三遊亭円生 さんゆうてい えんしょう

映画演劇

掲載時肩書落語家
掲載期間1973/12/07〜1973/12/31
出身地大阪府
生年月日1900/09/03
掲載回数25 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社5歳義太夫
配偶者ふとん娘21歳
主な仕事10歳噺家、落語研究会、真打20歳、寄席経営、麻雀屋、終戦後大連(3年間)転機、舞台・テレビ出演、御前口演(初)
恩師・恩人橘円蔵
人脈一竜斎貞山、柳家小さん、志ん生、金語楼、森繁久彌(アナ)、伊東深水
備考好敵手:志ん生
論評

1900年〈明治33年〉9月3日 – 1979年〈昭和54年〉9月3日)は大阪市生まれ。落語家、舞台俳優。東京の新宿に長年住み、当時の地名から「柏木(の師匠)」とも呼ばれた。昭和の落語界を代表する名人の一人と称される。5代目三遊亭圓生は継父、5代目三遊亭圓窓は義理の叔父にあたる。生活が苦しく落語家を断念し以前から稽古に通っていた舞踊家へ転身を図ろうとした矢先、継父5代目圓生が逝去し母を含めた家計を助けなければならなくなり舞踊家は断念し1941年(昭和16年)に当時所属していた落語協会の会長の6代目一龍斎貞山の勧めで6代目三遊亭圓生を襲名した。

1.小学校時代の生活
夜寄席に出て、そのハネが10時半ごろだから、夜の食事をして家族と寝るのは1時を過ぎてしまいます。それで翌朝6時には起きて、朝のお稽古に行くんです。当時は早朝7時半までは、割引電車がありまして、往復9銭なのがたしか5銭になった。貧乏だからいくらかでも倹約しようというんで、時間ギリギリにその電車に乗って踊りの稽古に行く。それが済むと、こんどは浪花町から円馬さんのいた三筋町まで毎日歩くんです。覚えてきた踊りの稽古をしながら、あるいはまた噺の稽古をしながら行く。その時分になると、もう11時で、おなかがすいてくるのでよく一つ2銭の甘食パンてぇのを買いましたよ。
 円馬さんの所で噺の稽古が済んで、1時半かそこらに出て新宿に帰ってくると二時半ごろになります。すると家庭教師が来ていて、まず墨をすってお習字が始まるんです。もう眠たくって墨をすりながら居眠りをすると叱られます。それから読本を読んだりなんかする。そういうことを何年かかったのか知りませんが、小学6年までの力は、どうやらそれで身につけたというわけです。
 先生が帰ってからお湯ゥへ行って夕飯を食べると、もう寄席に行かなくちゃならない。当人としてはまるっきり遊べない。ほかの子供が遊んでいるのを見ると、「あぁ、おれもああやって遊びたいなぁ」と羨んだ。

2.芸への恐怖心
あたくしは前座の修行をやってないんです。初めて円童の芸名で出たときから、いきなり二つ目ですから・・・。相撲で言うと付け出しってんですか、序の口から取らなくて、いきなり序二段とか三段目が取れるというのです。ある面では非常に恩恵なのですけども、本当はやはり正式に前座からやらなくちゃいけんないもんだと思いますね。
そんなことで、おいおい大きくなっていったわけですが、子供の当時、あたくしは少しお天狗になって、先輩芸人はみんな聞いていても話がうまくないんですね。おれは子供で、まだ何年もやっていないのに、このくらいできる、それなのに大人芸人はどうしてみんなまずいだろうと思って、子供の天狗てえやつ・・・・。これが本当の小天狗ですよ。
ところが、これが16ぐらいになったとき、自分のまずいってことがわかった。つまり、芸に対する第一波の恐怖心が来たわけですね。自分がうまい上手いと思っているときは、逆に芸は下がるもんですってね。おれはまずいとか、いけないなと思ったときは、逆に芸は下がるもんですってね。おれはまずいとか、いけないなと思ったときが、つまり芸が上がる。本人の意識したこととは逆なんですね。おれはうまいうまいいってぇやつに、余りうまいやつはいない。ですから、その恐怖時代ってえものが来なくちゃいけない。ところが、生涯これができない人があるらしいんですな。おかしなもんですよ、そういう人は絶対にうまくならない、おれはこんなにうまいのに、どうして世間で用いないだとグチばっかりこぼしている。けれども本当に当人の言うとおりだったら、持ちないわけがないですよ。何の社会にも、そういうことはあるんでしょうが・・・。

