早石修 はやいし おさむ

医療

掲載時肩書生化学者
掲載期間2006/03/01〜2006/03/31
出身地アメリカ合衆国
生年月日1920/01/08
掲載回数30 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
大阪大学
学歴その他大阪高校
入社助手
配偶者医学部 長娘
主な仕事基礎医学、米国留学、英国NIH,ランチセミナー、京大教授38歳、阪大教授、東大教授、国際生化学連合会長、睡眠ホルモン、バイオサイエンス研究所
恩師・恩人谷口腆二教授、古武弥四郎教授、コーンバーク博士
人脈佐治敬三、福井謙一(高1上)、服部正次、平澤興、本庶佑、上野隆司、森下弘、山村雄一
備考教授130名(東大・京大・阪大など)輩出
論評

1920年1月8日 – 2015年12月17日)はアメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。医師、医学者。専門は生化学、医化学。京都大学名誉教授、大阪バイオサイエンス研究所理事長。医学博士(1949年、大阪大学)。

1.発疹熱の大流行阻止
1943年春、当時の日本領最北端、千島列島の占守(しむしゅ)島に海軍の軍医長として赴任した。阪大医学部卒業の翌年だった。まもなく、千島列島一帯に原因不明の奇妙な熱病が流行し始めた。みるみるうちに軍人・軍属に拡がり、死者も増えていく。軍艦内の生活が基本の海軍は伝染病を極度に恐れる風があり、パニックに陥った。だが、離島に満足な医療設備はない。診断や治療はおろか予防のメドも立たない。
思案に暮れていると、阪大時代に出入りした微生物研究所の恩師・谷口腆二先生の言葉をふと思い出した。「中国東北部に発疹チブスの亜型ともいうべき発疹熱という伝染病があり、戦地では注意するように。症状は穏やかだがそれだけに感染が早く、シラミに媒介されて集団発生する」。
早速、築地の軍医学校に「ワイル・フェリックス反応試薬」を要請し、取寄せた。患者の血清を調べると、予想通り、陽性反応が認められた。「発疹熱と断定。千島全域を流行地域に指定して艦内の検疫を厳重にし、シラミ駆除を励行するように」。勇んで報告した。DDTのない時代。寝具や衣服のシラミを熱湯で駆除するのに五右衛門風呂のような消毒槽を使った。慣れない仕事に奔走していると、流行は終息した。

2.コーンバーグ博士(ノーベル受賞者)のランチセミナー
1950年末、首都ワシントン郊外の米国立衛生研究所(NIH)に移った。毎日正午になると、研究者の面々が緊張した表情でセミナー室に集まってくる。発表者が口火を切る。「この論文は着想は優れているが、実験方法がてんでなっていない。私なら別の実験で裏付ける」。研究部長のアーサー・コーンバーグがやり返す。「いや、仮説自体に飛躍があるんじゃないか」。土日を除く毎日、サンドイッチなど軽い昼食をつまみながら約1時間ひらく勉強会「ランチセミナー」である。
みなぎる緊迫感に圧倒された。当番研究者が最新の論文を一つ俎上に載せ、着想や方針の立て方、実験の細部、結論を導くにいたった過程などを徹底的に分析する。参加者は鋭い批評眼で討論に加わり、喧々囂々の議論が続く。その真剣さは研究所全体に知れ渡っていた。ランチセミナーは実践的な訓練の場だった。切磋琢磨しながら「真の独創性とは何か」を学んでいくところだった。

3.睡眠の不思議・・(眠る脳)と(眠らせる脳)の発見
睡眠は医学研究のブラックホールだった。眠りとは何か。人はなぜ眠るのか。眠りすぎる病気や不眠はなぜ起きるのか。このなぞ解きを、大阪バイオサイエンス研究所に移って取り組んだ。
この成果は1991年8月、有力学会誌「米実験生物学連合会誌」の表紙を飾った。睡眠と覚醒をそれぞれ表すコミカルなイラストと共に掲載された。内容を説明すると、「眠る脳」と「眠らせる脳」があったのだ。脳を饅頭に例えてみよう。餡(あん)に相当するのは俗にいう脳みその部分だ。「脳実質」と呼ばれ、神経細胞がびっしり詰まっている。その周囲はくも膜(軟膜)という一種の保護膜で覆われていて、饅頭の皮に当たる。ちなみにこの下を通る血管が破れると、脳卒中の一種であるくも膜下出血が起きる。
私たちは当初、睡眠調節の主役は餡の部分が演じていると考えた。睡眠物質を作る酵素もそこで作られるはずだ・・と。だが実験の結果は逆だった。酵素は脳みそにはほとんどなく、軟膜にたくさん存在していた。餡が「眠る脳」とすれば、皮が「眠らせる脳」だったのである。
「眠れ」という信号を伝える経路も分かった。くも膜で作られた睡眠誘導物質は、膜の下を満たしている脳脊髄液によって前脳の基底部に運ばれ、そこで信号が発信される。するとアデノシンという第二の睡眠物質を介して脳の睡眠中枢が刺激され、睡眠が引き起こされるのである。

追悼

「酸素添加酵素」の発見と研究により文化勲章を受章した氏は、’15年12月17日95歳で亡くなった。

氏の「履歴書」の執筆は2006年3月で86歳のときであった。「履歴書」に登場した医師は、田崎勇三武見太郎緒方知三郎冲中重雄榊原仟塚本憲甫大塚敬節山村雄一日野原重明杉村隆斎藤茂太岸本忠三石坂公成、早石修、利根川進の15名である。現在795名の「履歴書」執筆者がいるが、早石氏から影響を受けたと書いている人物に、宇野収(東洋紡相談役)、渡辺格(分子生物学者)、岸本忠三(阪大学長)、野依良治(理化学研究所理事長)らがいる。

42年に大阪帝国大(現大阪大)医学部を卒業、米国留学後、米国立衛生研究所(NIH)の毒物学部長に就任した。そのとき阪大恩師・古武弥四郎教授から譲られた焼け跡から採集の細菌を生体内の呼吸など活動にかかわる酸素添加酵素(オキシナーゼ)の存在を証明して世界に評価を高めた。帰国後の58年に38歳の若さで京大医学部教授となった。

担当する医科学教室は助手や大学院生を含め総勢8人だったが、4年前に公開された黒沢明監督の映画をもじり「七人の侍」と意気込んだ。そして米国のコーンバーグ教授(ノーベル医学賞受賞者)で学んだランチセミナーを採用し、さっそく授業を始めた。毎日正午から1時間、当番が最初の論文を採り上げ、着想や方針、実験から結論を導く過程について弁当を食べながら徹底的に討論する勉強会だった。この評判を聞きつけて、翌年から他大学や企業、海外から客員研究員が押しかけてきた。教室は若い研究員の熱気にあふれたという。この成果は、七人の侍から始まった教室の陣容はすぐに50人を超え、のちに兼務した阪大教授、東大教授を含めると、門下生から130人を超える大学教授が誕生した。これを人は「早石道場」と呼んだ。

われら六稜人[26]科学を志す人のために:早石 修さん(INDEX) (rikuryo.or.jp)

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