監督にオーケストラの指揮者、そして風呂屋の番台」。1975年(昭和50)、大阪のあるパーティで酔いに任せてこんな挨拶をした。するとその場で、「それならタクト振ってもらいましょうか」と声がかかった。大阪フィルハーモニー交響楽団事務局長の野口幸助さんだ。その年、緊縮財政で助成金がストップされ、金集めに格好の企画と思われたらしい。
 クラシック音楽など、とだいぶ躊躇したが、結局引き受けた。しかし、やる以上は格好よくやりたい。落語の様に笑われたくない。さっそく大阪フィルを率いる朝比奈隆さんに特訓を受けた。「私の棒など誰も見なくても勝手に演奏するでしょう」というと、「そんなものではありません。メンバーはちゃんと棒を見てますよ」と睨まれた。この時の宣伝文句は「C(シー)調ではありません。B(べー)調です!」だった。

追悼

氏は、’15年3月19日89歳で亡くなった。「履歴書」に登場は2001年11月76歳のときであった。落語でここの登場は、三遊亭円生、柳家小さん、米朝、桂三枝の4人である。落語界では初めての文化勲章も受賞した。「履歴書」の語りも落語的であった。

「落語は所詮、お笑いぐさである。洒落が命のおどけ話だ。聞き手を物語の空間に遊ばせ、サゲ(落ち)でドンデン返しを食らわせる。背景もない舞台に扇子と手ぬぐい一本の素面(シラフ)の身ひとつ。殿様から遊女、長屋の酔っぱらいまで変幻自在の話芸のさえ、文字通り舌先三寸でお客さんを手玉に取る、それこそ落語家の理想だ」と説く。

OSA(大阪少女歌劇)のスターと結婚、新婚旅行では風呂からあがって夕食をとっていると畳の上に無数のアリの行列があり、何千、何万の2種類のアリが2匹づつ取っ組み合いの戦争をしていた。そこには死屍累々のアリが横たわっていたとの思い出。

一番弟子の月亭可朝、部屋住弟子の第1号の枝雀、2番のざこばなどの落語調の面白いエピソード。そして独演会で、毎日3席、6日間落語を続けていたところ、持病の脱肛が悪化し救急車で運ばれようとした時、小松左京が「ご出棺です」と手を合わせたので、思わず私も白いハンカチを取り出して自分の顔にかけたとか、落語を地で行く語りだった。

一番内弟子の枝雀の死を次の言葉で惜しんでいた。彼は熱中するとそれ一筋になる。義太夫に凝りだすと毎日通う。食べ物もそうだ。来る日も来る日も焼肉で痛風になり、今度はフグで、てっちりばかり。のみこみが早く、一を聞けばたちどころに十まで回転していた。ネタでも登場人物の心理の奥深くまで踏み込んでいく。「正法眼蔵」など仏教書を積み上げ、僧に憧れて托鉢に歩いたこともあった。彼は「理想は高く、自分には厳しく」が生き方だった。なんでも突き詰めてしまう性格であれば、滅多に満足することなどない。客席がどんなに沸いても本人だけは得心がいっていない。そういうところまで自分を追い込んでいた。私は彼を助けることができなかったと。

三代目かつら米朝べいちょう
三代目 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}桂(かつら) .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}米朝(べいちょう)
1947年から1950年ごろ撮影。向かって右の人物が米朝。左は3代目桂春団治(撮影当時は2代目桂小春)。
本名中川なかがわきよし
別名俳号:かつら八十八やそはち
ちゃーちゃん
べーやん
生年月日1925年11月6日
没年月日 (2015-03-19) 2015年3月19日(89歳没)
出生地関東州大連普蘭店
(現:中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区
師匠4代目桂米團治
弟子桂枝雀
桂ざこば
桂吉朝
5代目桂米團治ほか
名跡1. 桂米朝(1947年 - 2015年)
活動期間1947年 - 2015年
活動内容上方落語
家族五代目桂米團治(長男)
所属千土地興行(1947年 - 1974年)
米朝事務所(1974年 - 2015年)
公式サイト米朝事務所
主な作品
地獄八景亡者戯
百年目
菊江仏壇
一文笛
受賞歴
1987年紫綬褒章
1996年人間国宝
2002年文化功労者顕彰
2009年文化勲章
2015年従三位
備考
上方落語協会副会長(1957年 - 1977年)
上方落語協会相談役(1977年 - 2015年)

3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年大正14年)11月6日 - 2015年平成27年)3月19日)は、日本落語家。本名、中川なかがわきよし出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』[1]俳号は「八十八やそはち[2]。所属は米朝事務所。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。

関東州満州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学非常勤講師を務めた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。

若い頃から尼崎市武庫之荘に在住し[3]、同町の発展や景観維持などにも貢献していた[4][5]

  1. ^ 従来用いた『三下り鞨鼓(三下りかっこ)』は、2008年(平成20年)10月に息子の桂小米朝5代目桂米團治を襲名する際に譲った。[要出典]
  2. ^ 米朝の米という字を崩した名。
  3. ^ 2012.02.28 「わが故郷、武庫之荘」
  4. ^ 桂米朝さんの功績を後世に 尼崎・武庫之荘で常設展
  5. ^ 「武庫之荘」駅前の桜並木
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