3.円生襲名の不安
昭和16年(1941)、おやじ(師匠)の一周忌が済むと、ある日、会長の一龍斎貞山さんから呼ばれまして、「円生を襲名したらどうか」という話なんです。あたくしは即座に「それはいやです」と言った。
 それまでの円蔵という名前は師匠の名前でもあり、あたくしは好きなんです。それに円生という名前は三遊の宗家の名前で、そんな大きな名前を継ぎたいなんて毛頭思わない。円生は代々名人が出ているし、おやじだってまァ円生代々の中に入って恥ずかしくないだけの噺家です。そんな名前を芸の少しも自信のないわたくしなぞが継いで、失敗すれば円生の名前を小さくするばかりか、円蔵の名前まで傷がついてしまう。ふつう改名しろと言われると喜ぶんですけれどもね。この時ばかりはわたくしはいやでしょうがなかったんです。それでも貞山さんはたって勧めるし、ほかからも「今、会長の貞山に逆らうってことはよくない」なんて言ってくれる人もありまして、よんどころなくもう背水の陣で、円生と改名いたしました。これが昭和15年の5月のことです。
 いやいや円生になったけれども、自信はないし、何が何でももっと勉強しなけりゃいけないと思っていると、神田の花月という席で独演会をやってくれという話が出てきました。第一日曜が志ん生師匠、第三日曜が小さん師匠、その間の第二日曜に、あたくしに独演会をやれという。ところが、この独演会で、それまで多少ともあったうぬぼれの鼻をはっきり折っぺしょられたんです。

追悼

1.芸の転機は満州(中国東北)行き
昭和20年(1945)始めごろは空襲も激しくなって、内地にいたって、席場もどんどん焼けてしまうし、これから先どうなるかもわからない。そんなことなら・・・てんで引き受けたんです。二か月で帰ってこられると話で、志ん生、講談の国井紫香、それに漫才も入って、5月6日に新潟から船で出発しました。
 各地をまわり7月5日に、さぁ東京に帰ろうとすると、船は沈められるからダメ、なんとかなるまで新京で待機することになった。すると新京の放送局から、志ん生と私に放送に出ろといわれ、その時のアナウンサーが森繁久彌さんでした。8月になると、今度は二人会でまわったらどうかという話になり、奉天に行きました。そのホテルに泊まった翌朝、「ゆうべソ連から宣戦布告」と知らされました。そして終戦です。
 それから大連や各地の観光協会をまわって噺をしたり、騙されたりいろいろな苦労をいたしました。初めの2か月の予定がとうとう足掛け3年も向こうにいたことになります。無事に日本に帰れたのも運ですね。

2.芸の神髄開眼
落語ってぇものは笑うもんだとばかり思っていらっしゃるお客様もあるが、やはりその中の人物の哀れさというものもなくっちゃならない。笑う中でも、噺の人物の心持になってホロッとする所があってもいいわけなんですが、これは言うべくしてなかなかなまやさしいことではない。けれども自分が本当にその人物になり切って噺をしていけば、人情が移って思わず涙ぐんでくるという所も出来るわけなんです。あたくしもそれまではそういうことが出来なかったが、いくらかできるという自信がついたから、それからはそういう系統の噺をするのが自分でもおもしろくなってきました。
 満州に行く前と帰ってからとでは、あたくしの人の芸に対する見方もだいぶ変わりました。あたくしは芸の神髄をはっきりと悟ったわけです。

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